<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

もう一度会えるということ

2013年09月29日 08時42分04秒 | Weblog
ぐえいっしょ。グエイッショ。倶会一処。ともに、一つの処で会う。



これは仏説阿弥陀経にある文言である。

阿弥陀経は阿弥陀仏が建設した仏国土である「極楽浄土」のありさまを書いてある。

われわれはここへ往生をする。往生とは「(極楽浄土に)往って生まれる」ことである。

ここで仏の説法を聞いて「成仏」する。仏になって仏と合一する。



そこであなたもわたしも、彼も彼女も再会が成立して、いっしょになるのである。

したがって死は再会となる。亡き父も母も、ここでもう一度出会う。

で、お墓によくこの句が彫られている。

次に出会うところは阿弥陀仏の極楽浄土ですよ、と。



会うとなれば、そこで続きが始まることになる。死で終わりではなかったということになる。

いのちの物語は継続するのである。



「このままのわたし」が完成品であるとはどうしても思えない。

わたしは、娑婆世界ではなく、仏陀の世界に引っ越しを果たして、そこで再チャレンジが待っているのである。

しかも、今回は、導き手がいる。仏陀その人がわたしの手を取るのである。

こうやってわたしは仏道を歩んでいくことになる。

ゴール地点ではわたしも仏陀になるのだ。



阿弥陀経では、往生したわたしは、ガンジス川の砂の数ほどもある諸仏の仏国土へ、花かごに花を盛って出向いていって、諸仏の説法を聞く。まばゆいばかりの諸仏の光明浄土を見て回る。わたしの仏道修行がここで展開することになる。

わたしは見る見るうちに変化する。浄化される。すがすがしくすがすがしくなる。さわやかにさわやかになる。

明るさで言えば数等級も明度が上がっていく。たとえば3等星が1等星になって輝いていくことになる。



自分のこうした進化のさまを自分が見ていて、感極まっている。よくぞここまで進歩したものだと驚いている。



倶会一処した人たちも互いに互いをたたえ合うことになる。

わたしを成長させる成長エネルギーの源はすべて阿弥陀仏のおはからいである。慈悲である。

これまでは肉体のわたしの「苦しみ悲しみ」「躓き、悩み、失敗」がエネルギー源だったのが、そうではなくなっている。



そういう理想を極楽浄土で描いてある。

これで未来永劫にわたしたちは希望が持てるのだ。

わたしのはからいでは見えてこなかった世界が、仏のおはからいで実現していく。
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今日一日でよろこべるよろこびの分量は?

2013年09月16日 10時37分53秒 | Weblog
このブログを読んでくださっている方がいらっしゃいます。ありがとうございます。



台風一過しました。騒然としていた竹の林、椎や樫の雑木の森も、落ち着きを取り戻しています。



秋の空になっています。空を打ち仰いだだけで幸福になれます。百舌鳥がけたたましく鳴いています。



昨日は秋野菜の種の蒔き直しをしました。生えてこなかったところだけですが。



山東菜が好きです。これは比較的早く収穫できます。味噌汁の菜にしていただきます。



今日の3時に、JA上峰にフカネギの苗が入荷します。これを買いに行こうと思っています。これはすき焼きをする時に欠かせません。昨年はこれがうまく成長しました。



午前中は何処にも出かけず家の中でゆっくり過ごしています。



よろこびがわたしの所へ来て耳元でささやきます。

「この袋に入っている分が今日一日であなたさまがよろこべる分のよろこびです」

「よろこび上手な人であれば、もっとたくさん入荷することもできます」

「あなたさまの昨日のよろこび使用量に応じて、今日のよろこびをお届けします」

わたしは、「なあんだ、これっぽちか」と不満を言いました。

「そおれ、始まった」とよろこびが言いました。「届けた分もよろこべないのに、いつもこうして不満を先行させるのがあなたさまの悪い癖です」

そうだったそうだった、これはわたしの悪い癖だった。あらためよう。わたしは反省をしました。

でもね、よろこびをよろこぶって意外に難しいんですよね。

なあんだ、そんなことをよろこんでいるのか、といっては吐き捨てたりもします。氷山のようにでかいものからよろこぼうとして、ほんの欠片だけで終わってしまったり。



ブログの読者さま、あなたは今朝から幾つのよろこびをよろこびましたか?
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欲望肥大症ではなく

2013年09月13日 12時46分55秒 | Weblog
これをしたいというのが欲望である。

これがないとこれをする気にはなれない。

したがってそこでストップして進展がない。

その点では欲望は船のスクリューである。エンジンである。

だから欲望そのものを否定することはない。

問題は欲望の肥大症である。

肥大すれば制御不能となりかねない。

億万長者になったらどんなによかろうと思うが、そこまでなると大変なことにもなるだろう。

維持管理も大変な苦労だろう。それに加えて制御能力を高める努力を強いられる。

盗人に奪われる心配もしなければ夜もおちおち眠られなくなろう。

欲望萎縮も困りものだ。

船を進めるモーターもはずして、漕ぐオールも排除するとなれば、船は太平洋のど真ん中で転覆して終いかねない。

ちょうどいいくらいの「いい加減」が最高だ。肥大でもなく萎縮矮小でもない、中。中の中庸。凡庸の平凡。これで安定をする。



なあんだ、である。
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2013年09月13日 12時15分17秒 | Weblog
お昼はたいがい麺類である。するすると啜って終わり。これがいい。簡単でいい。

夏場は素麺か、冷や麦かですませる。冬場となればうどんを茹でる。ときどき乾麺の蕎麦を茹でる。

そうそうご馳走はいらないものだと思う。

億万長者のお昼はどうしているのだろう?

僕の億万倍の豪勢な食事をしているのだろうか?

しかし、これが毎日となると、豪勢な食事にも飽きが来てしまうだろう。

佐賀牛の脂物はそうそう連日は食べられまい。第一健康が損なわれる。

下腹だけで何貫もあるような人を見かけるが、これを抱えて歩くだけでも骨が折れそうだ。(要らぬ心配だが)

それよりは痩せていた方が身が軽い。断然これがいい。

では、億万長者は何がいいか。欲望だけが肥大した億万長者は、欲望に振り回されて制御不能になりかねない。

手に入れたい物が何でも手に入る。これは利点だ。

しかし、次々に手に入れたい物をこしらえなければならない。

そして、手に入れた物で以て満足をしなければならない。満足をしないとすれば、これは考え物だ。

お金を銀行に預けているだけなら、それは銀行がお金持ちだということになってしまう。

お金は使って始めてその価値が生きてくるものだ。使わないで貯め込んでいるだけなら、ないに等しかろう。



とかなんとか詮索をしてしまった。つまりはお昼の素麺が一番おいしいという、そこで終わりなんだが。
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六根清浄 己の判断の誤りをもって見る己の世界を真実としてはならない

2013年09月10日 20時20分23秒 | Weblog
六根清浄。





六根とは六識を生じる6つの感官。



すなわち眼、耳、鼻、舌、身、意。



目で見て耳で聞いて鼻で嗅いで舌で味わって身体に触れて、心の意によって判断をくだす。



ところがこれがマヤカシに過ぎぬ事がある。



早い話、その六根の1つが間違っていれば、これは数学上ではマイナスになってしまう。



するとその他の5根が正しい判断をしていたとしても、畢竟するに、マイナスである。



掛け算ではそうなる。一つでもマイナスがあれば、これをどれだけ掛け合わせても、答はマイナスの表示になってしまう。



一つの感覚器官を正しくするということは容易ではない。ましていわんや、6根すべての判断をすべからく正しくしておくというのは容易ではない。



そして、おおおんにして、我らの総合判断は、実は、誤りなのである。



己の判断の誤りで以て、己の見る世界、これを真実界としてはならない。



六根清浄を唱えながら行者は歩く。



己を絶対視してはいけないからだ。
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次から次へよろこぶものの

2013年09月08日 09時42分03秒 | Weblog
さやさやさやさや。



風が草むらを渡っていく。



さやさやさやさやさやさやの風の音。草むらの音。



「さや」は「清」。「さや」は「明」。「さや」は「健」。「さや」は「淳」。「さや」は「調和」。



いのちを育てる「さや」。いのちを守る「さや」。いのちを支える「さや」。いのちを促す「さや」。いのちを愛(いと)しむ「さや」。いのちを褒め称える「さや」。



風の音。草むらの音。空を行く風の音。空の音。



わたしのいのちの空を行く風の音。いのちの音。



さやさやさやさやさやさやさやさやさやさやさや。



わたしのいのちの流れる水音。いのちの音。



これを肯定して、これに従って、これを高めて、これを深めて、次から次へよろこぶものの、全体の音、さや。



わたしはこれを聞く。



わたしはこれを聞くことが許された者。これを聞く。聞き耳を立ててこれを聞く。
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命のふるさとに帰ることができる者

2013年09月07日 04時50分46秒 | Weblog
ブッダンサラナンガッチャーミー。

わたしは仏さまに帰依を致します。

帰依とは?

帰命。仏さまのお命に帰っていくこと。

帰っていくところがあるということをよろこんでいられること。



すべてをおまかせにできるということ。

いいことも悪いこともないまぜて。



こちらの判断ではなくて仏さまの判断におまかせをしてしまう。

こちらの判断は「はからい」

仏さまの判断は「おはからい」

わがはからいを棄てて、仏さまのおはからいにゆだねてしまう。



わたしのはからう善は仏さまのおはからいの善の域には至れない。

わたしのはからう悪はほとけさまのおはからいの悪ではない。

仏さまに悪のおはからいなどがそもそもあるはずがない。



コブヨブ(わたし)の法名は「釈 応帰」

釈はお釈迦様の釈。仏さまの一族の証。

いままさに(応)、帰らんとする者。

何処へ?

命のふるさとに。

仏さまの国、お浄土に帰ることのできる者、コブヨブ。

よろこべコブヨブ。

わが命のふるさと、仏国土に仏さまが待っていてくださることを思い浮かべて、コブヨブは涙を感じている。
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秋晴れのいい天気

2013年09月05日 11時05分25秒 | Weblog
いいなあ。

空の天気がいいとこころの天気もよくなる。いい気持ちになる。

よし。

背振山に登ってこよう。

もち、車でだけど。

山頂から玄界灘を眺望できるぞ。

秋風を受けよう。

ここで弁当を開こう。

山頂を越えたら隣の県に出る。

ぐるりと大回りをして戻ってこよう。
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