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<小京都> 北海道 松前 2.

2022-07-04 08:35:05 | 小京都

「北の小京都 北海道 松前」

 室町時代から続いたアイヌとの長い攻防の末に支配者となった武田氏は、豊臣時代になると「松前」の姓を名乗る。それが松前藩の始まり。

 江戸時代には厳しい風土のため稲作が困難なため、石高を持たない唯一の藩だったが、やがて北前船による本州と蝦夷地との交易で益を得るようになり、その繁栄は、後に「松前の五月は江戸にもない」と記録されるまでになる。

 松前は日本最北の城下町だが、松前城は北方警備のために江戸末期に築城された比較的に新しいお城であり、城下町は明治維新に際しての函館戦争により、五稜郭から進行して来た旧幕府軍との戦闘で大半を消失し、今は偶然に戦災を免れたわずかの寺院が寺町で当時の面影を残している。

 後年、公園となった城跡には、日本一の桜の里を目指して桜の植林が始まり、今は八千本もの八重桜が、5月のゴールデンウィークの後に、北海道に春の訪れを知らせてくれる。

 これらは先人による品種の収集と保存による努力の賜物だ。

 最近では城下町が再現された松前藩屋敷が造られ、観光面においても脚光を浴びつつある。

 =北海道の小京都・松前町の観光ポイント=
 「桜の名所」がある

  松前の桜
  松前の桜は、江戸時代に本州から渡ってきた人が、ふるさとを懐かしんで植えたのがきっかけと言われています。松前の桜は種類の多いことで知られ、現在は、松前生まれの約100種を含む250種1万本の桜を見ることができます。その約8割は八重咲で、春には、色・形とりどりの桜がリレー咲を繰り広げ、約1カ月間に渡ってお花見を楽しむことができます。
  松前公園は「日本さくら名所100選」に選ばれ、日本さくらの会から「さくらの里」の称号が与えられています。

  三大名木(松前公園内)
  【光善寺の血脈桜(けちみゃくざくら)】
  光善寺の境内にある推定樹齢300年以上の古木で、松前を代表する桜の品種「南殿」の親木。この木にまつわる伝説もあります。

  【龍雲院の蝦夷霞桜(えぞかすみざくら)】
  霞桜は日本各地に自生していますが、植物分類学者で元北海道大学教授の館脇操博士が、歴史的背景から龍雲院の境内にある霞桜を、「えぞかすみざくら」と命名。

  【天神坂の夫婦桜(めおとざくら)】
  1本の幹から染井吉野と南殿が寄り添うように生えていることから、中睦まじい夫婦に例えて「夫婦桜」と命名。

*https://www.town.matsumae.hokkaido.jp/hotnews/detail/00001353.html より


 江戸時代からの「城下町」

  「松前町」道内唯一の城下町を歴史観光
    北海道の南端に位置する松前町は、北海道で唯一、また、最後に造られた日本式城郭である福山城(松前城)をはじめ、古い寺社が立ち並ぶ寺町など、かつての城下町の雰囲気が感じられるスポットがたくさんある。長年ガイドとして松前の魅力を伝えてきた達人による松前歴史散歩のススメ。

    渡島半島の南西部に位置する松前町。函館から国道228号線を南西に進むこと約2時間。北海道最南端の白神岬を過ぎ、町内に入ると、丘の木々の上に福山城の屋根と白い城壁が目に入ってくる。一般的に「歴史が浅い」といわれることも多い北海道において随一の歴史をもつ唯一の城下町であり、今でも江戸の風情が感じられる町並みが広がっている。

  幕末につくられた福山城とその北側に広がる寺町は、明治以前の北海道の歴史を理解するうえで重要な遺産として、2004年に「福山城(松前城)と寺町」として北海道遺産にも選定されている。松前城のある松前公園とその周辺は、江戸の風情を感じながら歴史散歩を楽しめるエリアだ。


 名刹の「お寺」がある

  法幢寺,龍雲院,法源寺,光善寺,阿吽寺,専念寺,正行寺,法華寺

 京都の影響を受けた伝統の「お祭り」が今も続く

  【松前城下時代まつり】 8月13日~15日(3日間)
  城下町ならではの奇抜なイベント。バイクを馬にみたてた「バイク武者軍団パレード」は必見!甲冑を身にまとったライダーが町内の国道を疾走。また、大縁日、盆踊り、花火大会が催される。

*https://www.little-kyoto.com/hokkaido/matsumae.html より

 

 【知られざる北海道】vol.7 「北の小京都」松前で知られざる寺町を歩く(前編)

 「北の小京都」といわれるのが、最北の城下町・松前ですが、実は松前の城下町は、往事の町並みがほとんど残っていません。幕末の戊辰戦争(箱館戦争)で新政府側に寝返った松前藩は城下に火を放って逃走。これで、寺町も焼けてしまうのです。ところが、実際は火を放つのを自重した賢い住職が・・・。その結果、素敵な寺町が一部に残されたのです。

 幕末に松前藩は奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい=陸奥国・出羽国・越後国の東北諸藩が輪王寺宮・北白川宮能久親王を盟主として新政府軍に対抗した同盟)に属していましたが、東北諸藩が新政府(薩長連合)に対して降伏すると、いち早く新政府側につき、北上する旧幕府軍を迎え撃つことになります。

 慶応4年(1868年)、土方歳三を総督とする旧幕府軍の攻撃を受けた福山城(松前城=以下は松前城と記します)は、軍備も旧式で、蟠竜丸(木造スクーナー型蒸気船)・回天丸(木造外輪式の蒸気船)などからの砲撃などであっけなく落城となります。
このときに松前藩側は城下に火を放って逃走。寺町の各寺にも火を放つことを強要しますが、一部の住職はこれを受け流し、火を放つのを自重します。こうして今もこの一角だけが実は往事と同じようなたたずまいをみせています。

 実は寺町はアイヌと対峙していた中世松前の防御線
 「実は寺町は松前城(福山館=ふくやまだて)を築くときに、山側の防備を固めるために天守閣の山側に寺を配したものです。これは中世には対峙する敵がアイヌだったことを物語っているそうです」と解説するのは、寺町を案内してくれた松前の「温泉旅館矢野」の若女将、杉本夏子さん。

 松前という地名はアイヌ語の「マツ・オマ・イ」(婦人・居る・ところ=永田地名解)に由来。つまり、先住民であるアイヌが住む地に、和人の女性が共存したという珍しい状況を表している地名です。
 松前から上ノ国にかけては、北海道では最初に和人が定住した場所です。1606(慶長11)年に福山館(城)を築城する前にはアイヌと和睦しているので、近世では対アイヌの防御というより、城の鬼門守護という色彩が強かったのかもしれません。

 ちなみに松前城のできる前の、中世的な山城の大館は、松前城のほぼ北700~800mほどのところにありましたから、こちらはアイヌから守るという意味合いも強かったと思われます。

 光善寺にまずは参詣したい
 さてさて肝心の寺町です。その中心的な存在は、国指定史跡の松前藩主松前家墓所ですが、歴代の藩主の墓が並んでいるだけで、面白みには欠けます(キリシタン信仰と関係があるとされる織部灯籠などもありますが)。

 注目の寺は、光善寺(高徳山千嶋教院光善寺)。
 寺伝によれば光善寺は、天文2年(1533年)に建立された浄土宗の寺です(創建時は高山寺で元和7年光善寺と改称)。松前城の前身、福山館が築かれるのが1600年(慶長5年)。蠣崎姓をアイヌ語のアイヌ語の「マツ・オマ・イ」を漢字に直して松前にして、松前慶広(まつまえよしひろ)を名乗ったのも家康に所領を安堵されてからですが、光善寺はそれ以前の室町時代の開山。家康が生まれたのが天文11年(1542年)ですから、家康が生まれる9年も前に開山したことになります。

 光善寺境内に「義経山の石碑」という不思議な石碑があり、「無事に蝦夷地に上陸した義経は、神仏に深く感謝、 阿弥陀千体仏を刻んで安置」との伝承から「義経北行伝説」の一部にもなっています。つまり義経ゆかりの寺が義経山欣求院で、明治の神仏分離・廃仏毀釈と戊辰戦争の戦火という荒波のなかで義経山欣求院は焼けてしまい光善寺に合祀されたと伝えられています。

 その光善寺、実は松前を代表する桜の品種「南殿(なでん)」の親木となる血脈桜(けちみゃくさくら)の寺として有名で、桜シーズンには多くの観光客がやってきますが、それ以外はほとんど訪れる観光客がありません。逆にいえば、「桜の寺」としてのみ注目されているにすぎないのです。

 本堂などは近年の再建ですが仁王門と山門は箱館戦争の戦禍を免れて現存しています。現存する朱色の山門・仁王門は宝暦2年(1752年)の建立で、その先にある中国風の鐘楼門(弘化4年築)とともに、ここが北海道であることが信じられないくらいに京都的です。

 光善寺一帯は道内唯一の近世的な寺町として「福山(松前)城と寺町」として北海道遺産にも認定されているのですが、あまり注目されていないまだまだ穴場的な存在になっています。

*https://hokkaido-travel.com/hokkaido-heritage/matsumae-kyoto/ より

 【知られざる北海道】vol.7 「北の小京都」松前で知られざる寺町を歩く(後編)

 龍雲院、法源寺、法幢寺など5つの寺や松前藩主松前家墓所が現存し、道内唯一の近世的な寺町として北海道遺産「福山(松前)城と寺町」にも認定の松前の寺町。前編ではその由来の秘密と光善寺を紹介しました。後編では龍雲院、法幢寺、阿吽寺に参詣しますが、そこには北海道に渡った安東氏の歴史や、北前船で運ばれた京の文化など、知られざる北海道が満載!

 龍雲院は曹洞宗の寺で、寛永2年(1625年)の創建。箱館戦争の戦禍をまぬがれ、江戸時代のままの伽藍(がらん)を残す貴重な寺院です。本堂・庫裏は天保13年(1842年)の建築で、松前にある現存する本堂建築では最古のもの。しかも新潟県柏崎の大工によって建築された、各部に優れた彫刻を用いた建物ということで国の重要文化財に指定されています。素敵な鐘楼は弘化3年(1846年)築のもの。
龍雲院という名は、松前藩2代藩主・松前公広(まつまえきんひろ)の正室として京から腰入れした奥方(大炊御門資賢の娘)が亡くなった長男の冥福を祈って、松前家菩提寺・法幢寺の三世良天和尚が開山。寺名も早逝した長男・松平兼広の戒名からとったものと伝わっています。ちなみに夫の松前公広は、元和6年(1620年)、福山城の城下町を整備しているので、城下町整備直後に創建ということになります。

 阿吽寺は北海道最古の寺!?
 松前家の菩提寺で、山門は天保5年(1834年)築の法幢寺(ほうどうじ)、松前家の祈願所の阿吽寺(あうんじ)など地図を見ていただけばよくわかるのですが、小さなエリアに密集するように寺が固まっています。
 阿吽寺に関しては、実は「北海道最古の寺」という説も。
 十三湊・福島城の城主・安東氏の菩提寺で山王大明神を祀った阿吽寺(現在の五所川原市の山王坊日吉神社境内にある山王坊遺跡が跡地と伝えられます)の主僧・永善坊道明と真言修験者・山王坊らが、南部氏に敗れた安東一族に随従して蝦夷地に渡海。蝦夷地に渡った安東氏は茂別館(もべつたて/現在の北斗市矢不来)に舘を築きますが、この居館近くに建てられた阿吽寺が北海道における最初の寺院建立といわれています。
 十三湊は、中世、日本海北部最大の国際交易港。
 それを拠点に活躍した安藤盛季(あんどうもりすえ)は、嘉吉3年(1443年)頃(松前藩史『新羅之記録』による)、南部義政に攻撃され、蝦夷地へ退転。茂別館を築いていますが、永正9年(1512年)以降に安東氏が築いた大館(現在の松前にあった居館=松前町神明の徳山大神宮が跡地)に移転し、大永7年(1527年)、蠣崎義広(かきざきよしひろ=松前氏の祖)が再興し、正式に蠣崎氏(後の松前氏)の祈願所となりました。

 「海渡山阿吽寺」と称しているのは、その歴史的な由来からです。
 寺の場所は、元和3年(1617年)頃、松前城の鬼門(北東)鎮護のため、現在の場所に移っています。寺の山門は松前城の北東側にあった堀上門を移築したもの。戊辰戦争の戦火で消失した山門の代わりに松前城の城門が転用されたもの。
 明治6年、北海道開拓使は新政府の方針として、松前城の破却と残存する建物を役所や官庁へ転用することを命じたのです。その結果、寺の山門として堀上門が奇跡的に残されたという話。

 余談ですが、安藤盛季の蝦夷地渡海に従った武将に武田信弘、河野政通、相原政胤らがいますが、そのうちの河野政通は、宇須岸に館(だて)を築きます。「その形が、箱に似ているところから、土地の人は『箱館』と呼び習わすようになり、それが函館という地名の由来になったのだとか。

 松前の寺には数々のドラマが隠されています。

 北前船で運ばれた京風の文化
 しかも地元の人はその魅力にまったくといっていいほど、気づいていないのですが、素敵な石仏が随所にあります。
北前船で運ばれた京風の文化が背景にあり、石材も越前国・足羽山(現在の福井市)から九頭竜川を三国湊まで下り、三国湊から北国船で運ばれた笏谷石(しゃくだにいし)を使った場所がかなり多くあります。これは北前船の船倉に、船の安定を図ることも兼ねて笏谷石を置いたからとか。

 歴史好きにはたまらない魅力も随所に隠されているのが、「北の小京都」の魅力です。
 松前は桜の季節が有名ですが、実は有名な松前屏風(小玉貞良作)に描かれた松前は、宝暦年間の秋の松前。江差屏風の春と対になっているといわれますが、松前出身で松前を知り尽くした画家、小玉貞良があえて秋を描いたのにはそれなりの理由があったことでしょう(もちろん桜などは当時は植栽されていませんが)。

 俳句の歳時記には「松前渡る」と「松前帰る」という季語があります。文字通り、春に渡り、秋に帰るという出稼ぎ労働を意味する季語ですが、冬支度をしながら北前船に北の海の幸を満載する秋は、さぞかし賑やかだったことでしょう。もちろん、当時、アイヌとの交易は松前藩が独占していましたから、城下町の活気はまさに屏風絵を見れば一目瞭然です。

 さてさて、松前の旅の拠点となる宿ですが、今回寺町をガイドしてくれた若女将の杉本夏子さんが頑張る、温泉旅館矢野は、松前随一の老舗。フロント前には甲冑など数々の歴史資料も展示されていますし、フロント背後には巨大な松前屏風(レプリカ)が掛けられています。
事前に予約すれば、松前藩主の味わった「藩主料理」を堪能することも可能です。
 「松前藩主第14代徳広候の婚礼の祝膳を参考にして、現代の人の口に合う様にアレンジしています」(杉本さん)とのこと。

*https://hokkaido-travel.com/hokkaido-heritage/matsumae-kyoto2/ より

https://blog.goo.ne.jp/admin/editentry/?eid=a90cf718b32e11cf6665a09dd60b40e7&sc=c2VhcmNoX3R5cGU9MCZsaW1pdD0xMCZzb3J0PWRlc2MmY2F0ZWdvcnlfaWQ9OTkzNDdmMWFhOWE5YWM2N2RkOTM3MDYzNDViYzM5YzgmeW1kPSZwPTY=

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