2月4日の朝、滋賀県甲賀市水口町にある浄土宗家松山 大徳寺を訪れました。
徳川家康が幼少の頃の学問の先生だった僧 叡誉が開いた寺院であったことから、後に家康から家松山という山号を拝領した寺院です。寺号の大徳寺は「大将軍徳川」に由来すると云われてます。
過去記事<家康ゆかりの大徳寺へ(1)>
鐘楼
豊臣時代、交通の要衝であった水口を治めた水口岡山城は関ケ原の戦の後に廃城となりましたが、城主であった長束正家の守護仏と伝えられる阿弥陀如来立像が水口岡山城の廃城とともに安置されることとなったそうです。
大日堂に安置された大日如来坐像
大日如来は日本密教では両界曼荼羅(金剛界曼荼羅・胎蔵曼荼羅)の主尊とされ、神仏習合の解釈では天照大神と同一視もされています。
地蔵堂
寺紋は「立ち葵」で、徳川の葵を含む紋の使用を許されました。
山門前の石垣は珍しい積石法(植石伏)で、作庭の名手 小堀遠州の作と云われています。
また、関ケ原の戦で徳川方の池田軍に取り囲まれ、謀略で非業の死を遂げた最後の水口岡山城主 長束正家とその正室 栄子姫(本多忠勝の妹)の遺児は仏門に入ってこの大徳寺3世還誉上人となり、父母の霊を弔いました。
滅びた者と栄華を極めた者・・・豊臣時代から徳川時代初期にかけて様々なドラマが交錯した大徳寺を後にして、お次は古城山の麓にある古刹、大岡寺に行ってみます
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