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<経産大臣指定伝統的工芸品> 宮崎 都城大弓

2021-08-23 12:55:29 | 経済産業大臣指定伝統的工芸品

 「都城大弓」

 Description / 特徴・産地

 都城大弓とは?
 都城大弓(みやこのじょうだいきゅう)は、宮崎県都城市周辺で作られている竹工品です。都城市周辺は良質な竹の産地として知られ、古くから都城大弓を含む弓づくりの他に、木刀などさまざまな武具がつくられてきました。
 特に和弓(わきゅう)は日本でトップクラスのシェアがあり、現在でも、国内の和弓の多くが都城市で作られています。このように和弓の産地として名高いことから、都城市では毎年弓道の全国大会が行われるようになりました。
 都城大弓の特徴は、良質な竹で作られた2メートルをゆうに超える長さです。弓を長くすることによって、命中率があがり、遠くまで矢を飛ばせることから古くより優れた武具として全国的に知られていました。
 武具として優れているだけでなく、弓のにぎり部分には鹿の革を使った美しい模様もあしらわれており、和弓としての風格も兼ね備えています。実用的なのはもちろん、美しさも併せ持った工芸品です。

 History / 歴史
 弓は遠い戦国時代などでは武器として、または武術の鍛錬の道具として作られてきました。都城市でも、豊富な竹を利用して古くから都城大弓など竹細工が作られてきたと考えられています。残念ながら現存する資料にいつごろから都城大弓が作られたのかを知ることができるものはありません。
 江戸時代において、都城から鹿児島周辺を治めていた島津藩(しまづはん)の領主によってまとめられた、江戸時代後期の書物「庄内地理志」に都城での弓づくりについての記載が見られます。江戸時代においてはすでに都城での弓づくりが盛んだったということが伺える貴重な資料です。
 さらに、弓道が盛んだった島津藩での弓への需要が高かったことから、都城での弓づくりを島津藩が保護していたという記録も別に残っています。
 明治時代になると楠見善治という人物が鹿児島からさらに高度な技術を持ち寄り、弓づくりの技術を発展させました。その技術はのちに認められ、1994年(平成6年)には、国の伝統工芸品に指定され、現在も高い技術を脈々と受け継いでいます。

*https://kogeijapan.com/locale/ja_JP/miyakonojodaikyu/ より

 匠の技を継承し、“日本の心”今も息づく、都城大弓
 都城大弓は南北朝の時代からその伝統と技術が伝承され、古来では武士、現代では多くの弓道家から高い評価を受けている。
 尚武の国と言われ、鎌倉武士のの気風を明治になるまで保持していたとされるこの地方では、武道が奨励され、武道具の製造も盛んであった。

 
 「都城大弓」の由来
 都城は、中世に島津荘と呼ばれる国内最大の荘園を治め、後には薩摩藩主となった「島津家」の発祥の地である。古来より尚武の土地柄であった薩摩藩では、武道が奨励され、武具の製造も盛んに行われていた。なかでも、都城大弓の名声は高く、江戸時代初期にはすでにその製法が確立されていたと言われている。
 現在でも都城では、国内の竹弓の約90%以上を生産している。今回は、都城大弓製造の伝統工芸士である、御弓師(ごゆみし)の永野重次(ながのしげじ)さんにお話をうかがった。

 「都城大弓」の歴史
 永野さんの弓の作業場は、都城市街から車で20分ほどの、静かな場所にあった。永野さんは、いかにも伝統の武具を作る職人さんの風情を持つ、寡黙な人であった。その永野さんは訥々と弓の歴史を語ってくれた。「もともと武道が奨励された土地柄もありましたが、ここは良い品質の竹の生産地でもあったのです。江戸時代の文献にもそれは書いてあります。そして明治に入り、鹿児島から弓師、楠見氏が都城に来住し、多くの弟子を養成しました。今の弓職人はすべて直系にあたりますよ。また昭和の初期にはアジア諸国にまで販路を拡大したことで、弓の産地としての都城が確立されたのです。」


 日本の精神と弓の関係
 『てぐすねをひいて待つ』という言葉がある。この言葉の語源、手薬煉(てぐすね)の薬煉とは、松脂(まつやに)と油を練り合わせた粘着材のことで、それを弓の弦(つる)に塗り、強度を高めていた。すなわち手に『くすね』を取り、弓の弦に塗って、敵を待つ様子から来ているのである。他にも、故事成語に弓に関する言葉は多い。それほど日本の文化・精神と弓は深い関係があったのである。永野さんは、「日本の古来からの精神を引き継いでいることに、誇りを感じる。」と語ってくれた。


 「ああ、こんたびは、よか弓ができたあ。」
 弓作りは、もちろんその全工程が手作りである。しかもその工程はすべて、弓師が一人で行う。
 「私も、もちろん、いい竹を求めて竹林に入って行きますよ。弓の内側、外側、その他各部分で使う竹は違います。竹を切り出す時期は、11月から12月頃まで。この時期は、竹の渇水期に入るので、弓作りには最もいい時期なのですよ。そりゃ寒い時期ですが、いい竹を見つけたら、嬉しいし、寒さを忘れるほど燃えてきますよ。」と永野さん。「その後、数多い工程を経て、弓ができるわけですが、弓は生き物ですので、愛情を持って、自分の全身全霊を賭けて作らないと、人様にお見せできるような弓は作れませんね。」
 もし気に入らない弓ができたらどうするのか、質問をしてみた。しばらくの沈黙のあと「叩き割っと。(叩き割るのです)」という返事だった。丹精込めて作った弓には、一本一本製作者の名前が彫り込まれるのである。恥ずかしいものは、世間に出せないという職人の意地なのであろう。
 「では、自分でも納得できる弓が完成したら、どんな心境なのですか?」という質問に対して、それまで、隣で静かに話を聞いていた永野さんの奥さんが、
「『ああ、こんたびは、よか弓ができたあ。』と嬉しそうな顔です。」と笑顔で答えてくれた。


 職人プロフィール

 永野重次 (ながのしげじ)

 昭和12年生まれ。
 先代の跡を継ぎ、今年で大弓作り35年。

 こぼれ話

 都城の歴史と史跡

 都城地方が歴史上に姿を現したのは、8世紀からになります。当時、日向国には郡制がしかれ、都城地方は諸県郡(もろあがたぐん)に属していました。また、11世紀には平季基(たいらのすえもと)の開発により、荘園としての島津荘(しまづのしょう)がおこったといわれています。鎌倉時代の初めには、惟宗忠久(これむねのただひさ)が源頼朝より島津荘惣地頭職に任命され、のちに忠久は島津姓に改めました。この子孫がのちに南九州一体に勢力を持った島津氏です。
 室町初期になると、島津氏四代忠宗(ただむね)の子、資忠が当地を与えられ、資忠は領地にちなみ“北郷(ほんごう)”と改姓しました。以後、北郷氏は勢力を伸ばし、八代忠相(ただすけ)の時には、ほぼ都城盆地を統一。十代時久(ときひさ)の時には、勢力は最大となりました。豊臣秀吉の九州討伐後、北郷氏は配置変えにより、都城を追われますが、慶長4年(1599年)に起こった庄内の乱後、北郷氏は都城に復帰しました。
 近世には、当地方は薩摩藩の私領として都城島津(北郷)氏により、統治され、藩主に次ぐ禄高、また本藩同様の職制機構を持ち、領内に地頭を置いて支配していました。また、幕末の戊辰の役には、本藩に従い、都城隊士182名が参戦しています。さらに西南の役でも1,550名が西郷軍の一員として参戦しました。
 明治4年の廃藩置県に伴い、当地方には都城県が置かれましたが、一年余りという短期間でした。
 明治16年には宮崎県に組み込まれ、明治22年に都城町となり、大正13年4月1日に市制が施行されました。その後、沖水・五十市・志和池・庄内・中郷の各町村を合併、現在にいたっています。

*https://kougeihin.jp/craft/0631/ より


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