明日から8月。そう。だから、今日は7月の最後の日。蝉の鳴き方鳴き具合からすると、今日も暑くなりそう。もう長いこと庭に下りていない。畑にも。仕事着に着替えたことすらもない。やる気なし、なのである。だから、庭も畑も荒れ放題。夏草の天下統一が成立している。下りていこうにも、足の踏み場すらなくなっている。もう人の住まない廃屋同然である。通り掛かる人はこの家を怠け者の住み家と思うことだろう。草に混じって庭には鹿の子百合、鬼百合、百日草、鳳仙花、マリーゴールドなどが咲き誇っている。畑には南瓜、冬瓜、ズッキーニ、玉蜀黍などの花々が控え目に。9月になれば冬野菜の植え付け準備に取り掛からねばならない。それまでには幾分か涼しくなるだろう。8月は僕は隠者を装うことにする。装わなくとも十分に世捨て人なのだが。
死んだ弟の法名は「釈信慧信士」。遺影が我が家の仏壇にも飾られているので、ここに座ると声を掛ける。生きているときの実名で愛情を込めて呼ぶこともあるが、読経の時には敬って法名で呼ぶ。実にいい名だ。彼は晩年に仏教系の短大の仏教学部に再入学して僧侶の資格を取った。もちろん京都の本願寺で研修も受けて。資格を得たのだが、お寺に入って住職になることはなかった。ただ我が家の仏壇に座って、父の命日母の命日に読経と説法をしてくれた。法衣を来て畏まって。活動はそれだけだった。弟とは4才違う。小さい頃には兄弟喧嘩もした。よくした。長じてからも時々衝突することがあった。しかし、いざ死なれてみると寂しくなった。遊ぶ相手も喧嘩する相手もいなくなったということを実体験する。ああもっと兄らしいことをしてあげればよかったと悔いることも再々ある。旅へ出るとき、温泉に入りに行くときなどに、「おい、ついてこないか」と声を掛ける。ついてきているような気持ちになる。寂しさが、すると幾分か和らぐのである。
海は広いな 大きいな 月は昇るし 日は沈む
お馴染みの「海」という童謡の歌詞である、これは。これを歌うと、そこに広い大きな海が広がってきて、真っ赤な朝日が昇り夕日が沈み、明るい月が昇って行く。家族が出払って一人の時に、高らかに歌ってみる。超スローテンポで。そしていい気持ちにさせられる。つくづくいい歌詞だなあと思う。短い詩の中に風景が歌われている、実に見事に。難しい言葉はない。難しい理屈もない。それなのに歌いたくなる。歌の中に吸い込まれて行きたくなる。こんな詩が書けたらいいだろうなあと思う。
「きみを待つ人の一人よあらはれよあらわれよ」とぞ街角が云ふ 薬王華蔵
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ブログの話題が乏しいので、それで昔に書いた我が短歌を記憶から引き寄せて投稿しています。上手下手を問うものではありません。書くための話題に出来ればそれでいいのです。短歌は31文字の中にいろいろなことが盛り込められます。恋の歌を取り上げていますが、この方が比較的明るいからです。恋をすべきだということは理解していますが、実行は全く伴っていません。まったくお粗末です。
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回って行く街角がその都度おしゃべりをするわけではありませんが、味方をしていてくれそうな気もします。「あなたは人を待っているのでしょう? そのあなたのお目当ての一人が出現してくれることをわたしたちもこうして待ち望んでいます」街角が人格化されてわたしに問うて来る。回る度だから、「あらわれよ」を繰り返してその動静をそこに醸し出そうとしました。
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「人は人を求めるために生きている」という信条は、わたしの場合は希望的観測なのですが、是はこうであった方がいいはずです。暗い生き方、人を拒否する生き方よりも明るい方向、人を迎え入れていく方向へ進むのがいいのです。
夕暮れ。そろそろ7時。腹が減ったなあ。まったく働いていないのに、ごろんごろんして怠けているばかりなのに、腹だけは一人前に減る。ぐうと鳴っている。今夜の夕食は何かなあ。畑の収穫物が山ほどあったので、たぶんそれが材料になっているはず。オクラを焼いてあるだろう、きっと。茄子の料理が出来上がっているだろう。ズッキーニの入ったスープもあるかも知れない。スライスした胡瓜。ご飯は牛蒡と鶏肉を混ぜた混ぜご飯がまだ残っているはず。それから小鰯を唐辛子を入れて甘辛く煮たのも残っていたぞ。兎に角腹減ったなあ。ところがまだ「ご飯ですよ」の呼び声がない。ちょっとは涼しくなっているから、家族の者は畑に出ているかもしれない。老いたわたしは労働意欲がすっかり喪失したままだ。今日も日が暮れた。ぐうたら上手はぐうたらぐうたらで一日が暮れた。
良寬様はもうずいぶん老いておられます。ちょうどわたしの今の年齢くらいでしょう。お腹が弱くてしょっちゅう下痢に悩まされておられます。すっかりお痩せになっておられます。一人の夜には夢がお供をします。思い出が夢の舟に乗って遊んでいるようです。これも或る日の思い出であるかもしれません。これをこんな漢詩にまとめられました。
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孟夏(もうか)芒種(ぼうしゅ)の節、錫を杖にして独り往還す。野老たちまち我を見、我を率いてともに歓をなす。蘆はい(草冠に発の古い字)(ろはい)いささか蓆(むしろ)をなし、桐葉(とうよう)もって盤に充(あ)つ。野酌(やしゃく)数行の後、陶然として畦を枕として眠る。 良寬様の作られた漢詩より
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孟夏とは初夏のこと。「芒種の節」とは穀物を播く時期のこと。夏の初めだから稲の苗が広がっていただろう。錫杖はお坊様がついておられる虫除けの杖。「往還」は行ったり来たりすること。散歩をなさったのだろう。野老は年を取ったお百姓さん。蘆(ろ)は葦草(あしくさ)のこと。「蓆をなす」とは蓆にして尻に敷いたということだろうか。桐の葉は広いからここには酒の肴が載る。何だったんだろう。炒り豆などだったかも。野酌(やしゃく)とは畦道で飲むお酒のことか。それとも盃のことか。数行とあるから何度か酌み交わされたのであろう。
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夏の初め頃だっただろうか、稲田の畦道を一人、雲水の杖を突いて歩き回っておったらば、田圃で仕事をしている農夫がわたしを呼び止めた。そしてわたしの手を引いて行ってあれこれの歓談となった。道脇には葦があってのでこれを抜いて筵として、林の桐の葉を摘んでお盆代わり。ここに炒り豆を載せてさっそくどぶろく盃を交わし合った。わたしは直ぐに酔いが回っていい気持ちになったので、ままよ、畦を枕にしてごろんとなったら、いつのまにか眠ってしまっていた。そういうことがあったなあ。懐かしいなあ。
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案外、この老農夫は良寬様が今日は山を下りて里へ出て来られるということを見越していたのかも知れません。良寬様はお酒も好物。それを知って、稲田に出て来るときに酒樽をひっさげて来ていたのかも知れません。ゲスの勘ぐりなんですが、或いはそれで良寬様に一筆書いて欲しいとねだったのかも知れません。良寬様の書は引っ張りだこだったに違いありませんから。まあとにかく、気軽に歓談されて酒を交わされたのでしょう。天衣無縫の良寬様の姿が彷彿としてきます。
求め合う人ある夜の公園のベンチの一人だけの独立 薬王華蔵
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人は求め合うために暮らしている。ここは都会の夜の公園。薄暗いがところどころに仄かな灯が灯っている。各所にベンチが設けられているが、どこもカップルで埋まっている。一晩かかって彼らは愛を囁き合うのだろう。離れたところにもベンチがあって老爺が腰を下ろしている。ここには一人しか居ない。彼は独立を宣言しているのだが、周囲の男女の円満が羨ましくもあるのだ。人は互を求めるために暮らしていて、それがここへ来ると自ずからにして成立している。公園とはこういうことの為に造られていたのかも知れない。
かなしみの海のふかさに照らさるる高き空ありたかき空あり 薬王華蔵
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現象世界では空が海を照らしているが、もう一つの世界では逆のことが起こっている。空が海に照らされている。其れは何故か。そこが人間の悲しみの海だからである。深い悲しみの海だからである。これだけ深くなると悲しみの海は光るのだ。空の雲に返照されて雲が赤く染まっている。高いところへ上って行くとそこもますます染まっている。そこはもう神さまの世界なのだけど、そこでもやはり人間の悲しみの深さによって発せられた光によって明々と染まっている。
そういうことがあり得ているような気がする。人間の底知れない悲しみに神さまが感応されないはずがないからである。
狐花また死人(しびと)花捨て子花幽霊花のまひる野 彼岸 薬王華蔵
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狐花、死人花、捨て子花、幽霊花。これらはみな彼岸花の別名。いろいろな呼び名があるものだ。彼岸は彼の岸、仏の涅槃界。理想郷なのに。秋の彼岸、春の彼岸には死人花が咲く。ここは此岸だからか。真昼野の此岸を行くと捨て子も幽霊も狐も死人も出て来る。もう一つの別名、曼珠沙華、マンジュウシャカは一転して天人界に咲く高貴な花である。
前回のこのブログで「入我我入」のことについて書いた。にゅうががにゅう。仏がわたしに入り、わたしをして仏の懐へ入らしむ。
呼吸しているときはだれでもそうしている。息を吐いたら吐いた先が仏の世界だし、息を吸ったらわたしの内側が仏の世界になっている。仏と離れていることはないのである。
でも、意図して力んでそうするのではない。未来に向かって努力するのではない。既にそうなっていることを知る、体感するだけなのである。現在の完了、現在に成立してしていることを察知するだけでいいのである。いまわたしが仏の世界に入っているということ。わたしの世界に仏が入って来られているということ。それでもってわたしがここに居るということ。でもって図らずも仏と一体化しきっているということ。それを感得すればいいのである。
夏の青い空が広がっている。蝉が鳴いている。向日葵が咲いている。それを風が揺らしている。それをわたしが見上げて安らいでいる。その涅槃図式は梵我一如の世界として成立しているのだ。わたしが異を唱えるところではない。異を唱えたら賢しらにはなれそうだが、いかにも底が浅すぎる。
ことあらためて人間賢しらになることでもないのだ。凡愚で怠け者でふてぶてしいわたしが、賢しらを勤めたところで何ほどのこともあるまい。浄土の教えではそれを帰依帰命というのだろう。無為にして「入我我入しているわたし」を静かに味わって、今日の日曜を過ごしていようかなあ。外に出ていっても暑そうだし。