ぐえいっしょ。グエイッショ。倶会一処。ともに、一つの処で会う。
*
これは仏説阿弥陀経にある文言である。
阿弥陀経は阿弥陀仏が建設した仏国土である「極楽浄土」のありさまを書いてある。
われわれはここへ往生をする。往生とは「(極楽浄土に)往って生まれる」ことである。
ここで仏の説法を聞いて「成仏」する。仏になって仏と合一する。
*
そこであなたもわたしも、彼も彼女も再会が成立して、いっしょになるのである。
したがって死は再会となる。亡き父も母も、ここでもう一度出会う。
で、お墓によくこの句が彫られている。
次に出会うところは阿弥陀仏の極楽浄土ですよ、と。
*
会うとなれば、そこで続きが始まることになる。死で終わりではなかったということになる。
いのちの物語は継続するのである。
*
「このままのわたし」が完成品であるとはどうしても思えない。
わたしは、娑婆世界ではなく、仏陀の世界に引っ越しを果たして、そこで再チャレンジが待っているのである。
しかも、今回は、導き手がいる。仏陀その人がわたしの手を取るのである。
こうやってわたしは仏道を歩んでいくことになる。
ゴール地点ではわたしも仏陀になるのだ。
*
阿弥陀経では、往生したわたしは、ガンジス川の砂の数ほどもある諸仏の仏国土へ、花かごに花を盛って出向いていって、諸仏の説法を聞く。まばゆいばかりの諸仏の光明浄土を見て回る。わたしの仏道修行がここで展開することになる。
わたしは見る見るうちに変化する。浄化される。すがすがしくすがすがしくなる。さわやかにさわやかになる。
明るさで言えば数等級も明度が上がっていく。たとえば3等星が1等星になって輝いていくことになる。
*
自分のこうした進化のさまを自分が見ていて、感極まっている。よくぞここまで進歩したものだと驚いている。
*
倶会一処した人たちも互いに互いをたたえ合うことになる。
わたしを成長させる成長エネルギーの源はすべて阿弥陀仏のおはからいである。慈悲である。
これまでは肉体のわたしの「苦しみ悲しみ」「躓き、悩み、失敗」がエネルギー源だったのが、そうではなくなっている。
*
そういう理想を極楽浄土で描いてある。
これで未来永劫にわたしたちは希望が持てるのだ。
わたしのはからいでは見えてこなかった世界が、仏のおはからいで実現していく。
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これは仏説阿弥陀経にある文言である。
阿弥陀経は阿弥陀仏が建設した仏国土である「極楽浄土」のありさまを書いてある。
われわれはここへ往生をする。往生とは「(極楽浄土に)往って生まれる」ことである。
ここで仏の説法を聞いて「成仏」する。仏になって仏と合一する。
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そこであなたもわたしも、彼も彼女も再会が成立して、いっしょになるのである。
したがって死は再会となる。亡き父も母も、ここでもう一度出会う。
で、お墓によくこの句が彫られている。
次に出会うところは阿弥陀仏の極楽浄土ですよ、と。
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会うとなれば、そこで続きが始まることになる。死で終わりではなかったということになる。
いのちの物語は継続するのである。
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「このままのわたし」が完成品であるとはどうしても思えない。
わたしは、娑婆世界ではなく、仏陀の世界に引っ越しを果たして、そこで再チャレンジが待っているのである。
しかも、今回は、導き手がいる。仏陀その人がわたしの手を取るのである。
こうやってわたしは仏道を歩んでいくことになる。
ゴール地点ではわたしも仏陀になるのだ。
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阿弥陀経では、往生したわたしは、ガンジス川の砂の数ほどもある諸仏の仏国土へ、花かごに花を盛って出向いていって、諸仏の説法を聞く。まばゆいばかりの諸仏の光明浄土を見て回る。わたしの仏道修行がここで展開することになる。
わたしは見る見るうちに変化する。浄化される。すがすがしくすがすがしくなる。さわやかにさわやかになる。
明るさで言えば数等級も明度が上がっていく。たとえば3等星が1等星になって輝いていくことになる。
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自分のこうした進化のさまを自分が見ていて、感極まっている。よくぞここまで進歩したものだと驚いている。
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倶会一処した人たちも互いに互いをたたえ合うことになる。
わたしを成長させる成長エネルギーの源はすべて阿弥陀仏のおはからいである。慈悲である。
これまでは肉体のわたしの「苦しみ悲しみ」「躓き、悩み、失敗」がエネルギー源だったのが、そうではなくなっている。
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そういう理想を極楽浄土で描いてある。
これで未来永劫にわたしたちは希望が持てるのだ。
わたしのはからいでは見えてこなかった世界が、仏のおはからいで実現していく。