夜中に雨の降る音がしていた。朝になった。起きたら畑が濡れていた。濡れるくらいで、地下には滲み通ってはいないかもしれない。
まだ降りそうにしている。空が怪しい。
いつも通り5時過ぎには目が覚めた。でも、畑には出て行かなかった。様子見をした。
もうすぐ9時。朝御飯も食べた。トマト苗に追肥をしてあげたいが、まだぐずぐずしている。
夜中に雨の降る音がしていた。朝になった。起きたら畑が濡れていた。濡れるくらいで、地下には滲み通ってはいないかもしれない。
まだ降りそうにしている。空が怪しい。
いつも通り5時過ぎには目が覚めた。でも、畑には出て行かなかった。様子見をした。
もうすぐ9時。朝御飯も食べた。トマト苗に追肥をしてあげたいが、まだぐずぐずしている。
朝5時半にはもう畑にいました。垣根の南天の刈り込みをしていました。垣根にはミニバラも育っていました。棘が指に刺さって痛いので、これもほとんど刈り込んでしまいました。見違えるようにきれいになりました。
朝ご飯は9時を過ぎてしまいました。お爺さんと雖もよくまあ働きます。3時間以上もぶっ通しでした。
後で、残骸を一輪車で焼却炉の方まで運んで行ってもらいました。
今日は雨が降りそうです。もう空がその気になっているようです。わたしも読書です。
言葉が足りない。表現したいのに、言葉が不足している。じれったい。
言葉なんてどれだけでも埋蔵されているのに、おっくうがって鉱脈まで掘りに行かない。
怠け者をしてすませている。勿体ない話だ。しかし、言葉でないと捕獲が出来ないのか。
手に入れたい心の風景がいっぱいあるのに、言葉の網が打てないでいる。言葉で絵を描いて見せないと、納得をしないらしいのだ。
肉体が重いので、地球から外へは出て行けない。いってみれば閉じ込められた状態にある。
宇宙は何処までも広がっている。しかし、活用が出来ないでいる。
美しさを想像するだけで終わっているが、じゃ、未来永劫わたしたちとは無縁なのか。そうとは思えない。
楽しみはとってあるのだ。地球を離れて行く日が来るはずだ。地球を離れたら無限大の世界に遊べるのだ。
オリオン座にだって行けるだろう。其処へ行って、愉快を覚えて、そこでもう一生を送ることだって出来るだろう。宇宙空間が無駄になっているはずがない。
風がない。柔らかいアスパラガスの葉っぱでさえも、そよともしていない。極々安定をした状態にある。午後3時半。我が家の庭は百合の花園。今年はいつもの年よりもうんと育ちがいい。天使達が舞い降りて来ているだろう。これを眺めてうっとりとしているだろう。
天使達が見えないのが残念だが、見えないから訪れて来ていないとは言えない。わたしの目に見えていないだけ、ということだって有り得る。天使は、風と同じで、肉体の乗り物を必要としていないからだ。
今夜の夕食は焼きビーフンだった。おいしかった。
ビーフンは好きな食べ物である。
生まれ故郷の台湾を旅したときに、この料理にすっかり魅せられてしまった。
台湾の黄先生のご婦人が作って下さったのが絶品だった。忘れられない。
ああ、台湾をまた旅してみたいなあ。しかし、もうこの高齢では、無理だろうが。
「20020年の私」
2020年5月。そうするべきところを、キーを打つ指が滑ってしまって、20020年5月としてしまった。そしてふっと、そういう今を生きているヘンな感覚に襲われた。これから18000年を過ぎた先に来るのが20020年である。途方もない遙かな先の未来だ。だが、その時にも「今現在」はあるのだ、間違いなく。その「途方もない未来の現在を生きているわたし」を思ってみた。わくわくした。わたしは生きていない? そう、わたしは生きていないだろう。だが、わたしによく似た別のわたし(人類によく似た別の生命体?)が生きているかもしれない。その彼も自分のことを「わたし」と呼んでいるのだ。地球誕生から46億年が過ぎている。宇宙の始まりはそれから100億年を遡る。だったら18000年なんて軽快に過ぎるだろう。わたしがその遙かな過去に生きていた事実なんて、もはや事実の部類にすら入っていないかもしれない。そういう軽快さの中を生きているわたしだ。だったら、今現在どんな混迷の世を生きていようと、重々しくではなく、悲愴な顔をしてではなく、もっと軽快に、さらりと生きていていいように思われた。
☆
このわたしの小文が今朝のS新聞の読者のページに掲載された。10日ほどまえに投稿していた。掲載されると、思いが通じたようで嬉しい。
朝5時過ぎに起床。明るくなっている。すぐに外に出た。さわやかだ。
今日は家の周囲の庭と畑の仕事をすることにした。まずは種から蒔いていたヒャクニチソウを6株ほど庭先に移植した。それから買ってきていたニチニチソウ5株をプランターに移植した。その後は小径の草取り。
で、朝ご飯の時間になった。食べた後で新聞を開くと、読者のページに、10日ほども前に投稿していた僕の小文が、掲載されていた。
気温は26℃、いま。寝椅子に寝て、読書中。いい本だ。読み飽かない。文章がイキイキ生きている。
わたしは、どちらかというと、反速読派。読み方が遅い。ゆっくりよく噛んで、味わって食べる方。
暑くも寒くもない。ちょうどよい。風は入って来ない。吹いていない。のに、ユリの甘い香りが流れて来る。それにときおり気が付く。
百合が咲き出した。我が家はまあちょっとした百合園である。最初に透かし百合が咲き出した。それを追いかけるようにして、一つまた一つと赤いテッポウユリが蕾みを開いた。透かし百合には香りが少ないが、この赤いテッポウユリはよく香る。甘く香る。気持ちが弾む。
昨日友人がやってきたので、彼にも数本差し上げた。仏壇に飾ってもらえるように。さっそく今朝、写真がスマホに送られてきていた。
まだ先駆けだけど、これから次々と咲き出して来るだろう。道路を行く人にも見てもらいたいものだが、人の家の庭先にまで入ってくる人はあまりいない。看板でも立ててておいたらいいのだろうが。
オニユリや鹿の子百合はまだもう少し先になるだろう。