今回は209ページからです。岩波書店のこの本は、ページが進むほどに暴言を吐く人物が出てきます。
2. 河合洋氏 昭和9年生 精神科医
「明治維新以後の、日本の学問・文化が、輸入物対するアコガレ的盲従や、」「文学芸者・福澤諭吉の君臨によって、特徴づけられていることは、」「すでに周知の事実であるが、」「登校拒否というと言う言葉の、一人歩き的流行は、」「さまざまな笑えない喜劇を、生み出していくことにもなる。」
ご先祖が苦労した明治時代を、ここまで軽薄に語られると、河合氏の人間性に疑問が生じます。「文学芸者・福澤諭吉」と言う言葉を初めて聞きましたが、ひどい表現をするものです。慶應大学の学生が聞いたら、ぶん殴りたくなるかもしれません。
「子供の精神科医療に取り組んでいる者にとっては、」「子供の人権を踏み躙るような、あらゆる問題に対する戦い、」「と言うことが、主要なスローガンになってきた。」
ここからが氏の本論です。
「まず診断・治療を含む医療行為を、密室内作業として自己完結させず、」「一人一人の子供の立場に立って、」「それぞれの生活の場、家族、学校、地域社会などに、」「フィードバックさせていく、と言うことである。」
「すなわち、主治医、家族 ( 親権者 ) 、担任教師など、」「子供の周囲にいる大人たちが、それぞれの立場で、」「法的規制を超えた責任を有する、という基本認識が生まれたのである。」
関係者全員が一つになり、子供の問題に取り組まなければならないと、主張しています。しかし氏の前の執筆者である、高校教師の山田氏は、次のように力説していました。
「・国の行政が何の躊躇いもなく、不登校家庭の養育態度に容喙し、家族のあり方から、親子の性格や心理の機微にまで立ち入り、裁断を下している。」
「・戦後政府の、教育への行きすぎた介入がもたらした帰結が不登校だ。」
山田氏の意見は、子供の問題は親権者である親と子で解決するから、学校も国も余計な干渉をするな、と言う正反対の意見でした。いずれも個性の強そうな人物が、自説を展開していますから、これでは読者が面食らいます。
岩波書店に選ばれた6人の編者たちは、執筆者の原稿を読んでいるのかと、首を傾げてしまいます。河合氏の驚くような意見は、まだ続きます。
「さまざまな子供の不幸が生まれる要因の、大きな源泉の一つとして、」「1980年に発布された、教育勅語が挙げられるであろう。」「そこでは忠孝を中心として、子供は臣民として教育されるべきことが、」「主張されている。」
子供の不登校の原因を、先生、そこまで持っていって大丈夫ですかと、思わず聞きたくなりました。河野太郎氏の600年と、あまり変わらない発想に思えてきました。
「これを踏まえた日本の民法は、フランスの自然法や英米法と異なり、」「いわゆる国親 ( くにおや ) 思想に貫かれた、親権が強調されてきた。」「子供は親の所有物であり、親も子供も国に奉仕しなければならない、」「と言うわけである。」
河合氏と山田氏は、子供の不登校問題では正反対の意見ですが、日本政府や、日本の過去を批判・攻撃する点は共通しています。ここまできますと、6人の編者の編集方針が明らかになりました。
「子供の教育については、多様な意見があって構わない。」「大事なことは、国と政府への批判だ。」「権力に盲従せず、批判精神があればそれで良い。」
このような悪書なら、これ以上紹介しても、息子たちにはもちろんですが、誰のためにもなりません。それこそ人生の時間の無駄使いです。残る4人の執筆者の意見も、大同小異ですから、今回で書評を終わりにします。
「 浜の真砂は尽きるとも、世に反日( 左翼 )の種は尽きまじ 」
分かっているつもりでしたが、やっぱり、こう言うことでした。