ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

女性皇族の考え「理解を」- 25 ( 斉藤勝久氏の説明 )

2024-12-31 21:17:32 | 徒然の記

 〈 GHQが11宮家の皇籍離脱を進めた時の状況 〉

 発言記録では、「11宮家の皇籍離脱は、宮家の方々の自発的な申し出があったため」となっていました。
 
 「nippon.com」が掲載している斉藤勝久氏の記事のタイトル「GHQからの皇室への脅し」が、前回紹介した片山首相の発言記録をひっくり返しています。氏の記事をそのまま紹介します。 
 
〈 GHQからの皇室への脅し 〉
 
  ・昭和20 (1945) 年8月15日、終戦の玉音放送の年の12月、GHQから戦犯の逮捕命令が出て、

  ・元帥陸軍大将だった梨本宮(なしもとのみや)が、A級戦犯容疑で戦犯を収容した拘置所巣鴨プリズンに入った。

  ・戦勝国側の皇室への脅しとも捉えられたが、4カ月ほどで不起訴となり、釈放された。

 GHQによる戦犯宣言と、該当者の逮捕、巣鴨拘置所への収監は、皇族の方だけでなく、全ての政府関係者に不安と恐怖を与えました。

  ・翌昭和21年1月GHQの指令により、軍国主義者、戦争協力者、軍人らを対象とする「公職追放」が始まって間もなく、衝撃的な記事が新聞に載った。

  ・昭和天皇の弟宮3方(直宮)をはじめ、東久邇前首相ら皇族15人が追放指定者に含まれるという内容だ。

  ・終戦までの男子皇族は軍歴があったためだが、この時は皇族の公職追放が見送られる。

 氏は書いていませんが、報道を大々的に発信したのは「プレスコード」の優等生だつた朝日新聞が先頭だったのではないかと推察します。 

  ・GHQはさらに、皇室の財産にメスを入れてきた。

  ・各皇族の全財産の調査を命じ、最高税率を90%まで引き上げた財産税がかけられることになる。

 戦前の日本では想像もできないことですが、戦犯としての逮捕、収監で脅されていた政治家と軍人は、皇室財産に手をつけるGHQに異議を唱えることさえできなかったのではないでしょうか。

 昭和天皇の財産は約37億円(現在の貨幣価値だと百数十倍という)と算出され、その9割が財産税として国有財産となってしまう。

 旧宮家の宗家と言われる伏見宮(ふしのみや)家は、直宮家以外の11宮家で3番目の、792万円の資産があったが、債務などを引いた額に85%の財産税をかけられることになった。

 昭和22年5月3日に施行された「皇室経済法」を根拠に、GHQはこの乱暴な課税を実行したのだと思われますが、斉藤氏の具体的な叙述がなければアメリカが実施した過酷な課税を知らないままでした。

 戦争に勝利し、勝ちに驕ったアメリカは「日本弱体化」を強行し、「財閥解体」だけでなく「皇室解体」まで手を突っ込んでいました。当時の国民が知っていれば、各地で反GHQの動きが発生していた可能性もあります。

 しかしマスコミが「プレスコード」の優等生になってしまうと、事実が国民に伝わりません。GHQが朝日新聞を優遇し、他のマスコミが右へ倣えした結果が今日の日本ではないでしょうか。

 斉藤氏の説明を続けます。

   ・昭和天皇は、日本国憲法が公布された同年11月、直宮を除く宮家の皇族を集め、「臣籍降下(皇籍離脱)のやむを得ざる事態」について説明した。

   ・憲法は第88条に、「すべて皇室財産は、国に属する」と明記され、皇室にはもう11宮家を支える経済力がなくなったのである。

 タイトルを改めて氏が説明を続け、片山首相の発言を紹介しています。「ねこ庭」が息子たちと訪問される方々に是非読んで欲しい部分です。

 〈 11宮家の皇籍離脱でも、皇位継承に心配なしと判断 〉

  ・昭和22年10月、初めての皇室会議が開かれて、11宮家51人の皇籍離脱を決定した。会議の片山哲議長(首相)はこう説明した。

   「皇籍離脱の御意思を有せられる皇族は、後伏見天皇(第93代、即位1298年)より20世から22世を隔てられる方々でありまして、

   今上陛下(昭和天皇、第124代)とは、男系を追いますと四十数世を隔てておられる。」

   「これらの方々が、これまで宗室(天皇本家)を助け、皇族として国運の興隆に寄与した事績は、まことに大きいものでありましたが、」

   「戦後の国内外の情勢、とりわけ新憲法の精神、新憲法による皇室財産の処理及びこれに関連する皇族費等諸般の事情から致しまして、この際これらの方々の皇籍離脱の御意思を実現することが適当であると考えられるのであります」

   「皇位継承の御資格者としましては、現在、今上陛下に2親王(現上皇さまと常陸宮さま)、皇弟として3親王(直宮)、

   「皇甥(こうせい)として1親王(三笠宮寛仁親王)がおわしますので、皇位継承の点で不安が存しないと信ずる次第であります」

 ウィキペディアが伝える首相の「発言記録」と、斉藤氏が紹介する「首相発言」のいずれが正しいのか、「ねこ庭」は判断する材料がありません。

 国の根幹を左右する「宮家の皇籍離脱」について、ウィキぺディアの解説は簡単すぎる気がします。社会党の首相だとしても、会議では懇切丁寧に説明したと考える方が自然な気がします。

 だから「ねこ庭」は、斉藤氏の次の説明を信頼します。

  ・皇籍離脱する宮家皇族には26人の皇位継承者がいたが、当時は天皇家、直宮家に合わせて男子6人の皇位継承者がいるから、

  ・血縁の遠い11宮家を皇室から離しても心配はない、と政府は判断していたのである。

  ・同じ日に皇室経済会議も開かれ、皇籍を離れる51人中、軍籍にあった11人を除く40人に一時金として、当主には210万円、それ以外の王は約145万円などとして、合計4747万余円の支出を決めた。

 氏の解説を信頼する根拠は、内容が具体的詳細であることだけでなく、令4年4月という日付にあります。戦後76年が経過しているため、やっと事実を語れるようになったのでないのかと、「ねこ庭」は解釈します。

  判断は「ねこ庭」を訪問される方々に委ねることにし、氏の説明を続けます。 

  ・昭和天皇は皇室会議から数日後、皇籍離脱した元皇族との晩さん会で挨拶した。

   「従来の縁故は今後においても何ら変わるところはないのであって、将来ますますお互いに親しくご交際をいたしたいというのが、私の念願であります。」

   「皆さんも私の気持ちをご了解になって、機会あるごとに遠慮なく、親しい気持ちでお話にお出でなさるように希望いたします」

 天皇のご挨拶を氏が紹介していますが、皇籍離脱される方々へ陛下の思いがどのようなものであったかについては、次回の説明が示唆しています。脇道へそれますが、省略せずに続けます。

コメント (2)
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女性皇族の考え「理解を」- 24 ( 片山首相の発言記録 )

2024-12-31 16:41:53 | 徒然の記

  〈 GHQが11宮家の皇籍離脱を進めた時の状況 〉

 斉藤勝久氏の説明の前に「ねこ庭」の過去記事を読むと、敗戦時の「アメリカの関与」の大きさがよく理解できます。

   〈 連合国軍 ( GHQ ) による日本弱体化政策 〉  

  ・ 1947  ( 昭和22 ) 年1月16日  「( 改正 ) 皇室典範」の公布・・・11宮家の皇籍離脱
 
  ・ 同年  ( 昭和22 ) 年4月1日     「財政法」の施行     ・・・財政均衡規定  国債発行抑制規定
 
     ・ 同年 ( 昭和22 ) 年5月3日    「日本国憲法」の施行   ・・・陸海軍・軍事力放棄

  ・ 同年  ( 昭和22 ) 年5月3日     「皇室経済法」の施行   ・・・皇室財産の没収と国有化

  ・ 1948 ( 昭和23 ) 年7月29日      「政治資金規正法」の施行 ・・・米国法が下敷き

 アメリカは日本の陸海軍の解体を進めると同時に、第一番目に「皇室典範」と「財政法」に手をつけています。

 最重要案件と言われている「日本国憲法」は、その次に着手しているところを見ても、「皇室の消滅」と「日本の財政自主権の剥奪」を優先していたことが見えます。

 過去記事で取り上げましたが、一連の重要法を改定・策定させた中心人物はホイットニー准将でした。

  ・彼らが「皇室典範」を改正させ、11宮家の皇籍離脱を強行したため、皇位継承者である男系男子が激減しました。「皇室経済法」を威嚇して作らせ、皇室財産を没収・国有化したので、皇室は宮家を存続する財力を失いました。

 先日このように述べましたが、根拠は2年前の7月、「ねこ庭」で紹介したウィキペディアの説明でした。息子たちと「ねこ庭」を訪問された方々に、その「過去記事」を再度紹介します。

  ・昭和22年の片山内閣の時に、11宮家の皇籍離脱が行われています。まず最初に、片山内閣とはどういう内閣であったのかです。

  「昭和20 ( 945 ) 年に日本社会党が結成された時、片山氏が書記長に就任」

  「翌昭和 21年に、氏は初代社会党委員長に就任」

  「昭和 22年の総選挙で社会党が第一党となり、総理大臣に就任」

    ・衆議院での首班指名選挙の記録によると、下記3名の候補者がいました。
 
     1.   片山哲氏  419票   2.  吉田茂氏    0 票        3.   斉藤晃氏 1票
 
  ・名宰相と言われた吉田茂氏を凌ぐ、圧倒的多数で片山氏が指名されました。なぜこのように極端な投票結果になったのかは、次の説明が教えています。

  「片山内閣は、日本社会党党首を首班とする初の内閣であり、日本国憲法施行後初の内閣でもあった。」

  「片山の高潔な人柄は広く知られており、世間からの期待も高く、内閣支持率は68%にも上った。」

  「しかし片山は、選挙での地滑り的勝利を収めるまで、自身が一国の舵取りをすることを考えていなかった。」

  「政権は、滑り出しから閣内の意見がまとまらず、このため、片山が全閣僚を兼任して親任式に臨み、一人内閣で凌ぐこととなった。」

  「閣僚が決まった後も党内左派の突き上げが続き、また終始GHQの言いなりであったため、政権運営も政争も不得手な片山はグズ哲とあだ名されることとなる。」

  「人事を巡って党内が紛糾し、予算成立も待たずして、短期間で内閣総辞職せざるを得なくなり、8ヶ月の短命政権となった。」

  ・この優柔不断な片山氏が、昭和22年10月13日の皇室会議で議長を務めました。11宮家の皇籍離脱を決議した時の会議です。
 
  ・氏の発言記録がありますので、紹介します。グズ哲というあだ名に似合わず、即決の会議でした。
 
 〈 片山氏の発言記録 〉

 「今次戦争が終結しました直後より、皇族のうちから、終戦後の国内国外の情勢に鑑み、皇籍を離脱し、一国民として、国家の再建に努めたいという御意思を表明せら れる向きがあり、」

 「宮内省におきましても、事情やむを得ないところとして、その御意思の実現をはかることとなり、」

 「旧皇室典範その他関係法令について、必要な改訂を加え 準備を致しましたが、種々の事情により今日まで実現を見るに至らなかったのであります。」

 「そうしてこの問題は、新憲法公布後に制定せられました新皇室典範により、新憲法施行後に実現せられることとなり、」

 「これに必要な準備が整いましたので、本日、皇室会議の議に付することとなった次第であります。」

 片山氏の発言記録で、11宮家の皇籍離脱の実施が憲法施行後になった経緯が分かりました。実施は、皇族の方々からの申し出であったためだと氏が説明しています。

 わざわざ2年前の「過去記事」を転記したのは、次回に紹介する斉藤勝久氏の解説記事と比較してもらいたいためです。GHQの圧力に逆らえなかった片山首相の姿が、よく見えます。

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