イタリア料理もフランス料理もおいしいが、風もおいしい。月もおいしい。風流はおいしい。野点(のだて)の佗茶もおいしい。淹れてくれるお嬢さんのたたずまいも、ただづまいの月影もおいしい。短歌もおいしいし、唐詩もおいしい。なんだ、儂(わし)が棲むこの世は、おいしいものばかりじゃないか。すべてが上等上等。これに倣えば儂の暮らしも上の上。
またまた李白に会いたくなった。今日の李白は独酌している。月が煌々と照っている。それを見て、月と月影が君子に見えてしまった。それで彼らをさっそく飲み相手に仕立て上げてしまった。彼ならではの芸当である。
*
「月下独酌」 李白
花間一壼酒
獨酌無相親
舉杯邀明月
對影成三人
月既不解飮
影徒隨我身
暫伴月將影
行樂須及春
我歌月徘徊
我舞影零亂
醒時同交歡
醉後各分散
永結無情遊
相期遥雲漢
*
花間(かかん) 一壷(いっこ)の酒、
独り酌(く)んで相(あい)親しむもの無し。
杯(さかずき)を挙げて名月を迎え、
影に対して三人と成る。
月既に飲(いん)を解(かい)せず、
影徒(いたづらに我が身に随う。
暫(しばら)く月と影とを伴い、
行楽(こうらく)須(すべか)らく春に及ぶべし。
我歌えば月徘徊(はいかい)し、
我舞えば影零乱(りょうらん)す。
醒(さ)むる時ともに交歓(こうかん)し、
酔うて後は各々(おのおの)分散(ぶんさん)す。
永く無情(むじょう)の遊(ゆう)を結び、
相期(あいき)す遥かなる雲漢(うんかん)に。
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(さぶろうの出鱈目な訳をしてみた)
徳利の酒を菊花の間に置く。酒のお相伴を申し出る者はいないか。
杯を挙げると名月がふらりとそこに浮かんで揺れる。月と儂と儂の影、よし、これで三人。
酒が飲めない月光はゆらりゆらりするばかり。月影は私の背後に回ってばかり。
まあともかく楽しめればそれでいい。秋も春のにぎわいとなる。しばらく月と影と儂らは三人。仲良しだ。
儂が歌うぞ。月は舞え。今度はよろよろの儂も舞おう。影もよろよろだ。
しらふに戻ってもまたこの交際を続けようではないか。儂が酔って眠る間はしばらくそれぞれになるけれど。
月と影は儂の情の行き着くところ。遥かな天の川までも長々とお付き合いをして行こうじゃないか。
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この詩の留めは「永く無情の遊を結び、相期すは遙かなる雲漢ぞ」となっている。含蓄が深いぞ。
仏典に「無情も説法す」とある。石も山も砂も波も海も、花も風も、月も星も仏陀の法を説いているという。せっかく無情界が説法をしているのなら、有情(うじょう)界の我等がこれを聞けばいい。無情界と有情界は相互に理解し合えるのだから。どこまでもどこまでも宇宙の果て(遙かなる雲漢)までもこころを寄せ合って行こうじゃないか。それが期待できるはず。月に月の語を聞き、雲漢に雲漢の語を聞くべし。
つれづれと空ぞ見らるる思ふ人天(あめ)降(くだ)り来むものならなくに 和泉式部
*
僕もいま空を見ている。ぼんやりと。青い空に小さく千切れた白い雲が幾つも幾つも浮かんでいる。よおく見ると西から東の方角へ流れている。和泉式部の頃、古代にも空が有ったらしい。で、彼女も暮らしのつれづれに、合間合間に空を仰いでいる。溜息をついている。どうして溜息になるかというと思う人がここにいないからだ。やさしく抱いてくれないからだ。溜息の先にはだからいつも思う人がいる。これほど思いやっているのだから、空から降って来てくれるかもしれない。来たら直ぐさま我が身の思慕ごときつく抱いてくれるはずだ。「式部さん来ましたよ。ずっとずっとあなたに会いたかった」などと言いながらふんわりふわり降りて来る。そういう想像をする。想像をするとその像だけでも堕ちてきてくれそうな気がする。でも、それはとうとう起こらない。ついに式部さんは諦めて平常平穏の暮らしに戻って行った。僕も妄想だけは式部さんにも劣らない。見上げている空から美しい天女の出で立ちをした彼女が薄衣一枚纏ったきりでするすると僕の隣に下りてきて欲しい。でもねえ、もしもそれがその通りになったら大変だよ。僕の醜悪を隠しようがないので、僕はきっととても困ったような顔、迷惑しているといった顔をしてしまうかもしれない。
有り難いものがあり得ている。これは有って欲しいと思うものの場合。思っていたものが手に入った。それで有り難う。健康、幸福、幸運、富は有って欲しいもの。我を導く師も、打ち解けた朋友も、やさしい恋人も。登り詰めた山頂からの眺望も涼しい秋の風も。あり得ないものがあり得ているという受け取りが出来るものはみな。有り難うを述べて感謝に繋げられるものならなんでもみな。
世の中は大概は半分半分で鬩ぎ合っている。双方の力が波の壁押しのように押し合っている。有って欲しいものが半分。後の半分は有って欲しくないもの。それで「有り難う」の残り半分は「有らず難う」有って欲しくないと思うものがその通りになくてすんでいる。災害はないほうがいい。病も引き受けない方がいいに決まっている。煩悩からも醜悪からも逃れていたい。逃れられるなら。
今日は李白三昧。いい日だ。我は、今日この李白を味方に得て、万人共有の文学呼吸能力という属性の、その高さにおいて雪山ヒマラヤを凌いでいる。ま、といってもほんの一瞬限りだが。李白の詩句は詩酒である。旨酒である。いざ飲み干さん。
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「秋浦歌」
白髮三千丈
縁愁似箇長
不知明鏡裏
何處得秋霜
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白髪三千丈、
愁いに縁(よ)りて箇(か)くのごとく長し。
知らず明鏡の裏(うち)、
何(いず)れの處(ところ)にか秋霜を得たる。
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三千丈もあろうかという私の白髪は、 長年の愁いによってこんなにも長くなってしまった。鏡の中にいるのは確かに自分のはずだが、全く知らない誰かを見るようだ。どこでこんな、秋の霜のような白髪を伸ばしてしまったのか。
*
いやあ、渋いねえ。白髪は我が憂いの長さ。我が憂いの長さが三千丈もある。こうなりゃもう人間国宝級だ。晩年の李白には辛酸を嘗める事件が相次いだ。失意の李白。李白はその失意をも詩にしてしまった。高邁なおいしい詩酒にしてしまった。詩人の目にとまれば明鏡も秋霜も豪勢な宝珠となって、その後数百数千年も輝き渡ることとなった。
* 1丈は約3m。3千丈なら9000m。9kmだ。隣町まではある。
もう一首、李白の詩を読む。おいしいおいしい。我が魂の胃袋氏がご満足。ご酩酊。
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「将進酒」 李白
君不見黄河之水天上來
奔流到海不復回
君不見高堂明鏡悲白髮
朝如青絲暮成雪
人生得意須盡歡
莫使金尊空對月
天生我材必有用
千金散盡還復來
烹羊宰牛且爲樂
會須一飮三百杯
*
君見ずや黄河の水は天上より來たるを
奔流して海に到り 復た回らず
君見ずや高堂の明鏡の白髮を悲しむを
朝には青絲の如きも 暮には雪と成る
人生意を得れば 須らく歡を盡くすべし
金尊をして空しく月に對せしむる莫れ
天の我が材を生ずるは必ず用有ればなり
千金は散じ盡くして還た復た來たらん
羊を烹(に)牛を 宰(ほふ)りて且らく 樂しみを爲さん
會(かなら)ず須(すべか)らく一飮三百杯なるべし
*
黄河の水が天上から注ぐのを見ることがきみにはあっただろうか。
この激流が海に流れ込むとそれまでで、二度と戻ってこないのだ。
豪邸に住んでいながらも、鏡に映った我が身の白髪を悲しんでいる者の哀れを、きみは知っているだろうか。
朝は黒い絹糸のようであった髪も暮れには雪のように真っ白になるのだ。
人生、楽しめるうちに楽しみを尽くすべきである。金色の酒樽をみすみす月光にさらしてはならない。
天が私にこの才能を授けたのだ。心配は要らない。いつか必ず用いられる日が来る。
お金の心配も無用だ。金なんぞは使い果たしてもすぐにまた入ってくるもの。
今夜は羊を煮て牛を料理して、とことん楽しみ尽くそうじゃないか。
一度飲み出したら立て続けに三百杯と行こう。それくらい、徹底しよう。さあやってくれ。飲んでくれ。
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若い頃に「天の我が材を生むは必ず用あればなり」の句にしこたま勇気づけられたことを思い出す。おれは有用だったからこそここに人間となって生まれて来ているのだ。いつはこの天の寵愛に応える時が来る。そう思ってにたりにたりしたことがあった。さて、さぶろうはご高齢者の仲間入りをしている。応えられたかどうか。まだまだまだまだ。人生のクライマックスは案外これからなのかもしれない。
大好きな李白の詩を読もう。李白の詩は酒よりもアルコール度数が高いから、我が輩はらくらく酔い痴れてしまうのだ。
「山中問答」 李白
問余何意棲碧山
笑而不答心自閑
桃花流水杳然去
別有天地間
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余に問ふ 何の意ぞ碧山(へきざん)に棲むと
笑って答えず 心自から閑(かん)なり
桃花流水(とうかりゅうすい) 杳然(ようぜん)として去る
別に天地の人間(じんかん)に非(あら)ざる有り
*
「よりにもよってどうしてこんな奥深い緑山に住んでいるのだ」人がおいらに尋ねる。おいらは笑うばかり。分かりきったことじゃないか、ここにいればのびのびしておられるからさ。谷水は桃の花びらを浮かべゆったりゆったり流れていく。ここはそういう自在な地だ、俗世間とは違う、別天地だ。
*
李白は好きだなあ。現代の中国にはこんな自由を満喫している人がいるだろうか。共産主義の国になっているから、こうはいくまい。国の制度に拘束されているかもしれぬ。じゃ、日本にはいるかなあ。疑問だなあ。現代人は生活にあくせくしているからなあ。中国、日本どっちにも成功者、お金持ちはいるかもしれないが、みなさんこんな余裕はないのかもしれない。のびのびなんかしていられないからなあ。争って生き馬の目を抜く時代。人真似をして俗世間にまみれ、どよめいていないとみなさん不安で仕方がないのかも知れぬ。李白には別天地があったのかあ。さぞかし生き生きして生きていたんだろうなあ。
「山中与幽人対酌」 李白
両人対酌山花開 一杯一杯復一杯 我酔欲眠卿且去 明朝有意抱琴来
両人対酌すれば山花開く 一杯一杯復た一杯 我は酔うて眠らんと欲す 卿(きみ)は且(しばら)く去れ 明朝意有らば琴を抱いて来たれ。
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「山中に幽人と対酌す」
隠者と向かい合って差しつ差されつしていると、山躑躅の花も顔をほころばせ赤い。うまいうまいと盃を重ね合っているうちについつい酔いが回った。横になりたい。すまぬが卿(お主)とはこれまでだ。明日の朝、その気があれば今度は琴を抱いて来ておくれ。
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いいなあいいなあ。飲み相手がいたのか。さぶろうにはいないぞ。こういう飲みっぷりはいいなあ。隠者だって静かな飲みっぷりだったことだろう。君子の交わりは水の如しだ。これをそのまま詩にして詠うというのもいいなあ。一弦の琴の音もいいだろうなあ。赤い山躑躅が咲くのが見て取れる昼間から飲んでいたのかなあ。李白の住まいは人里を離れた山中だったのか。
やさしいおんなの人に会いたい。会ってはならない。仏法に背く。仏法は五戒を立てている。不邪淫戒。おんなの人に会うなという戒め。かならずその底に邪淫が蠢くからだ。きっと蠢き出す。白い肌に触れたいと思う。取り返しが付かなくなる。久米の仙人でも堕ちたのだ。山中での長い修行がなって空を飛べる高さに登り詰めていたのに、たった小川で大根を洗っていた乙女のたおやかな股を盗み見ただけで、あはれ、天上界を堕ちたのだ。
不邪淫の戒め秋がくつがえす そよろの所為にはすまじきものを 釈 応帰
曼珠沙華一むら燃えて秋陽つよしそこ過ぎてゐるしづかなる径 木下利玄
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曼珠沙華を取り上げた作品にこんなのがあった。秋の陽が照りつけている。日射しが強い。それを射止めるかのように曼珠沙華が赤く明るく灯っている。小径の傍に一叢。そして一本の径が遠くまで静かに続いている。どんな音も聞こえないけれど。村里の目の前の現実がそこで途絶えている。作者はその後4ヶ月して異境の人となった。死の予感があったのかもしれない。秋の陽が強く差し込む曼珠沙華を見たのはこれが最後になった。「そこを過ぎて行けば」寂静界、静かな涅槃界に続いて行くのである。