9月25日の千葉日報・学芸欄に、共同通信社が配信した、中根千枝さんの記事がありました。およそ紙面の半分を占める大きさで、目を細めた氏の笑顔が、なんとも言えない優しさです。
氏を初めて知りましたが、今から約50年前の著作『タテ社会の人間関係』が、日本人論の古典となっていると説明されています。私はこの本を読んでいませんが、記事の見出しは次のとおりです。
「タテ社会、今も変わらず」「日本の集団、構造を分析」
この書が古典となった経緯が、次のように書かれています。
「総合誌に掲載された論文が、たちまち評判をよび、」「その内容を発展させた単行本、『タテ社会の人間関係』が、ベストセラーになった。」
ネットで調べますと、総合誌というのは、月刊誌『中央公論』のことで、単行本として出されたのが昭和42年ですから、正確には53年前の本です。氏の経歴を調べてみますと、驚くばかりの肩書でした。
「中根千枝は、日本の社会人類学者。」「昭和元年、東京生まれ、93才。」「専門はインド・チベット・日本の社会組織。」「東京大学名誉教授。」「イギリス人類学民族学連合・名誉会員、国際人類学民族学連合・名誉会員など。」
「 女性初の東大教授。女性初の日本学士院会員。」「また学術系としては、女性初の文化勲章受章者となった。」
女性初という言葉が並び、ネットの画像を見ますと、若い頃の氏は端正な顔立ちの美人です。こういう人を「高嶺の花」というのでないかと、そんな気がしました。当時の氏の活躍ぶりを、もう少しネットから転記します。
「東北から鹿児島までの、農村の調査を経た後、人類学の研究を世界各地で行う。」「昭和28年にインドに3年、昭和34年から昭和37年にかけては、」「イギリス、イタリア、その他シカゴ大学、ロンドン大学で研鑽を積む。」「インドの奥地アッサムを探検、調査したものをまとめた、」「『未開の顔・文明の顔』を、昭和34年刊行し、毎日出版文化賞を受賞。」
共同通信社の記事によりますと、氏の主張は次のようなものです。
1. 日本は、どっぷり漬かれば居心地の良いタテ社会だが、封鎖的で逃げ場がない負の側面があり、今も社会に影を落としている。
2. ヨコの連携意識が育たず、職種別の労働組合ができにくい。
3. 移動や昇進も、年次が優先し、スペシャリストよりゼネラリストが、重宝される。そんな気風は、大企業、官公庁にも残る。
4. 一つのものを専攻するより、いろんなものを知っている方が、日本では通用する。専門家を、あまり高く評価しない。
5. 個人の属性である「資格」( 能力 )より、職場といった「場」の共有を重視する。
今の私には、氏の意見が「日本人論」の古典と言われるほどのものなのか、首を傾げます。この程度の認識なら、大抵の人が持っているような気がます。しかし、こう思うのは間違いかも知れず、本が出版された昭和42年が、どんな年だったのか、ネットで検索しました。
《 昭和42年の政治・経済 》
⁑ 1月 文化大革命をめぐり、日中共産党の対立深まる。中国共産党からの批判に対し、『赤旗』で初めて公然と反批判。
・第31回総選挙で、自民党の得票率、初めて50%を割り48.80%となる。公明党が衆院初進出。
⁑ 2月 第2次佐藤栄作内閣成立。全閣僚留任。
⁑ 4月 第6回統一地方選挙で、東京都知事に社共推薦の、美濃部亮吉当選。( 自民党は府県議選でも都市部で後退し,都市問題対策の検討開始)。
・佐藤首相、衆院で武器輸出3原則を言明
⁑ 6月 民社党大会、西村栄一委員長・春日一幸書記長を選出
・佐藤首相、朴正煕大統領就任式に参加のため韓国訪問(首相として初の訪韓)
⁑ 9月 米、原子力空母エンタープライズの寄港を申入れ。 (政府,寄港承認通告)
・佐藤首相、台湾、ビルマなど東南アジア5か国訪問、東南アジア・オセアニア訪問
・南ベトナム訪問に反対する、全学連の抗議デモで警官隊と衝突し、学生1人死亡(第1次羽田事件)。
⁑ 10月 吉田茂死去。戦後初の国葬。
⁑ 11月 佐藤首相訪米、学生抗議デモが警官隊と衝突(第2次羽田事件)。
・日米共同声明発表、小笠原諸島の1年以内の返還を確認。沖縄返還の時期は明記せず
・中国封じ込め・ベトナム戦争支援での、日本の積極的役割を約束。野党各党。共同声明に抗議。沖縄で7万人の抗議県民大会。
⁑ 12月 佐藤首相、衆院予算委で小笠原返還に伴い、米の核持込みを危惧する社会党成田知巳の質問に答え、「核を製造せず、持たない、持ち込みを許さない」の非核3原則を言明。
《 昭和42年の、世界政治・経済 》
⁑ 1月 米軍、南ベトナムのメコンデルタに初侵攻
⁑ 5月 ナイジェリア内戦勃発。
⁑ 6月 イスラエル軍、シナイ半島制圧 (第3次中東戦争)。 6.11停戦(6日戦争)
・中国が初の水爆実験
⁑ 7月 ヨーロッパ共同体(EC)成立
・米、デトロイトで史上最大の黒人暴動。全米に波及
⁑ 8月 東南アジア諸国連合(ASEAN)結成
⁑ 9月 南ベトナム、グェン=バン=チューが大統領当選 ( 軍事政権継続 )
⁑ 10月 革命家チェ=ゲバラ (39才)、ボリビア山中で、政府軍に捕えられ射殺
・米、ワシントンで10万人のベトナム反戦集会
当時、私はまだ学生で、全国に吹き荒れた学園紛争の只中にいました。どのニュースも記憶にあり、生きています。「武漢コロナ」や中国の軍事行動も、大きな事件ですが、昭和42年は日本も世界も、文字通り激動の時代でした。
「地球儀を俯瞰する外交」と、安倍総理は語っていましたが、叔父の佐藤総理は、氏を超える宰相だったと思います。反日・左翼勢力が全学連を使い、激しい反対闘争をしても、信念を通し政策を進めています。祖父の岸総理も、日本最大のゼネストで、左翼勢力に脅されても、「安保改定」をやり遂げています。
祖父と叔父を見習えば、安倍総理は、もう少し強い覚悟で、反日露左翼勢力と対峙し、「憲法改正」への歩を進めて良かったのでないかと、そんな気がして来ました。
中根千枝氏の著作が出版された、当時の背景が分かりましたので、次回から記事の中身に入りたいと思います。