昭和22年の片山内閣の時に、11宮家の皇籍離脱が行われています。説明に入る前に、片山内閣とはどういう内閣であったのかを、説明しておく必要があります。
ネットの情報から、片山哲氏の経歴を調べました。
「昭和20( 1945 ) 年に日本社会党が結成されたとき、氏が書記長に就任し、」「翌年の昭和21年に、初代社会党委員長になった。」「昭和22年の総選挙で社会党が第一党となり、片山が総理大臣となる。」
「片山内閣は、日本社会党党首を首班とする初の内閣であり、」「日本国憲法施行後の、初の内閣でもあった。」「片山の高潔な人柄は広く知られており、世間からの期待も高く、内閣支持率は68%にも上った。」
「しかし片山は、選挙での地滑り的勝利を収めるまで、」「自身が一国の舵取りをすることを、想定しておらず、」「政権は、滑り出しから閣内の意見がまとまらず、」「このため、片山が全閣僚を兼任して親任式に臨み、」「一人内閣で、凌ぐこととなった。」「閣僚が決まった後も、党内左派の突き上げが続き、」「また終始、GHQの言いなりであったため、」「政権運営も政争も不得手な片山は、グズ哲とあだ名されることとなる。」
「人事を巡って党内は紛糾し、予算成立も待たずして、」「短期間で、内閣総辞職をせざるを得なくなり、8ヶ月の短命政権となった。」
この優柔不断な片山氏が、昭和22年10月13日の皇室会議で議長を務めました。その時の記録がありますので、ネットの情報から転記します。
「今次戦争が終結しました直後より、皇族のうちから、」「終戦後の国内国外の情勢に鑑み、皇籍を離脱し、」「一国民として、国家の再建に努めたいという御意思を表明せら れる向があり、」「宮内省におきましても、事情やむを得ないところとして、」「その御意思の実現をはかることとなり、旧皇室典範その他関係法令について、」「必要な改訂を加え 準備を致しましたが、種々の事情により、実現を見るに至らなかったのであります。」
「そうしてこの問題は、新憲法公布後に制定せられました、」「新皇室典範により、新憲法施行後に実現せられることとなり、」「これに必要な準備が整いましたので、本日、皇室会議の議に付することとなった次第であります。」
しかし新皇室典範が、日本国憲法と同じく、GHQの占領下で制定されたものであることや、GHQによる『皇族の財産上その他の特権廃止に関する指令』が発せられていることなどから、背後にGHQの強い圧力があったことは、否定出来ないと言われています。
今は亡き寛仁親王が平成18年に、「皇籍離脱は、GHQによる皇族弱体化のための措置であった。」、という見解を示されています。片山氏の証言と異なり、皇籍離脱に強く反発した皇族も少なくなかった、とも言われています。
平成28年の8月、上皇陛下がNHKのテレビを通じ、退位に関する「お言葉」を述べられました。国民の敬愛の中心にある天皇を辞められるという、意思表示でした。
昭和天皇までは、天皇は特別になにかをされるのでなく、「いらっしゃる」という事実だけで、国民の中心におられました。2665年続いた125代目の陛下が、あたかも会社勤めをする庶民のように、「体力の限界」のため、天皇の地位から退位すると宣言されました。
後に残る家族が大変だから、葬儀も簡略にし火葬にすると、これもまた一般庶民並みの扱いを希望され、家族と近親者のご負担の軽減を第一義として語られました。私を捨て、国と国民を第一とされた歴代の天皇との違いを、陛下は国民の前で見せられました。陛下がお手本を見せられたのですから、眞子様が国民よりご自分の気持ちを優先されたとしましても、不思議はありません。
世間には秋篠宮様の教育が間違っていたとか、眞子さまの身勝手が過ぎるという意見もありますが、私はそう思いません。上皇陛下の御世となって以来、陛下の身辺に「人間平等」や「人権」や「自由」を語る人々が多数を占めるようになり、皇室が変わった事実の方に、大きな原因があります。
皇室も開かれすぎますと、伝統との矛盾が生じます。GHQもマッカーサーもいなくなった日本ですから、菅総理以下の大臣は、片山氏のように占領軍への服従や忖度の必要がありません。11宮家の皇籍復帰につき、本気で取り組んでもらいたいと思います。