山野辺(やまのべ)に蓬(よもぎ)を摘みに行きませう 祖母(おおはは)のベッドの横から小径が続く 薬王華蔵
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祖母は88歳で亡くなった。この小径を歩いて死者の国へ辿ったかもしれない。蓬の生えている青々とした春の草原が、祖母には極樂一丁目に見えたかもしれない。
山野辺(やまのべ)に蓬(よもぎ)を摘みに行きませう 祖母(おおはは)のベッドの横から小径が続く 薬王華蔵
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祖母は88歳で亡くなった。この小径を歩いて死者の国へ辿ったかもしれない。蓬の生えている青々とした春の草原が、祖母には極樂一丁目に見えたかもしれない。
いくたびもいくたびもただ接吻と抱擁をする山よ霞よ 薬王華蔵
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山と霞はそういう間柄である。愛し合う間柄である。いいじゃないか。天地万物こうでなくちゃならない。しかし、日にいくたびそうしているのだろう。やっと春の季節が巡ってきたからだろう。春は目にも心にもやさしく、うつくしい。
奇人でもいい、変人でもいい。わたしをそうしてくれるものはないか。醜悪の老爺は、もはやその愛し合うという特別の範疇には、暮らしていないのかもしれない。
老爺にも仕事ができて有り難い。仕事とは言えないかも知れぬ。お金はもらえぬから。
それは草取りの仕事である。畑が草だらけになっている。これじゃ夏野菜が育てられぬ。
今日もせっせせっせと草取り仕事をした。椅子に座って。手の指をこき使うので、今になってズキズキ痛んでいる。
草を抜いたら今度は深く耕さねばならぬ。トラクターの出番だ。うちにも小型がある。あるが、片足麻痺では使えぬ。力のある人に頼まねばならぬ。厄介だ。
その後肥料を撒いておく。石灰と有機肥料とをどさりと。そして漉きこむ。あれこれの段取りがある。老爺は仕事がのろい。遅い。
準備が出来たら、茄子🍆キュウリ、トマト、ズッキーニ、オクラなどなどなどを植え込む。4月はじめにはそこまで辿り着きたい。日にちがないなあ。
くちびるの紅(べに)に日を受け春を待つをみなの傍(そば)に鳩が来てゐる 薬王華蔵
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此処は公園である。若い娘達はみな春を待っている。躍り上がる春を待つのは当然のことである。唇に紅を塗るのは美しくなるためだ。口紅を塗ったそのやわらかい唇に折からの春の日が降り注いでいる。はやる胸はあるのだが、ときめく恋はいまのところ成就していない。そういう娘達のかたわらに、つつつと鳩が寄って来た。彼女たちは鳩と遊ぶ。そういう叙景歌である。肩すかしを食ったような風景だが、それだからこそやるせないのである。娘達を囃し立てる存在のイケメン達はとうとう現れて来なかったのだ。
春を待つ乙女達の明日にふさわしい幸福あれ。
無理にでも褒めてあげたき初音かな 薬王華蔵
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読者文芸俳句部門の、これはわたしの初入選の作品。6週目でやっととっていただいた。うれしい。
初音は、初めて鶯が啼く声。ホトトギスの場合も初音というらしい。季語は春。夏もありそうな。初鳴きは、練習不足に聞こえる。でも、歌って聞かせてくれるのである。拍手をしてあげたくなる。
春待つは野の仏の座天の星小さくわたし 声を掛け合う 薬王華蔵
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この句が久しぶりの久しぶりに2席入選した。何週間も落選続きだったから、なお嬉しい。投稿されているみなさんお上手だから、隙入るひまがない。
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仏の座は雑草。いまいたるところに開花している。赤紫色の小さな花がつく。どうして「仏の座」なんだろう? 春に下りて来られた仏さまの、お座りになる蓐にでもなるのだろうか。これに夕星の天の星を配置してみた。その両者の中間に小さくわたしが介在している。そして互が声を掛け合う。「春が来ましたね」「ええ、ほんとうに」「春はいいですね」などと気軽に。そういう想像世界の舞台作りをしてみた。
3
死ぬと言ってもそのままでいいのである。この世に生きた証の遺言遺偈も無用になる。夕べ頂いて来た芋の蔓がここにある。ひらひらして小さいが、泰然としている。うん、これでいいのだ。芋の葉を蓮の葉にすることはないのである。それはそれ自体でいいのである。
4
彼は濁ることも澄むこともある、と激白する。濁りは時がたてば大概は澄んでくる。筆者なんかはそれをまた引っ掻き回すから、またまた濁ってまったく澄むときがない。どうしようどうしようとそればっかりだ。
5
濁ったらそれに応対しない、これがコツだ。濁らせたままにしておく。右往左往をしない。濁りの外に出て一句を作る。彼はそうしていたのだろう。わたしが死んでも死なずにいても風は吹いて来る。「わたしは実は偉かったのだぞ」とわざわざ書いておかなくともいいのである。
死をまへに 涼しい風
おもひおくことはないゆふべの芋の葉ひらひら 2句とも 種田山頭火
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「あるときは澄み、あるときは濁る。澄んだり濁ったりする私であるが、澄んでも濁っても私にあっては、一句一句の身心脱落であることに変わりはない」と書き添えてある。句に説明が加えてある。めずらしいことだ。
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1
「心身脱落(しんじんだつらく)」は道元禅師の言葉。禅者の行き着く悟りの境涯である。「身も心も一切の束縛から解放されて絶対的な自由を獲得すること」と電子辞書にはある。己を縛っているものがなくなってしまえば、一挙に軽くなれるだろう。仏陀はこれを「大いなる放棄」と呼んだ。得なくなればいいのである。欲しがらなくなればいいのである。
2
己を縛っているものの代表格は、身心である。これがどんなに己を右へ左へ走らせていることだろう。身心は歓楽の巣窟でもあるが、苦悩の元凶である。これが己から抜け落ちてしまうのである。抱えていた荷物を放り出せばすっとするだろう。涼しい風も吹いて来るだろう。
(続く)
照れば鳴いて曇れば鳴いて山羊がいっぴき 種田山頭火
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そういえば、昔は山羊の乳を飲んでいたなあ。牛乳は飲めなかった。山羊の乳を飲んでいた。我が家にもいた。小学校から帰ってくると、それをつれて草地に連れて行った。なかなか言うことを聞いてくれない。親の山羊は頑固なのである。おまけに角で突いてくる。難儀した。雌山羊はお乳が大きかった。乳房に大きな血管が浮き出ていた。これを搾る。暖かい布巾でよく拭ってから。何処の家にも大概居たから、メーメーと村中でよく鳴いた。句の観賞よりも先にこんな体験を思い出してしまった。
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照っても曇っても山羊には同じ事だ。お構いなしというところか。同じようにメーメーと鳴く。これしか知らないのだからしようがないのだ。この発話にすべてが込められている。人間は、不自由だ。照ったら照ったで話し声が違う。曇ったら曇ったで別の言葉で発話する。いちいちうるさい。語彙が一杯あっていいだろうと思うが、それだけの悩みがついて回る。悲しみ喜びが錯綜する。ごった煮になる。それで迷わされる。なかなか悟れない。これでいいという覚悟に至り着かない。始終、不足している。不満を持つ。山羊は一声である。これで覚悟の全部を言い当てている。
乞ひあるく水音のどこまでも 種田山頭火
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句は短い。短い枯れ木の、木切れにして放り出されている。それを読もうというのだから、骨が折れる。でも、響いてくる。木切れに風が当たってそこから音が出ているのだろう。響いてくる。
水音は、喉が渇いたときに飲む谷川の水の、その潺潺と流れる水音だ。命の水だ、なにしろ。これで命が繋がれていくのだから。水音は「生きろ生きろ生きろ」と命令して来る。「とどまっているな」「動き出せ」と迫って来る。乞い歩いて行くその先へ先へと先回りして、耳へ、声を響かせてくる。彼は歩く。歩く、歩く。何かに促されるようにして歩く。一所(ひとところ)に留まっていない。
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銭を乞い、食を乞うのは、「いただきまする」が分かるためだ。精進と忍辱を経巡って、「いただいていただいて生きいている」ことが領下されるためだ。「棄てられていない」という事実に涙するためだ。仏陀に行き着くためだ。法に行く着くためだ。大悲に抱かれているということを体が覚えるためだ。仏道者行者がこれを行ってきた。仏法は、智慧の静寂のみにあるのではない、声を立てる慈悲の実践でもあるのだ。