あれから60年近く経過した。それでもわたしは、大塚文彦先生に可愛がられた記憶に温まっている。先生はどうだろう。わたしのことを覚えていてくださっているのだろうか。生きておられたら疾うに100才を越えておられるはず。わたしはいずれ死ぬ。死ぬことになる。そうすると、あの世へ行く。わたしはふらりふらりして先生を探す。先生が国語の授業をしておられる教室へ入って行く。後ろの席に座る。声を聞く。楽しくてしびれる。先生と目が合う。懐かしいあの目に見られてとろくてしまう。
まだこんな時間かあ。時計の針は10時15分を指している。早くも目が覚めちゃった。トイレに行く。シャツ一枚じゃ寒い。この後どうしよう。夜明けまではたっぷりある。酒を飲むからこんなことになる。風呂から上がって来たら、一も二もなくそのままベッドに入って寝てしまった。そして3時間して、目を覚ます。口が苦い。ごくごく水を飲む。飲んだらまたトイレに立たねばならなくなる。いいじゃないか。生きている証拠じゃないか。薬王華蔵が息をしている。
普通。普通に外に出て草取りをした。だだっ広い畑である。それが西にも北にも、南にもある。トラクターを持ち出して進めるわけじゃない。右手の小さな農機具一本だけである。味方をしてくれるのは。とうに覚束ない。
それでいいのである。老爺は暇を持て余しているのだ。ゆっくりでいいのだ。差し迫っているのじゃない。のらりくらりでいいのだ。いつ死んでもいい。いつまで生きててもいい。一向に差し支えはない。楽なものだ。
12
東京国立博物館に行き、空海と仏像曼荼羅展を見た。阿閦如来、宝生如来、阿弥陀如来、大日如来などの如来様方、地蔵菩薩、観音菩薩、普賢菩薩、虚空蔵菩薩などの菩薩様方、五大明王、天部の守護神などを見て見て見入った。やはりお顔を見ていた。しばしうっとりした。
そしてその後、逆方向から、人を見た。仏を仰いでおられる人を見た。暗い中なので正確な像を結ばなかったが、仏に当てられている明かりの反射が、顔に当たっていたせいもあって、美しいと思った。人の顔を美しいと思った。
「仏さまを見た後では顔が変わる、清らかになる、美しくなる」という記事を読んだことがあったが、ああ、ほんとうだなと思った。
11
そんなに大事な顔ならば、自分の顔をも大事にしておかねばなるまい。少なくとも軽蔑するには当たらないだろう。
現世を生きている間にせめて、この貧相な顔をなんとかしなくちゃ。おたふく顔にしておかなくちゃ。この老爺も、にこにこにこりを多用すべし。
千年万年、大事な役割を果たしている顔に、現世で一言ありがとうのお礼を言おうか。これが結論になっちゃった。お粗末。
10
ロボットにだって顔があるのだ。動物にもある。魚にもある。鳥にもある。虫にもある。顔はなくてお尻だけという変種はいまい。
死者はやすらかな顔を造って行く。では死者の国ではどうか。お迎えの人に顔がないと、父なのか母なのか、他人なのか区別が付かない。だからきっと顔は捨てられていないはずだ。永遠に生きるのであれば永遠の顔があるはずだ。顔には判断が詰まっている。
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ロボットにだって顔があるのだ。動物にもある。魚にもある。鳥にもある。虫にもある。顔はなくてお尻だけという変種はいまい。
死者はやすらかな顔を造って行く。では死者の国ではどうか。お迎えの人に顔がないと、父なのか母なのか、他人なのか区別が付かない。だからきっと顔は捨てられていないはずだ。永遠に生きるのであれば永遠の顔があるはずだ。顔には判断が詰まっている。
9
苦悩は顔に出る。煩悩も顔に出る。欲望も顔に出る。悲しみも顔に出る。よろこびも顔に出る。顔は舞台だ。さまざまな感情のステージだ。ここはそれらを表現をする場出もあるが、同時にここは放出の場でもあるのだろう。捨ててお終いにする最終ステージあのかもしれない。
人類誕生以来何千年かが経っているが、はじめっから人間には顔がついていたのだろうか。後で少しずつできあがって来たのだろうか。顔についての疑問が次々に湧いてくる。
8
「絵になる人」がいる。そういう人がいると、わたしは見取れてしまう。一枚の美しい絵を描きたくなる。それと気づかれないで見入るのは至難だが。絵描きさんはそういう人を見つけて絵にしている。世界の名画は顔であふれている。モナリザの微笑みも顔の微笑みである。絵にならない人も、もちろんいる。わたしなんかはその例だろう。
ポートレイトも顔が絵になっている。顔無しのポートレイトいうのはない。運転免許証の捨身も、パスポートの写真も顔だけである。これで判別が付くらしい。
7
大きい顔小さい顔、丸い顔四角な顔、卵形の顔、瓜実形の顔。縦に長い顔、横に長い顔などさまざまである。でもそこにみな視覚聴覚味覚嗅覚触覚の全器官が揃っている。これにもバラエテイがある。
電車に乗っている人の、どの人にもそれぞれ特有の顔がある。でもまったく同じ顔というのはない。それはなぜなんだろう? 唯一無二の顔を造る<顔彫り師>は神業である。遺伝子が、精子卵子の受精したとたんに、これをやってのけるのだろうか。