遠雷の音はもう聞こえて来なくなった。日射しが戻って来て、外はまぶしく、いつもの炎天になっている。炎天を厭わない黄蝶が、ゆっくりと、いかにも平和の演出者であるかのように、庭の鹿の子百合の上空を舞っている。
僕は思いを文章化する作業をしている。生きている間でないと、これはできないことなのだ。生きているから、思っている。思っているから文章の反物が紡げる。紡げることが出来るときに、紡がないのはいのちへの侮辱に等しいではないか。
紡ぎ出した文章に価値があるかどうかは、問わない。問わないでおく。言葉の反物は、それをうち列べて眺めるものなのだ。眺めているとそれが即、わたしが現実にここで命を永らえていることの証左になる。
文章は織物。言葉は反物。わたしは、糸を紡ぎ出す虫である。