読者の皆様、一年間、このお爺さんのブログにお付き合い下さいまして、有り難うございました。お礼を申し上げます。
なにしろ、このお爺さんは田舎者、怠け者。井戸の中の蛙、了見が狭いのです。差し上げるものがありません。ご退屈なさったことでしょう。
今日は2021年の最後の日。明日からは2022年となります。全宇宙の元気を頂いて、これからも書き続けていきたいと考えています。よろしくお願いします。
読者の皆様、一年間、このお爺さんのブログにお付き合い下さいまして、有り難うございました。お礼を申し上げます。
なにしろ、このお爺さんは田舎者、怠け者。井戸の中の蛙、了見が狭いのです。差し上げるものがありません。ご退屈なさったことでしょう。
今日は2021年の最後の日。明日からは2022年となります。全宇宙の元気を頂いて、これからも書き続けていきたいと考えています。よろしくお願いします。
家の四周、庭の小径に、箒の目を立ててきました。明日からの新しい一年様が気分良く胸張ってのっしのっしとお通り下さいますように、掃き清めて来ました。こちらもすっきりしました。
箒を握っていた手先が寒さでかじかみました。
一年の歳月様、有り難うございました。あなたさまはパン。囓っては喰って、囓っては喰って、囓っては喰って、わたしに満たし、わたしを活動へ導いて、過ごしました。今日は一年の最後の日、大晦日です。
こうしてわたしをずっとずっと新しい日々の、活動へ導いて下さったのに、わたしはあなたの善意を十分に役立て得なかったかもしれません。でもこれで一区切りです。区切りとします。善悪、損得、清濁、悲喜、苦楽合わせて一から十まで残らず、有り難うございました。
明日からは新しい歳月様がわたしのパンとなってくださいます。
大晦日31日だというのに、畑に出た。
青梗菜(チンゲンサイ)の畑の畝の草取りをした。
粉雪が舞っていた。
寒いはずなのに、寒さをものともしないで。
丸椅子に座って、黙して、右手の農具を動かした。
喜びが満ちた。微量の、スプーン一杯ほどのよろこびが、こころの中に湧き上がった。それで塘の水が満ちた。
いかに小さな塘の持ち主であろう。
それで作業終わりにした。
わたしは愛されたことがあった。
おんなの人に愛されたことがあった。
わたしは絵の中で眠っていた。
するとそこに一人の美しいおんなの人が通りかかって、わたしを見下ろした。
わたしはまだ幼い少年だったがために、清潔な睫を保っていた。
おんなの人は、そのわたしの清潔な睫に唇を触れて、すばやく立ち去っていった。
わたしはその軽いタッチでもって目覚めを覚えた。
☆
わたしはおんなの人に愛されたことがあった。ただしそれは絵の中の出来事だった。絵の中の風景は白銀の世界だった。
小雪が舞い遊んでいる。ひらりひらりひらり、舞い遊んでいる。大晦日をふさわしくせんがために。
ブッダンサラナンガチャーミー。ダンマンサラナンガッチャーミー。サンガンサラナンガッチャーミー。
わたしは仏陀に帰依いたします、ひたすらに。ひたすらにひたむきに。
わたしは仏陀の説かれた法=宇宙真如に帰依いたします、ひたすらに。
わたしは仏陀と仏陀の説かれた法に帰依する菩薩衆に帰依いたします、ひたすらに。
☆
ほうとうにそうか? 一切をまかせていられるか?
ならば、恐れを抱いていないのだな?
どんな恐れをも抱いていないのだな?
☆
わたしが恐れを抱いていても、抱いていなくとも、太陽が大銀河とともある。地球が自転をしている。冬になっている。歳月が流れている。
今日は小雪が舞っている、美しく儚く輝いて。恐れおののく小心のわたしにはかまわずに。
その<おかまいなし>に依拠依存していられるのが有り難いではないか。
一生をつぎ込んで、仏陀を求めている。求め得たら安心することができる。そのためだ。
死のうと死ぬまいとどちらでいてもいい。そういうようになれるために。
何が待ち受けていようと、先へ先へ進んで、怖じないようになる。そうなれるために。
すでに盤石な地点に歩を進めてきているのに、そうなっているのに、それを受け止めていないわたしがいる。怖じているわたしがいる。
小鳥が鳴いているのに、小鳥の声を聞けないでいる。そういうわたしがいる。
安心を得られないわたしがいる。
「安心をしてもいいのだよ」の仏陀の声が聞けないでいる。そういう怖じ怖じしたわたしがいる。
地球に下りて来てすでに76年間を過ぎたというのに。まだだ。まだ不安なままでいる。
よろこびの地球に下りて来て、よろこびにまみれて過ごしてきたはずなのに。
どうも捨てられない。
有り余った水菜の苗が捨てられない。
「わたしを見捨てないで!」「わたしを土に植えて下さい」「わたしも生きたいのです」そういう叫びが聞こえて来そうである。
ほっそりしている。草丈も10cmほどくらい。
捨ててもいいはずなのに、捨てられない。
今日は、北風の中に畑に出て、耕して、土を柔らかくして、1本1本植え込んで行った。
あなたも元気になりなさいと言って最後にたっぷりの水を掛けてあげた。
といっても10株ほど。
昨日、大きいのを20株ほども移植した。その余りだ。
沢山植えても、多すぎて食べきれないはず。
そこで捨てたら同じ事になる。それでも植えた。ともかく要求を無視できなかった。
どうも捨てられない。
有り余った水菜の苗が捨てられない。
「わたしを見捨てないで!」「わたしを土に植えて下さい」「わたしも生きたいのです」そういう叫びが聞こえて来そうである。
ほっそりしている。草丈も10cmほどくらい。
捨ててもいいはずなのに、捨てられない。
今日は、北風の中に畑に出て、耕して、土を柔らかくして、1本1本植え込んで行った。
あなたも元気になりなさいと言って最後にたっぷりの水を掛けてあげた。
といっても10株ほど。
昨日、大きいのを20株ほども移植した。その余りだ。
沢山植えても、多すぎて食べきれないはず。
そこで捨てたら同じ事になる。それでも植えた。ともかく要求を無視できなかった。