<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

安心を吸う

2015年12月31日 20時59分17秒 | Weblog

息を吸うことは安心を吸うということだ。息を吸っていながら、息を吸っていないとは言えまい。安心を吸っていながら、吸っていないとは言えまい。息を吸っておのれの全身に仏を満たしているのだ。仏の力を満たしているのだ。活動の力を満たしているのだ。息を吐くということはそれを信じたということだ。すっかりお任せをしたということだ。

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常に守られているのだ

2015年12月31日 20時50分15秒 | Weblog

息が吸えるということが仏に守られているということである。空が広がっているということが仏に守られているということである。大地に立っているということが仏に守られているということである。今日を生きたということが仏に守られていたということである。こうして常に仏にしっかり守られているので安心をしていていいのである。

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誰人も常に仏とともにある

2015年12月31日 20時17分01秒 | Weblog

為我現身 入我我入 仏加持故 我証菩提  「舎利礼文」より

仏は我が為に身を現して、我に入りたまい、我を仏に入らせたまふなり。かくまでも仏の我を加持したまふが故に、我は今日も菩提を証せり。

仏はこのさぶろうの為に大宇宙という心身を現して下さった。そしてさぶろうの心身に入られた。またさぶろうを大宇宙に入らせられた。このように仏はさぶろうを加持して下さるので、さぶろうは仏の智恵である菩提をこの身に証すことができている、今日ただいまも。入我我入は呼吸のことである。息を吸うと仏がさぶろうの宇宙に入りになり、息を吐くとさぶろうが仏の大宇宙に入って行くのある。かくて24時間365日の一生涯さぶろうは仏と常にあるのである。この身に菩提を証すとは、大宇宙のもとに明るく生かされているというそのことである。加持とは仏がさぶろうを守って守って守り抜くということである。

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大晦日の夜は静かに過ごす

2015年12月31日 19時54分47秒 | Weblog

外周りの大掃除をした。落ち葉を掃いて掃いて掃いた。すっかり綺麗になった。見違えるようになった。箒の掃き目に満足した。清浄になった。これで正月が迎えられるわい。おいでなんせが言える。ついでに草取りを加えた。落ち着いた。夕食は蕎麦を啜った。風呂も浴びた。もう寝る。大騒ぎするテレビは見ない。わざわざ騒がなくったっていい。さぶろうはさぶろう。ひとり静かに瞑想でもしよう、しばらく。明日はお正月である。目覚めたらだが。過ぎた一年に感謝する。

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天界から降りてきて仕えてもらうご身分

2015年12月31日 12時01分32秒 | Weblog

12時。市役所のチャイムが鳴った。もういいだろう。そろそろ起きよう。腹が減った。飯を喰う仕事があった。まだあった。よし、昨日ついた蓬餅を焼いて黄粉でいただこう。乙なもんだ、まったく。家内殿はずっと台所仕事。ぐうたら亭主に雷が落ちて来ない。なかなか人格円満な方である。これまでがみがみがない。天界から降りて来て仕えてもらうご身分のさぶろう。さすがの彼も、いささか居心地が悪い。

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よくよく運のいい男だ

2015年12月31日 11時42分33秒 | Weblog

ほかに何かをしなくちゃならないということがない。それをしなくちゃ死ねないということはない。もう死んで行ける。楽楽と。お迎えを待っていい。できれば、ころりがいい。寝付くのはご免だ痛いのもご免だ。朝になったら冷たくなっていたというのがいい。そおら、例の我がままだ。この期に及んでもまだ、あれこれ注文を付ける。しかし、よくぞよくぞ今日までを生かされて来た。このぐうたらのさぶろう、よくよく運のいい男だ。もうするべきことがない。明日は正月だというのに、やつはぐうぐう寝てばかり。

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大の大の領収書を書いておしまい

2015年12月31日 11時29分24秒 | Weblog

だよなあ。過分だよなあ。分に過ぎているよなあ。もらっていい分はみんなもらった。授かる分はみんな授かった。欲しがる分はみんな頂いた。なにしろ70年間請求し続けて来たからなあ。あれやこれやと請求してその通り満たしてもらって来たからなあ。請求書の山だらけだ、そこら中。もう尽きていい頃なんだよなあ。文句は言えないよなあ。大の大の領収書を書いておしまい。ここへ来ているんだろうなあ。

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既に幸福も幸運も尽くしたり

2015年12月31日 11時08分31秒 | Weblog

寝てる。朝寝を寝てる。ぐうぐうぐう。いい気なもんだ。わが晦日はこんなふう。だらしがない。ぐうたらの極みつき。老夫婦二人には張りがない。昼からは外周りの掃き掃除をしよう。ぐるり一周だから3時間は見ておかねばなるまい。それから車掃除もしよう。正月のご馳走は用意しなくていい。餅でいい。雑煮があればいい。長生き正月の目出たし目出たし。空を見て山を見て木を見て草を見て、笑うておればいい。わははわははわはは、だ。すでに幸福も幸運も贅沢も尽くしたり。

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死出の旅

2015年12月31日 06時06分04秒 | Weblog

迷妄の長いトンネルを抜けるのである。やっと抜けるのである。輝きの明るさがもろに歓喜に変わる。それまでの死の恐怖が嘘のようだ。ああ長い夢を見て来たのだ。それが分かる。はっきりとした解答を得たのだ。悟道したのだ。輝きがいよいよ輝き渡る。輝き渡っ輝きに包まれていたのが今度はそれで浮き上がって軽くなる。上昇気流に乗って運ばれて行くようだが、安らかなものだ。やがて仏陀との対面になる。さぶろうは歓喜の頂点に来る。

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白椿

2015年12月31日 05時44分32秒 | Weblog

さみーい。寒くて口がうまく開かないのでこうなる。尻を出して女座りで排尿する。こうだとふらつかないですむ。力が籠もる。それでもちびりちびりで長いけど。床を汚さないですむ。その代わり寒い。さみーい。半分の目が全部覚める。トイレの中には椿が活けてある。開いた白椿の白が鮮やかである。花片の重なりが深い。

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