これはさぶろうに言い聞かせるために書いたものである。よって正当性はない。論は出鱈目である。あらかじめ言っておかねばならないことだ。
1
己を利するためにするのが「修業」で、他を利するためにするのが「修行」だということを知った。ふううん。ちゃんと区別があったのだ。
2
こと職業の場合は、修業がなると普通は暖簾分けを頂ける。これで己の腕で飯が食えるようになったことになる。たとえば寿司屋さんの場合、修業が終わり己の店を持つと一人前の扱いだ。次の段階へ来ると彼は弟子を抱えて、自分がそうしてもらったように次の代を養成することになる。で、利他の「修行」に入ることになる。お店に客が来る。客においしいものを食べさせる。客がよろこぶ。これも歴(れっき)とした利他になっている。
3
小乗仏教では己に悟りが開けることを目標地点とした。そこでからりと空が晴れ渡った。
だが、大乗仏教はそれで満足しなかった。小乗は小満足だとした。己一人を喜ばせてそれで解決したのか、という疑問を突きつけた。
一生掛けて生きて、生きて生きて、やったことはおのれ一人の満足で、その域を一歩も出なかったというのであれば、なるほど井の中の蛙を笑えまい。
4
小乗仏教では阿羅漢(もしくは羅漢。アラハンもしくはアラハット)をもって長い精進の暁とした。仏道を進む者の最高域の地位に達した人と見た。これで彼らは周囲からの尊敬に値する人となった。彼は登り詰めて山頂に立ったのである。彼は燦然とそこで輝き渡った。
5
大乗はそれを否定した。そこが究極だとはしなかった。山を下りて行け、と自らに命じた。苦悩する大衆の中に入る実践を重んじた。これを修行とした。山頂に立つのはそのために欠かせない前準備だったとした。己が完成したのは利他の実践の能力が完成したことに過ぎなかった。己が燦然と耀く「お山の大将」であることを嫌ったのだ。
6
彼は忘己をした。相手は己ではなかったのだ。満足させるべきは己ではなかったのだ。「己とは何か」の命題解決から次なる道に出た。彼は菩薩(菩提薩埵・ボデイサットヴァア)と呼ばれるようになった。彼は仏陀の遣いとなった。衆生救済事業に邁進が出来る能力を備えるようになった。
7
人間は区別が好きだ。区別をしていかないと頭の整理がつかないのだろう。阿羅漢と菩薩をこういうふうに区別した。同じ仏道の実践・実行にも自利のためと利他のためとの温度差があるとした。
唐突だが、青空はこれをしない。木もこれをしない。草もこれをしない。山も海もこれをしない。彼らは「己とは何か」「己の救済と己以外の救済のどちらを優先させるべきか」などということを命題に挙げていないのかもしれない。救済のためのサイレンを鳴らさない。彼らは走り回らない。不動のまま堂々としている。涅槃と寂静に入っている。あんがい小乗仏教徒なのかもしれない。
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導いた結論らしきものがハチャメチャで申し訳ない。さぶろうのトロッコはすぐに脱線するのだ。