ねこ庭の独り言

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『 ジャカルタ日本人学校の日々 』 - 3 ( 『テフロン現象』 )

2020-12-20 14:43:08 | 徒然の記

 今回のテーマは、石井校長が苦心した「ジャカルタ日本人学校」の、国際化対応についてです。59ページから、書かれています。

 「ジャカルタ日本人学校における、現地との国際交流は、」「その活動を学校の基本理念の一つとして、位置付けている。」「これを積極的に行おうとする目的は、国際性の涵養に他ならない。」「子供の立場に立てば、絶好の機会が、海外校で学んでいる時であると言える。」

 つまりこれが、建前論であり、文部官僚の菱村氏が提案した、「教育の国際化」です。では現実はどうなのか、石井校長が説明します。

 「インドネシアに暮らして、インドネシアを知らず、」「同世代のインドネシア人の友達も、数少ない。」「このような姿が、ジャカルタ日本人学校の子供たちの、」「平均像である。」「中学校を卒業して仕舞えば、多くの子供たちは、」「それだけの海外経験で、帰国することになる。」

 簡単に言いますと、生徒たちの暮らしは、スクールバスによる学校と家庭の往復で、肝心のインドネシアとの接触が、ほとんどありません。現地の人々の暮らしは、あるいは現地の子供や大人たちは、バスの窓から眺める「風景」の一つでしかないのです。

 「以前の新聞記事で、海外に住む邦人の生活態様を、」「『テフロン現象』という言葉で、批判的に語られていたのを、目にしたことがある。」「テフロン加工したフライパンには、物がつかないことに似て」「現地と接触を持たない、持ちたがらない邦人の生活姿勢は、」「現地社会の問題にもなっている、という指摘でした。」「なんとかして、やらなければならない。」「この面で学校がやれることは、多々あるように思う。」

 氏は現地校と提携を結び、互いの生徒を年に何度か、交流授業をするところまで漕ぎ着けます。最初の頃は、イベント行事として行われ、お互いの国の文化を紹介し合います。相手校であるアルアズハール校は、目を見張るような伝統芸能を披露してくれます。

 そうすると、日本の側で考えるのは、「日本舞踊」ということになりますが、生徒の誰もがやれませんので、結局は教師の中の経験者が披露します。その他、石井氏が発案したものは、「一泊二日の交流授業」、「日イ交流キャンプ」、「日本語講習会」などがあります。

 校長が願っているのは、こうした交流を通じ、生徒たちが個人的につながり、友達になることでした。互いを見るだけでなく、友達になり、話すようにならなくては、真の交流にならないと、考えるからです。

 「ところが、肝心の時になって、保護者の中には、」「これを良しとしない風潮が、過去にあったと聞いている。」「日イ・キャンプで親しくなった、現地校の生徒が、」「本校の生徒に、電話をよこすようになったものを、」「保護者が、一方的な理由で、」「これを進展させないようにした、というものである。」

 「現地校の生徒は、日イ・キャンプとは、いったいなんのためなのかと、」「大変な不信感を持ってしまった、とのことである。」「現地校の保護者から、直接聞いた話であるが、実に残念な話である。」「このようなことになるのは、保護者にも、生徒にも、」「その根っこに、現地蔑視が存在するからである。」

 この部分の読後、私は3年前に読んだ、田母神俊雄氏の著作に引用されていた詩を、思い出しました。平成元年に、詩人ラジャ氏が、クアラルンプールで書いたものと説明されていました。戦前の日本人は、アジア諸国を踏み躙った軍国主義者ばかりだったという、反日左翼への反論として、そんなことはない、戦後の日本人の方が悪いのだと、そのために引用した詩です。

 そういうことは傍に置いて、石井氏の言葉と合わせながら、再読しますと、心の痛むものがあります。戦前と違う「新しい日本人」が、このような姿勢であってはなりません。息子たちと、「ねこ庭」を訪問される方々にも、新たな気持ちで読んでもらいたくなりました。

  かって 日本人は 清らかで美しかった
  かって 日本人は 親切でこころ豊かだった
  アジアの国の誰にでも
  自分のことのように 一生懸命つくしてくれた
 
  何千万人もの 人の中には 少しは 変な人もいたし
  おこりんぼや わがままな人もいた
  自分の考えを おしつけて いばってばかりいる人だって
  いなかったわけじゃない
 
  でも その頃の日本人は そんな少しの いやなことや
  不愉快さを超えて おおらかで まじめで
  希望にみちて明るかった
 
  戦後の日本人は 自分たちのことを 悪者だと思い込まされた
  学校でも ジャーナリズムも そうだとしか教えなかったから
  まじめに
  自分たちの父祖や先輩は
  悪いことばかりした残酷無情な
  ひどい人たちだったと 思っているようだ
 
  だから アジアの国に行ったら ひたすら ぺこぺこあやまって
  私たちはそんなことはいたしませんと
  いえばよいと思っている。
 
  そのくせ 経済力がついてきて 技術が向上してくると
  自分の国や自分までが えらいと思うようになってきて
  うわべや 口先では すまなかった 悪かったといいながら
  ひとりよがりの 
  自分本位の えらそうな態度をする
  そんな 今の日本人が 心配だ
 
  ほんとうに どうなっちまったんだろう
  日本人は そんなはずじゃなかったのに
  本当の日本人を知っているわたしたちは
  今は いつも 歯がゆくて 
  悔しい思いがする
 
   自分たちだけで 集まっては 自分たちだけの 楽しみや
  ぜいたくに ふけりながら 自分がお世話になって住んでいる
  自分の会社が仕事をしている その国と国民のことを
  さげすんだ目で見たり バカにしたりする
 
  こんなひとたちと 本当に 仲良くしていけるのだろうか
  どうして
  どうして日本人は
  こんなになってしまったんだ
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日本人が失ったもの (成田あいる)
2020-12-20 16:54:55
このブログでは毎回様々な本を紹介されるので、実際にその本を読んだような感覚になれます。
スクールバスは日本では、最寄駅から離れている場合が多く、運行も一般のバス会社に委託していることが多いです。
保護者が運行に関わっているのは、「我が子の『通学の足』は親が守る」意識の表れでしょう。
何しろジャカルタは交通機関が日本のように充実しておらず、交通事情・通信環境も劣悪です。
彼らが危機意識を高めたのも暴動事件だけでなく、こういう環境も大いにあると思います。

この詩の、特に後半は本当に心がえぐられる思いがします。
「失われた何十年」が長引くにつれ、国民の心は殺伐となってしまったと感じますし、「コロナ」はそれを高めてしまったと思います。
日本人は何か大切なものを失ってしまったのでは?と改めて感じます。
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失った大切なもの (onecat01)
2020-12-20 23:28:45
 成田あいるさん。

 日本人が失った大切なものは、「愛国心」です。自分の国を愛せない者は、他国の人々の愛国心が見えませんし、理解もしません。

 自分の国を愛する人間は、他国の人間が、同じように自分の国を愛し、誇りを持っていることを理解します。詩人ラジャ氏の言葉を、私はそのように解釈しています。

 戦前の日本人は、なぜアジアの国々が貧しいのか、なぜ教育が行き渡っていないのか、その原因を知っていました。植民地だったアジアの国々を解放しようと、「大東亜戦争」があったという事実の中に、ラジャ氏のいう「昔の日本人」がいたのだと思います。

 戦後の私たちは、経済大国となり、愛国心を無くしたため、経済的利益や繁栄を追い求め、アジアの人々を軽視するようになりました。

 「愛国心」とは、「軍国主義」、「戦争賛美」という、戦後の「東京史観」の浸透がそれをさせています。今回の書は、そこまで言及していませんが、感じ取るものがあり、息子たちへ「遺す言葉」に追加いたしました。

 「この詩の、特に後半は本当に心がえぐられる思いがします。」

 これは私の気持ちそのままです。コメントに感謝致します。
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