ねこ庭の独り言

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国防婦人会 - 2 ( 日本への憎しみを語らない、左傾の学者 )

2018-06-24 21:47:36 | 徒然の記

 国防婦人会の設立者は、三谷英子、安田せいの両氏です。発案者はせい氏ですが、彼女は、自分より人望のある三谷氏を代表として立てました。

 昭和7年に、二人は大阪から上京し、東京の同志三宅イネ氏らと会い、陸軍省へ設立趣意書と会則案を出しています。陸軍省で、氏らと会談したのは、恩賞課の中井良太郎大佐でした。

 藤井氏は、国防婦人会が中井大佐に認められ、設立趣意書の中に書いた「本会の特色」の5項目を、紹介しています。

   1. 家族主義的な、家からの国防   2. 婦徳による務め

   3. 資金でなく、熱と誠       4. 会費少額

   5. 地味な活動

 氏はこれに関し、次のように説明しています。

 「いったい、せい自身、我が家を整え、婦徳を基として、温順かつ貞淑たらんとして、国防婦人会を始めたのであろうか。」「夫の久吉がせいに対して、家庭を捨てて公共のためにつくせと励ましたので、せいが、会の結成に踏み切ったのである。」

 「せいの描いた国防婦人会は、社会的に活動する婦人会である。婦徳は、国家が求めているのであって、婦人大衆の願いではない。」「陸軍は会を通じ、出征軍人の妻たちに家庭を守り、貞操を守るように教化の対象と考えていた。せいたち活動家は奉仕のため、奉仕に出ることができる婦人を組織し、出征軍人の妻は最初から含まれていない。」

 「軍が対象と考えていた出征軍人の妻たちは、国防婦人会にとっては、奉仕される側なのである。」「当然の帰結として国防婦人会は、出征軍人の家族でない婦人層へと広がっていった。これがせいらと、陸軍のイメージのズレだった。」

 氏は軍が公認した5項目のうち、せい氏らの活動に該当するのは、3と4だけであると説明します。エプロン姿にたすきがけで、兵士たちに奉仕する彼女たちの派手な活動が、「5の地味な活動」であるはずがないという面白い説明です。

  「国防婦人会は、陸軍が与えようとした国家主義的な、あるいは家族主義的な理念についても、とりたてて深い関心を示さぬくらいに、無思想な集団であった。」「国防婦人会集団は、思想に無関心だったからこそ、歴史の舞台では大衆参集の広場となり、兵士見送りの舞台では、いつしか代表的存在にのし上がっていた。」

 「しかもこの会は、他の婦人団体のように、一般社会事業にはかかわらない。軍事後援事業一本、なのである。」「政治議論に加わらないことが、かえって政治を超えた。」

 ここで氏が、当時の日本の世相を語ります。私が知りたかった、昭和初期の日本です。氏は無意識に説明をしていますから、語られている内容は、客観的事実であろうと思います。

 「戦争が始まると、全国的な大動員ではなくても、出征が頻繁に行われ、また出て行った以上同数の兵士が、元気でか負傷してか、死んで遺骨になってか、いずれかの形でまた還ってくる。」「戦争が続けば、またその補充人員が出て行く。この繰り返しの日々が続くことを、民衆は予測できない。」

 「軍隊移動の通過地点でお世話するのは、従来これは在郷軍人会と青年団、既成の婦人会でまかなわれると、思われてきた。しかし専門の在郷軍人会ですら、数が足りなくなり、既成の婦人会は頻度が増えると、対応できなくなった。」

 「そこに専門集団としての、国防婦人会が登場し、駅と港の支配圏を取るに至る。」「銃後の務めとして国防婦人会は、体を使って奉仕し、世の社会事業の首位に躍り出た。」

 「参加する婦人の側も、この行動パターンに応ずる姿勢があった。デパートに買い物に行くかは、かならずしも二律背反の命題ではなかった。」「ことに庶民層では、婦人が見送りに行く姿には、一種の開放感さえ伺われた。」

 「これは見送りが、国防婦人会のみならず、大衆に支えられた祭りであったからで、国防婦人会はそれを組織化して、時代の優位に立った。」

  祭りという言葉には、いろいろな意味があります。当時の、日本の村々祭りを思い出してください。村の鎮守様を中心に、春祭り、夏祭り、秋祭りがあり、村人が総出で祝いました。その年の豊作の願いであったり、感謝であったり、家族の無病息災を願ったりで、先祖の代から続く重要な祭りでした。

 そこは家族や縁者、仲間や知人との親交の場でもありました。国防婦人会の女性たちに取っても同じことで、地域ごとにできた婦人会では、自分の息子や夫あるいは親しい人々の、息子や夫たちの出征を見送ることが始まりでした。

 国のため兵となった自分の家族や、知り合いの見送りですから、村祭りと似た気持ちで、彼女たちは出かけました。そこには氏が説明するような、一種の開放感もあったでしょうが、陸軍の期待するような理念でなく、村民としての一体感が優先していたのでないかと、解釈します。

  整理しきれないまま、氏の著作から引用しブログを書いています。他の人が氏の著作を読むと、別の解釈をするのかもしれません。

 わざわざ言うのは、反日左翼の学者の著書に、感動してしまったからです。自分の読み方が間違っているのかと思いましたが、それでも良いと割り切ることにしました。次の文章に、私は感動しました。

 「戦争中の少年時代、たまたま母と二人でいた時、私は兄戦死の公報に接した。」「母は近郷では、立派な靖国の母であり、軍国の母であったが、私と顔を見合わせるや、電報を握りしめて慟哭した。」「私には、言葉もなかった。」

 「旬日を経ずして、私が軍の学校へ入ることになった。母は、さめざめと泣いた。私は、深く、母の心を知った。」

 「戦場に出た青年たちが倒れて死ぬ時、天皇陛下万歳と言うことになったのは、近々、日中戦争以後に過ぎない。」「満州事変段階では若者たちはみな、お母ちゃんと言って死んだという。」「私は天皇陛下万歳の方を、先に学校で教えられたが、戦場帰りの兵士から、みんなお母ちゃんと言うのだと聞かされた時の、割り切れない気持ちを忘れない。」

 これも事実だと思います。氏の説明には、左翼特有の国への憎しみや恨みがなく、私の心にそのまま事実として届きました。使い古された雑巾のような、無意味な言葉で叫ばなくても、事実を述べれば、「戦争をしてはならない。」「平和が大切だ。」と誰にでも分かります。

 しかし息子たちには、ここで考えて欲しいのです。戦争反対と平和を願えば、即座に軍隊はいらない、軍事力は不要と、そんな結論に結びつくものなのか。あるいは、結びつけてよいのか。

 憲法改正を言えば、軍国主義者で右翼だと、お前たちは思っているのだろうか。こうした話題で、話をして来なかったが、それが良かったことか、間違っていたのか、今でも分からない。

  左翼学者の中にも、氏のような人物がいたと知ったことは、一番の喜びでした。明日もう一回、氏の本とおつき合いし、それで終わろうと考えています。

コメント (2)
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