自利利他は畢竟一如のはず。怠け者のわたしなんかはそう思う。
自利の内側にも利他がおのずからにして存在していると思う。そうであるのに、大乗の修行僧達は利他へ利他へ駆り立てられる。
蝋燭の明かりは明るい。仏陀から拝領する智慧の灯りは明るい。それで己という一本の蝋燭に火が灯されたら、それでもう四方が明るくあたたかくなる。最澄は「一隅を照らす」人を宝とした。
自利利他は畢竟一如のはず。怠け者のわたしなんかはそう思う。
自利の内側にも利他がおのずからにして存在していると思う。そうであるのに、大乗の修行僧達は利他へ利他へ駆り立てられる。
蝋燭の明かりは明るい。仏陀から拝領する智慧の灯りは明るい。それで己という一本の蝋燭に火が灯されたら、それでもう四方が明るくあたたかくなる。最澄は「一隅を照らす」人を宝とした。
自未得度先度他(みみとくどせんどた)。自らは未だ渡るを得ざるに先ず人を渡せ。
己の修行を二の次にして、目の前にあって苦しむ弱者を救済せよ。
彼らは利他行(他者を救済する行動)へ駆り立てられる。
静の尊重よりも動の尊重が高くなった。
仏道の眼目は己の中のニルバーナ(寂滅為楽=悟りの智慧)ではなくなって行く。
一人の中の寂静よりも菩薩行の行動が値打ちを持つようになった。人を救うことがもっとも大事なことだと。
行動者は忙(せわ)しくなった。追い立てられて多忙になった。
今日何かをしていないと仏道を歩んでいることにはならないのだ。
今日することがある。今日の今日することがある。
誰もが、救済を待たれている今日を、疎かにはできない、と。
法華経は実践を声高に叫ぶ。一人の幸福に浸ることを目指さずに、多くの人の不幸にこそ目を向けて行け、と。
法華経の信奉者だった宮沢賢治は、「世界中が幸福にならない限り」ひとりわたしの幸福は味わえないとした。
実践行へ進まねば、すべてが嘘になる。
過去が消えてしまう。努力の過去が抹消されてしまう。
修行僧達はこうして村へ町へ入る。修行の山を下りて人の中に入るべし。
釈迦の時代を遙かに過ぎて、大乗仏教運動が起こった。
今日私は何をしよう。私は何をしよう。
何かをしないといけないのか。
何かをしないといけない。そうしないと、生きていながら、生きていることにはならない。そういう理論に追い立てられる。
午前4時を回った。そろそろベッドに戻ったらどうだ。パソコンを見ている目が疲れた。案外眠れるかもしれない。
雨の音がしだした。風の音も僅かに。台風12号はまだ九州をうろうろうろつき回っているようだ。
次の投稿記事が消えてしまった。このパソコンはよくよくフリーズする。よく消える。
起承転結の結の部分はなし、ということになる。
ふん。結がなければ死なないことになる。そういう解釈でもするか。
随筆集を畳む。
自分はどんな父親としてこどもたちに想い出されるのだろう。さいわい、自分には息子が生まれていない。息子から見た「父の像」とは、一人の女を追い求めるライバルの像だ。
娘ばかりを産んで幸いだったかもしれない。
そんな話の何処が面白いか。面白くなかったのである。読まねばよかったと思う。
不憫な父。だらしない父。愛の谷間を彷徨う狼のような父。エッセイストはそんな父親像を見事に浮かび上がらせる。
でもそんなだらしない父がいたからこそ、おとこたちはその父を楽々乗り越えることもできたのではないか。