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イッピンNHK 「里山の“泳ぐ宝石”~新潟 ニシキゴイ~」

2023-05-20 12:29:12 | イッピンNHK

 第28回 2013年7月2日 「里山の“泳ぐ宝石”~新潟 ニシキゴイ~」リサーチャー: 山崎樹範

 番組内容
 新潟県が国内の生産の4割を占めるニシキゴイ。100近い種類がいるが、元々は江戸時代に黒いマゴイから突然変異で生まれたもの。今ではヨーロッパやアジアでも大人気だ。国内では、水槽で飼育できる「ミニ・ニシキゴイ」が注目されている。美しい姿や柄を作るのに重要なのは交配と選別。そして豪雪地帯の山間部という自然環境が決め手という。生産者の情熱が育んだニシキゴイの魅力を、俳優の山崎樹範さんが徹底リサーチする。

*https://www.nhk.or.jp/archives/chronicle/detail/?crnid=A201307021930001301000 より

 詳細不明につき、勝手に調べてみました。

 「ニシキゴイ」

 ニシキゴイの発祥地は長岡市の旧山古志村周辺と言われ、19世紀ごろに普通のコイから突然変異によって出現したものが始まりとされています。それから今日まで、本県を中心に養殖、改良がなされていろいろな品種がみられるようになりました。品評会も各地で盛んに行われています。近年では輸出も積極的に行われており、ニシキゴイは世界的な観賞魚になっています。

 ニシキゴイの品種解説  更新日:2019年3月29日更新

 「紅白(こうはく)」

 白地に赤い斑紋のもの。後述の大正三色、昭和三色とともに「御三家(ごさんけ)」といわれ、ニシキゴイの中心品種です。左のイラストのように赤斑紋が三つのものを、特に「三段紅白」といいます。

 「紅白(こうはく)」

 頭にまん丸の斑紋がある紅白を特に「丸点紅白(まるてんこうはく)」といいます。また、赤斑紋が四つあるものを「四段紅白」といいます。

 「丹頂(たんちょう)」

 頭にだけ、まん丸の斑紋があるものを「丹頂紅白(たんちょうこうはく)」といいます。

 「大正三色(たいしょうさんけ)」

 白地に赤と黒の斑紋のもの。「御三家」のひとつであり、ニシキゴイの中心品種。その名のとおり、大正時代に品種改良され作出されました。「三色」と書いて「さんけ」と呼びますが、これはその昔、「三毛」と書いていたことに由来するのではないかと思います。次の「昭和三色」も「しょうわさんけ」と呼ぶこともありますが、単に「さんけ」といった場合は、この大正三色をさします。

 「昭和三色(しょうわさんしょく)」

 黒地に赤と白の斑紋のもの。「御三家」のひとつであり、ニシキゴイの中心品種。その名のとおり、昭和時代になって品種改良され作出されたものです。大正三色との区別は初心者には難しいのですが、黒地であることから胸びれのつけねが黒かったり、頭から口先にかけて黒色が見えたりします(例外も多い)。黒がベースである根拠として、紅白や大正三色は生まれたての稚魚は黄色であるのに対し、昭和三色は黒色であることがあげられます。

 「赤無地(あかむじ)」

 その名のとおり赤一色のもの。胸鰭やお腹の下側まで完全の赤色のものは少なく、色調がよいものは貴重。

 「白無地(しろむじ)」

 その名のとおり白一色のもの。同じ無地でも赤無地に比べると商品価値は低い。紅白などは成長にするにつれ、赤色がなくなってしまい白無地となることがあります。

 「山吹黄金(やまぶきおうごん)」

 全身が金色に光り輝き、その色は山吹色系です。元々の黄金は黒光りしていますが、現在ではほとんど見かけなくなりました。黄金系の品種には、全身が銀白色の「プラチナ黄金」やオレンジ色に輝く「オレンジ黄金」などがあります。

*https://www.pref.niigata.lg.jp/sec/naisuimen/1199898085685.html より

 

 様々な色の鯉がいることは中国の西晋時代(4世紀)の書物に言及されている。一般的に、19世紀初期に日本の新潟県小千谷市と旧山古志村(現・長岡市山古志地域)を中心とする地域で食用として養殖していた真鯉の中から、突然変異した個体を人為選択して錦鯉の飼育が始まったと考えられている。水田で働く農民が、一部の鯉が他のものより明るい色をしているのに気づき、それを捕まえて育てたとされる。通常であれば他よりも明るい色は鳥やその他の捕食者に見つかりやすいため、その魚は生存しにくくなるのである。

 小千谷市や山古志村を中心とする地域で錦鯉の養殖が盛んになった背景に、1.冬期の非常食用として休耕田に鯉を養殖する習慣があり、2.山間部ゆえに隠田が多く存在し、比較的裕福であった、という2点が挙げられる。余裕のある農家の趣味として錦鯉の交配が進み、質の良い個体が売買されるようになった。それ以降も養殖は進み、20世紀までには数多くの模様が開発された。最も顕著なものは、赤と白の「紅白」と呼ばれるものである。

 1914年(大正3年)の東京大正博覧会に出品されるまでは、開発の程度が世に知られることはなかったが、東京博覧会以降には日本中で錦鯉への関心が高まった。さらに、錦鯉を飼う娯楽はプラスチック袋の発明以降は世界に広まり、飛行機や船の技術の進歩により、錦鯉の輸出は速く安全なものとなった。これらの要因により、錦鯉を低い損耗率で、世界中へ輸出できるようになった。現在は、多くのペットショップで広く売られており、専門のディーラーを通せば特に高い品質のものを買うこともできる。

 このように新潟県では錦鯉の養殖が盛んになったが、2004年(平成16年)の新潟県中越地震により、旧山古志村をはじめ一時は壊滅的な被害を受けた。また、コイヘルペスウイルスにより、廃業した業者もいる。

 2017年(平成29年)における日本の錦鯉の輸出額は36億3300万円であり、10年間でほぼ倍増した。出荷先は香港や欧州(ドイツ、オランダ)が上位。1匹2億円以上で取引されることもあり、全日本錦鯉品評会には外国から出品する愛好家も多い。

 海外では錦鯉人気が上がってきており、インターネットの普及に伴いインターネット販売も広まっている。

*Wikipedia より

 新潟発祥の泳ぐ宝石・錦鯉(前編):海外輸出が好調、1尾数千万円になることも  2021.01.16
 鮮やかな色彩をまとい、優雅に泳ぐ錦鯉(ニシキゴイ)は、「生きる芸術」「泳ぐ宝石」とたたえられる。元々は新潟県中越地方の山間部で食用として飼育されていた鯉が、高級観賞魚に生まれ変わり、欧米を中心に世界中で愛されるようになったという。

 海外輸出額は20年で5倍近くに
 毎年11月に開催される「新潟県錦鯉品評会」の会場には、青いビニールプールがズラリと並ぶ。一般庶民は観賞魚と聞けば、水槽の中で泳ぐ姿を思い浮かべてしまうが、錦鯉は庭園などの広い池で優雅に泳ぐもの。見下ろした際の色彩や模様、体形の良さで価値が決まるため、ビニールプールを地面に置いて、上からのぞき込めるように展示しているのだ。

 昭和期の日本では、庭の池で泳ぐ錦鯉が豊かさの象徴だった。しかし、現在は都市集中による住宅の狭小化、集合住宅化が進んだこともあり、錦鯉を見かける機会は少ない。その分需要も減っているかと思いきや、近年は輸出が好調で、世界中の富裕層を相手にするため、売り上げも鯉の滝登りならぬ、うなぎのぼりだという。

 海外輸出が急伸したのは21世紀に入ってから。財務省の貿易統計によると、金魚を除いた錦鯉などの観賞魚の輸出額は、2000年頃まで10億円程度だったが、19年には47.2億円と5倍近く上昇している。欧米やアジア圏では“Nishikigoi”の人気により、 日本語の“Koi”は錦鯉のことを指し、英語における“Carp”とは別物として浸透している。

 新潟県は錦鯉の発祥の地で、現在も養鯉(ようり)業者が300以上あるという日本最大の生産地。2020年で60回目を迎えた新潟県錦鯉品評会は、世界最大級の規模を誇り、82業者が合計753尾を出品した。コロナ禍のため、海外からの参加者は少なかったが、例年は1000人以上のバイヤーや愛好家が集まるという。入賞した錦鯉には数千万円の値が付くことも珍しくなく、そんな高級魚を一目見ようと多くの一般観覧者も訪れる。

 雪国の冬のタンパク源が“泳ぐ宝石”に
 錦鯉は江戸時代後期に、新潟県中越地方の古志郡二十村郷(現・長岡市、小千谷市、魚沼市の一部)で誕生した。元々は食用として、真鯉を飼育していたという。豪雪地帯のため、冬期には物流が寸断されるので、鯉は貴重なタンパク源であったのだ。暖かい時期は田んぼに水を引くための用水池で育て、冬は家の池に移してふたをしたり、土管のようなものを沈めたりして、雪につぶされないようにする。中には、家の床下にいけすを作って飼育した人もいたらしい。

 近親交配を繰り返すので、たまに突然変異で全身赤色の緋鯉(ひごい)が生まれた。さらに「浅黄(あさぎ)」という品種が隣村から入ってくると、粘土質の土と軟水の影響で一部が白色化した。その二つを掛け合わせたことで、白地に赤いまだら模様を持つ「紅白」が出現したと考えられる。

 「山間部は長い間雪に閉ざされるため、『うちではこんな色の鯉が生まれた』『こんな柄に育ったぞ』といった感じで、村の中で自慢し合っていたのでしょう。その暇つぶしが『これとこれを掛け合わせたら、こんな色や柄になるかも』と品種改良に発展し、成果を披露する品評会の開催にもつながったのでは」

 諸説ある錦鯉文化の誕生を、全日本錦鯉振興会新潟地区長を務める伊佐養鯉場の伊佐光徳さんはこう推測する。「紅白」に、墨と呼ばれる黒いまだら模様が加わった「大正三色」、口元まで墨がおよぶ「昭和三色」が誕生し、錦鯉の世界で「御三家」と呼ばれる代表品種となった。明治後期に食用として輸入された、大きく鱗の少ないドイツ鯉の影響も大きく、品種は一気に増えた。現在は全82種にも上るという。

 錦鯉が全国区になったのは、1914(大正3)年の東京大正博覧会で「越後の変わり鯉(変鯉)」として紹介されたのがきっかけであった。他に「色鯉」「花鯉」「模様鯉」などと呼ばれていたが、昭和10年代に「錦鯉」という呼び名が広く浸透した。

 復興の象徴として新潟の県魚に
 戦後の復興期から、新潟県では錦鯉の輸出を振興した。1960年代にビニール袋にいれて酸素を注入する空輸方法が確立され、ハワイの日系人の間で広まったことなどもあり、徐々に欧米で愛好家を増やしていった。

 新潟県の養鯉業者が本格的に海外輸出にシフトしたのは、養鯉業者も甚大な被害を受けた2004(平成16)年の新潟中越地震の影響も大きい。建物の損傷はもちろん、亀裂によって養殖池の水が抜け、地滑りで水路は埋まり、停電で酸素供給ポンプが止まったために、多くの錦鯉が死んだ。育てていた鯉の約8割を失った業者もいたという。

 地元発祥の錦鯉を守るべく、業者たちが復興に向けて歩み出すと、海外の愛好家からも多くの励ましの声や温かい支援が届いたという。ちょうど国内需要は頭打ちで、中国を中心にアジア圏での人気が高まっている時期でもあったため、行政と共に錦鯉のブランディングを意識し、復興後の活路として輸出強化を進めたという。

 新潟県は17年、復興の象徴として錦鯉を「県の鑑賞魚」に制定。現在は約8割が海外向けに販売されており、全国の輸出額の約6割を新潟県産が占める。

 目利きも多い海外の愛好家たち
 海外では和風の御三家よりも、金色や銀色をしたゴージャスな錦鯉が好まれそうだが、伊佐さんいわく「最初はそうでも、やっぱり御三家に行きつく」そうだ。

 金や銀などの錦鯉は模様が単一な品種が多いのに対し、御三家は色や模様の個体差が大きく、年齢に応じて変化していく。「この柄がさらに大きくなれば完璧だ」「来年あたり、ここの赤がもっと鮮やかに出るはず」などと予想し、購入を決めたり、成長を見守ったりするのがだいご味だと言う。

 最近の海外のバイヤーや愛好家は、養鯉場ごとの特徴までしっかりと把握し、「この鯉は伊佐昭和らしくていいね」「大日さんの長所が良く出ている」などと言いながら、購入を検討しているそうだ。伊佐さんにも「自分の育てた鯉は分かるものか?」と尋ねてみた。

 「仕事で訪れたカンボジアでアンコールワットに立ち寄った時、入り口近くで伊佐昭和が泳いでいた。一目見れば、絶対に分かるもの。自分が育てた錦鯉が有名な世界遺産で泳ぐ姿を眺めながら、海外を相手に仕事をする素晴らしさを実感し、誇らしかった」

 本国内での再評価が課題、「国魚」制定の動きも 2021.01.17

 海外で愛好家が急増している新潟県発祥の観賞魚・錦鯉(ニシキゴイ)。それに比して、国内での需要や認知度が低下していることが懸念される。世界に誇る日本の宝として、広く浸透させるために「国魚」に制定しようという声も高まっている。

 錦鯉の国内外での宣伝に一役買ったのが、新潟を地盤とした第64・65代首相の田中角栄である。目白の田中邸の庭では200尾もの錦鯉が泳いでいたことはよく知られている。在任中に完成した迎賓館の池に錦鯉を放ち、海外から訪問した貴人・要人たちにも記念品として贈呈するなど「国魚」としてアピール。そうした努力が、今日の輸出好調に貢献したといえる。

 息の長い錦鯉ブームによって後継者も育つ
 新潟県錦鯉品評会の2日後に、最高賞に輝いた大日養鯉場、そこから独立した業者で組織される「大日OB会」の品評会も視察させてもらった。

 こちらは業者しか入札できないため、少数の参加者の中で欧米人の姿が目立ち、中国語が飛び交うのも聞こえてきた。コロナ禍にもかかわらず、わざわざ来日したのかと思ったが、ほとんどが以前から日本に駐在して錦鯉を仕入れている専門のバイヤーだという。このことからも、海外での錦鯉熱を感じざるを得ない。

 40年以上養鯉業に携わる大日OB会の野上久人会長は、「昔は海外から鯉を買いに来たり、自分が国外に売りに行ったりする日が来るとは全く想像しなかった。最初の頃は一時的なブームだと思っていたのに、それが20年近くも続いている」と語る。日本の愛好家が高齢化しているのに対し、海外では若い世代の錦鯉ファンも多いというので、ブームはまだまだ続きそうだ。

 野上会長が何よりうれしいのが、養鯉業では将来の担い手が豊富なこと。日々の地道な飼育作業に加え、交配には試行錯誤や芸術的センスも必要となる大変な仕事だが、今では世界中を相手にし、成果を出せば大金も稼げる。若者にとっては、魅力的な就職先となっているのだ。

 国内での普及が課題
 全日本錦鯉振興会新潟地区長の伊佐光徳さんは、輸出が好調なことや後継者が育っていることを喜びつつ、懸念することもあるという。

 最近の錦鯉の話題といえば、「海外輸出が好調」「高額で取引されている」といったことばかりに注目が集まり、国内では錦鯉の素晴らしさが忘れられつつあることだ。伊佐さんは「日本ではお金持ちの道楽的なイメージがまだ抜けない。錦鯉は水槽でも育てられ、数百円から買えるので、もっと多くの人に親しんでほしい」と言う。

 鯉は飼育環境に合わせて成長するため、養鯉業者は春から秋まで広い野池に放流するのだが、一般家庭の水槽で飼えば小さいまま楽しむこともできる。実際、欧州では数千円のものがよく売れており、子どもが餌やりを担当するなど、家族全員でペットとして育てている場合が多いそうだ。

 さらに、優秀な錦鯉が大量に流出していることで、海外の養殖レベルも高くなっている。

 「日本のレベルとはまだ差があるが、特に中国の養鯉業者は頑張っていて、将来は強力なライバルになるでしょう。そのうち海外では、“錦鯉は中国発祥”と勘違いする人も増えてくるかもしれない。国魚に指定して日本の宝だとアピールしたり、もっと国内でも普及させたりすることが必要だと感じている」(伊佐さん)

 錦鯉の魅力を発信し、観光にも活用
 小千谷市の観光施設「錦鯉の里」では、錦鯉の魅力を広く発信している。資料展示室では錦鯉の歴史や品種、飼育方法などを解説し、観賞棟の巨大なプールや日本庭園の池では330尾もの錦鯉が華麗に泳ぐ。

 この施設がユニークなのは、館内を泳ぐ錦鯉のうち約250尾にはオーナーがいること。地元・小千谷産の錦鯉を購入してもらい、それを無料で飼育して展示しているのだ。1年間は必ず預けねばならないが、その後は成長具合などに応じて、好きなタイミングで自宅に持ち帰れる。錦鯉の普及に貢献しつつ、一般の入場者には触れ合いの機会を与えるという一石二鳥の運営方法である。餌やり体験もできるので、子どもたちは大量に集まってくる鯉に歓喜の声を上げていた。

 養鯉業の繁栄によって、昔ながらの里山が守られ、観光資源にもなっているという。農家の高齢化が進み、作業負担の大きい段々畑は年々使われなくなったが、錦鯉を成長させるための野池として活用することで、懐かしい風景が保存されているのだ。

 2017年には「雪の恵みを活かした稲作・養鯉システム」として、新潟中越地方の里山の風景が日本農業遺産に認定された。20年からはライトアップと花火大会を開催する「山古志 棚田・棚池あかりのページェント」も始まっている。

 2019年には自民党内で「錦鯉文化産業振興議員連盟」が設立されるなど、正式に国魚に指定しようという動きが活発化している。同年に全日本錦鯉振興会が作成した推進ポスターには、角栄氏が遺した「國魚」の墨書が使用された。

 海外での需要が拡大している今だかそ、国内でも日本の宝として再評価され、関心が高まることが期待される。

 取材・文・写真=ニッポンドットコム

*https://www.nippon.com/ja/guide-to-japan/gu900176/ より

*https://www.nippon.com/ja/guide-to-japan/gu900177/ より

 

 私も何度も訪れている「小千谷&山古志」。

 「魚沼こしひかり」それも「棚田」が多い地区であり、風景としては唯一無二の場所である。

 上記の写真の場所まで山道が続く。車から府をのんびり眺めていると、事故を起こしかねない急峻なところもある山の中。

 新潟地震が起きた直後に訪れた時は、本当に悲惨な状況だった。旧 山古志村へ続く道のいくつかは寸断され、復興を待つしか何もできなかった。翌年訪れた時は、ようやく道路が開通したが、まだまだ復興途上といった様子。

 数年後、復興を遂げた旧 山古志村には賑わいが戻っていた。たくさんの棚田とともに「闘牛場」も盛況であった。

 「ここしかない」風景がそこにはある。

 機会があれば、また訪れたい場所のひとつである。


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