ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

『太平洋戦争 - 下 』 - 2 ( 共産主義思想と大東亜共栄圏構想 )

2021-12-07 19:16:52 | 徒然の記

 今回は、著書の書き出し部分から始めます。

 「第二次世界大戦は、昭和18年に入ると、いよいよその規模を大きくし、」「戦争による破壊は、世界のあらゆる地域にわたり」「悲劇的様相を、呈しはじめていた。」

 「ヨーロッパ戦線においても、太平洋・東南アジア地域においても、」「次第に枢軸側の敗色は濃くなって来ていたが、この戦争の過程をひとまずおいて、」「当時日本政府が、この戦いを〈大東亜戦争〉と呼んだ、」「もう一つの太平洋戦争の側面に、スポットを当ててみよう。」

 ここからは、戦後の日本を呪縛し続けた「東京裁判史観」が、どのような経緯をたどり、左翼学者の間に生まれたのかが、説明されます。

 「太平洋戦争を正当化する立場からは、この戦争が、アジアの諸民族を、」「西欧帝国主義から解放したのである、と主張される。」「そしてこの戦争を、〈侵略戦争〉とする立場からは、」「逆に日本は、一層露骨な帝国主義支配を行おうとし、」「アジアの民族運動は、日本帝国主義に反抗することによって、」「初めて発展したのであると、主張されるのである。」

 「では一体、〈大東亜戦争解放戦争〉の実体は、どんなものであったのだろうか。」

 氏がどのような説明をするのか、学徒としての関心が湧いて来ました。私にとって、知りたいと言う気持ちがずっとあった疑問の一つです。

 「昭和17年1月21日、東條英機首相は、第79議会で演説した。」

 この演説は、「大東亜建設宣言」と呼ばれたものだそうです。

 「香港及びマレー半島は多年イギリスの領土で、東亜侵略の拠点であったから、」「この禍根を徹底的に排除し、大東亜防衛の拠点とする。」「フィリピン、ビルマについては、民衆が帝国の真意を了解し、」「大東亜共栄圏建設に協力してくれる場合は、」「喜んで独立の栄誉を、与えよう。」

 「インド、オーストラリアは、抗日を続ければ容赦なく粉砕するが、」「住民が協力すれば、その福祉と発展に力を添えよう。」

 〈大東亜共栄圏の建設〉というスローガンは、昭和11年の広田内閣で決定した「共存共栄主義」からの、一貫した指導精神だったと氏が説明します。その後昭和15年の「第二次近衛内閣」の時、「八紘一宇の精神」に基づき、「大東亜の新秩序を建設する」と言う方針が出されました。

 「これらのことから分かるように、大東亜戦争という呼称は、」「特殊のイデオロギーを基礎とした、呼び方であった。」

 この辺りから、少しずつ氏の論調が変化し始めます。

 「イギリス、オランダ、フランスなどの植民地として、圧政に苦しんでいた南方諸民族の間には、」「兼ねてから民族自立を求める風潮が強く、特にロシア革命後は、」「共産主義的思想を拠り所とした、民族解放運動も、根強く続けられていた。」

 「これに対する〈東亜新秩序〉の観念は、日本を指導者とする〈大東亜共栄圏〉構想に発展した。」

 ここまでくると、左翼学者としての氏の姿が明確になります。氏は読者に対し、二つの思想を並べて見せます。

  1. ロシア革命後に広まった、共産主義的思想を拠り所とした〈民族解放運動〉

  2. 天皇を中心とし、世界を一家とする〈大東亜共栄圏〉構想

 説明するまでもありませんが、氏は「共産主義的思想を拠り所とした、〈民族解放運動〉を素晴らしいものとし、日本の〈大東亜共栄圏構想〉を否定します。

 「しかし、〈大東亜共栄圏構想〉の実態は、スローガンだけが打ち出されたものの、」「具体的な南方統治策が、何一つ用意されていなかったので、」「全て泥縄式の、不手際な結果に終わっている。」

 「軍政実施も、陸海軍が別々に担当し、」「海軍は、担当地域の永久確保の方針さえ決定した。」「そのうちに、軍政の行き過ぎから、民心を失うところも出てきて、」「〈占領地帰属副案〉なるものができた。」「大東亜共栄圏が仮面に過ぎなかったことが、ここにも現れている。」

 氏の著書が出版された昭和41年は、反日左翼学者が学界、政界、マスコミ界を席巻していた時です。彼らはソ連を「人類のユートピア」を実現した国と憧れ、中国の文化大革命も、素晴らしい国づくりのための、「産みの苦しみ」と賞賛していました。文化大革命での推定死者数が、数十万人から2,000万人に及ぶと言われている現在、氏はなんと言い繕うのでしょう。

 氏は大東亜共栄圏が仮面に過ぎなかったと切り捨て、昭和17年の東條首相の演説の一部を紹介しています。全文が公開情報なので、氏が省略した部分を息子たちと、「ねこ庭」を訪問される方々に紹介します。

 「大東亞共榮圏建設の根本方針は、大東亞の各國家及び各民族をして、」「各々其の所を得しめ、帝國を核心とする道義に基く、」「共存共榮の秩序を確立せんとする、にあるのであります。」「而して其の建設は、廣大なる地域に亙り、各種の民族と相倚り相携へて行はれるのであります。」
 
 「此の建設に當りましては、各民族の傳統、文化等に應じまして、」「戰局の進展に伴ひ、それぞれ適當なる處置に出ずる考へであります 。」
 
 日本は侵略戦争をし、欧米列強以上の、露骨な帝国主義支配を行おうとしたと解説してしていますが、東條元首相の演説は、そのように読めるのでしょうか。省略された演説文を初めて見ましたが、発見したのは「日本の侵略戦争」でなく、東京裁判を肯定し、後づけの理屈で日本を批判する氏の悪意でした。
 
 まだわずか、23ページの感想に過ぎません。次は同じトーンで、フィリピン、ビルマ、インドネシアで、敗戦間際の日本が何をしたのか、説明しています。明日も不快感を抑え、反日学者の意見を紹介します。そうすることが、自分の息子を含め、多くの学生や若者たちが、間違った思考に導かれた過去の解明につながるからです。
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東京裁判史観の払拭

2021-12-06 19:30:54 | 徒然の記

 「東京裁判史観の払拭」が、何を意味するのか。おそらく息子たちにはピンとこないだろうと、そんな気がしています。大昔の話に、父はなぜいつまでもこだわるのかと、不思議に思うのかもしれません。

 その説明のため、ちょうど良い記事が、11月26日の千葉日報に掲載されました。いつも通りの、共同通信社による全国配信記事です。2つありますので、見出し部分を紹介します。

 1. 「李氏会見」「対日強硬は誤解」「徴用工、謝罪で解決と主張」

 2. 「学術会議・梶田会長」「小林科技相と初会談」「任命問題で意見交わす」

 〈 1. 「李氏会見」 〉

 反日・文在寅大統領後の次期候補とされる李在明氏が、自分は対日強硬の政治家ではないと弁明している記事です。「慰安婦問題」同様、「徴用工問題」も根拠の乏しい捏造ですが、相変わらず揉めています。

 彼らが言う徴用工とは、戦時中、日本が強制的に朝鮮人を徴用し、炭鉱などで耐え難い重労働を課したと言うものです。韓国の裁判所に訴え、裁判所が日本政府に、損害賠償の支払いを求めた判決です。

 実例として軍艦島の炭鉱が挙げられていますが、軍艦島では日本人も朝鮮人も同じ扱いで、なんの差別もありませんでした。むしろこの裁判がきっかけで分かったことは、韓国の言う「徴用工」が、実は職を求めて応募してきた「応募工」が大半だったという事実でした。

 韓国政府の言いがかりに対し、日本政府がきちんと対処できない根拠になっているのが、「東京裁判史観」です。

 「先の戦争で、日本はアジア諸国を侵略した。」「特に朝鮮と中国に対しては、償い切れないほどの暴虐をした。」

 東京裁判が日本を断罪し、悪の国として裁きましたが、事実は戦勝国による復讐裁判でしかないと、今は分かっています。しかし日本の中にいる、反日左翼学者と、彼らと結びついた反日勢力が今も強い力を持ち、歴史の見直しに抵抗しています。

 野党だけでなく、自民党の政治家の中にも、東京裁判の不当な判決を信じ、中国と朝鮮に逆らってはいけない、と主張する人間がいます。朝日新聞が白状して以来、「慰安婦問題」は下火となり、これに代わるものとして、韓国が持ち出して来たのが「徴用工問題」です。

 パターンはいつも同じで、日本の中にいる反日・左翼活動家が呼応し、日本の中で騒ぎます。マスコミが協力し、韓国の嘘が事実であるかのように報道します。これが、日本を呪縛している「東京裁判史観」の実例の1 です。

  〈 2. 「学術会議・梶田会長」 〉

 私の記憶では、最初に拒否したのは安倍元総理だったと思いますが、今では菅元総理となっています。岸田総理も、拒否の姿勢を変えていないため、梶田会長が小林科学技術担当相に見直しを訴えたと言う記事です。

 「日本学術会議」が政府の関連組織で、税金で運用されている事実からすれば、「反日・反政府一辺倒」では、存在意義がありません。任命を拒否された委員は、いわゆる反日・左翼学者で、元々「駆除すべき害虫」の仲間でした。

 この学者たちの拠って立つ理論が、「東京裁判史観」だと知る事がポイントになります。本来は文部科学省の所管なのに、なぜ小林担当相と面談したのかよく分かりませんが、媚中の二階派なので与しやすいと思ったのでしょうか。

 「学術会議が本来の役割を発揮し、国民に理解される存在であり続けることが、重要だ。」

 小林担当相が答えたそうですが、当然の話です。学術会議の任命問題について、国民の多くは梶田会長に批判的です。「大学における軍事研究には、一切協力しない」と言う一方で、中国の大学、しかも共産党管轄下の有力大学の軍事研究には、何も言わず協力していると言うのでは、理屈にあいません。

 それでも政府が彼らに気を使い、なぜキチンと説明できないのかと言えば、ここでも「東京裁判史観」が邪魔をしています。出発点は、昭和60年11月8日第103回国会、衆議院外務委員会での小和田恒外務次官の発言でした。

 土井委員長の質問に答える形で、小和田氏が東京裁判を肯定し、「日本は昔悪いことをしたのだから、自己主張をせず、永遠に謝り続けなくてならない。」「日本の外交は、東京裁判を背負っている、ハンディキャップ外交である。」と答弁しました。

 安倍内閣によって、次官の地位が少し低くなりましたが、当時の次官は大臣を超える存在で、彼らの意見が省庁を縛る方針となりました。外務省の官僚諸氏が、現在も中国や韓国・北朝鮮に正論が言えないのは、小和田氏の「ハンディキャップ外交論」にあります。元外交官だった馬渕睦夫氏の説明によりますと、小和田次官の外交論を否定しない限り、日本外交は改まらないとのことです。これが、実例の2です。

 小和田外交論の否定のため、どうすれば良いのかと言う質問に対し、氏は次のように答えていました。

 「国会決議とまでは言いませんが、少なくとも閣議決定で〈ハンディキャップ外交路線〉を否定しない限り、」「外務省の姿勢は改まりません。」

 安倍内閣でも、菅内閣でもやれなかったことが、果たして岸田総理にできるのかと、そう言う問題になります。「東京裁判史観」が現在の日本に無関係でなく、ホットな現実問題だと、息子たちにもこれで少しは分かるのではないでしょうか。日本の親の一人として、私はこれからも、「東京裁判史観の払拭」に取り組んでいきます。

 ( あやかさんへのご返事として、ブログを書いてみました。諸事情をお汲み取りください。 )

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『太平洋戦争 - 下 』 ( 続・反日学者の視点 )

2021-12-05 09:54:17 | 徒然の記

   1.  『日清戦争』   工学院大学教授 松下芳雄

   2.  『日露戦争』   東京大学教授 下村冨士夫

   3.  『第一次世界大戦』 早稲田大学教授 洞富雄

   4.  『満州事変』   武蔵大学教授 島田俊彦

   5.  『中国との戦い』  評論家 今井武夫

   6.  『太平洋戦争(上)』 早稲田大学助教授 大畑篤四郎

   7.   『太平洋戦争(下) 』 早稲田大学助教授 大畑篤四郎

  7月20日に立てた「読書計画」が、いよいよ最後の一冊となりました。年内に終われるのかどうかは、本の内容次第です。

 復讐劇でしかなかった「東京裁判」と、悪法「日本国憲法」について、なぜ私は飽きることなく語り続けるのか。

 「ねこ庭」を訪問される方々に説明する必要はありませんが、「アメリカへ行って文句を言え。」という人が、相変わらず、汚い言葉で批判します。見つけたら読まずに消していますから、皆さんの目には止まりませんが、気の長い人がいるものです。こういう人物は、説明しても分からないのでしょうが、もう一度言いましょう。

 「東京裁判」と、「日本国憲法」について、アメリカへ文句を言う必要はありません。批判する相手は、日本の中にいて日本をダメにする、反日・左翼の人々です。お人好しの「お花畑の住民」も含まれますが、メインのターゲットは、確信犯の反日・左翼です。私の「ねこ庭」を覗き込み、不毛な言葉を並べる人物も、いわばその仲間です。こういう害虫は、アメリカでなく日本にいます。

 私が対象にしているのは、学者と教授です。彼らは教壇の上から学生たちに反日教育をし、マスコミに登場して、日本を汚し続けます。「駆除すべき害虫」との戦いは、日本の中にしかありません。

 まだ、書き出しの数ページを読んだところですが、何気なく目にした、最終ページの数行を紹介します。

 「戦争は、貴重な犠牲を払ったけれども、」「その犠牲に報いる道は、いたずらに時計の針を逆に回すことでなく、」「戦争から得た経験に対する、反省であろう。」

 反日の朝日が同じ記事を書き、「反省」することだけを国民に強いました。現在も続く洗脳は、大畑氏のような学者との共同作業だったことが分かります。

 「戦後日本は、平和国家として再出発したはずであった。」「しかし戦後の厳しい国際環境の中で、軍備を放棄した日本は、」「かつての敵国であり、冷戦の一方の旗頭であるアメリカに、」「自国の安全保障を託すると同時に、平和国家として、」「国際社会の中で、平和のために行動する努力を怠っていないだろうか。」

 「国際社会の荒野の中で、安易な道を避け、」「どれだけ日本は、平和のための積極的な行動を取ったのであろうか。」

 「戦争のない世界、平和と創造のために働くことこそ、」「先輩たちの流した血に応える、道であろう。」

 先輩 ?・・誰のことを言っているのでしょう。氏の頭にある戦争は、どこを指しているのでしょう。列強との戦いが、幕末以来のものと考えていないため、先輩などと軽い言葉を使います。「ご先祖さま」と言うべきなのに、ここからして礼節を弁えていません。

 貴重な犠牲 ? ・・これもまた軽い言葉です。ご先祖さまを蔑ろにする氏は、「尊い犠牲」に対して、感謝する気持ちがありません。

 「戦争のない世界、平和と創造のために働くことこそ、」「先輩たちの流した血に応える、道であろう。」・・この空疎な言葉で、氏は何が言いたいのでしょう。具体的には、何を提案しているのでしょうか。

 昭和41年頃なら、氏のような空論もまだ世間で通用しましたが、今の国民にはそっぽを向かれます。「国際社会の荒野の中で、」と、分かったような言葉を使っていますが、反日の学者たちがやってきたことは、弱肉強食の現実を見ないで、

  1. 日本にだけ、戦争の反省をさせたこと

  2. 戦前の日本の批判と攻撃だけを、したこと。

 この二つです。「日本国憲法があったから、平和だった。」と自己満足し、国への愛や誇りを捨てさせました。反日・左翼学者の屁理屈の合唱を、野党の政治家が利用し、多くの国民が騙されました。

 不正選挙でバイデン氏を当選させ、その事実を国民に報道しなかったアメリカのマスコミが、今は国民の信頼を失いつつあります。この国家的不正を見た日本国民が、さらにマスコミへの不信感を高めました。大手メディアだけでなく、ネットの情報も玉石混交ですから、報道は自分で考え、判断するしかないと自覚するようになりました。

 大畑氏をきちんと批判することは、戦後日本の間違いを考え直すきっかけになります。次回はもう少し具体的な例で、氏の極論を検討してみたいと思います。

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『太平洋戦争 - 上 』 - 11 ( 反日学者の視点 )

2021-12-04 14:17:23 | 徒然の記

 100の事実を調べ、中から都合の良い事実だけを10取り上げて詳述し、他の90を軽視するとしたら、その論文は正しいと言えるのでしょうか。大畑氏の著作を読みながら、私はそんなことを考えていました。

 事実を書いているのですから、「うそ」の著作ではありません。しかし90%の事実の説明を省略しているとしたら、それは「捏造」の範疇ではないでしょうか。251ページの「陸海軍の対立」の章を読み、その感を深くしました。

 「昭和17年に入ると、〈大本営陸軍部発表〉と〈大本営海軍部発表〉と分けていたものを、」「〈大本営発表〉と、一つにまとめた。」「戦果がどちらの功名になるのかということで、陸海軍が争うのを防ぐためだった。」

 知らないことを教えてくれる人は、みんな私の師と言いましたが、大畑氏は例外です。教えられても、敬意を払う気になりません。

 「陸海軍の対立は伝統的なものだったが、戦時中になされる争いは、」「そのまま作戦の、成功不成功に響くものであった。」
 
 「たとえば飛行機についても、戦闘機、爆撃機、輸送機、練習機の全てを合わせても、」「僅かの種類しかないにもかかわらず、」「陸海軍は、別々の製造工場を持っていた。」「しかも一方が立派な工場を立てれば、他方も負けずに新しい工場を立てる。」「競争というより、仇同士のような有様であった。」
 
 確かめる方法がないので、そういうことがあったのかと、思うしかありません。
 
 「海軍は飛行機に関しては、陸軍の追随を許さない優秀性を誇り、」「陸軍に対して、その技術を秘密にしていた。」
 
 「1月8日の会議でも、争いが起こった。」「海軍が、ポルトガル領チモールに航空基地を作るため、」「上陸作戦の必要があると、主張した。」「これに対し東條首相と東郷外相は、〈ポルトガルは戦争相手国ではない〉と、上陸作戦に反対した。」
 
 「永野海軍軍令部長は、色をなして怒り激論が始まった。」「両者はなかなか譲らず、結局はポルトガルが、」「陸軍部隊の平和進駐を認めるということで、ケリがついたが、」「それからというもの、永野軍令部長は、「陸軍出身の東條首相と、口をきかないようになった。」
 
 陸海軍が、真剣な議論をしていたという印でないかと、私には思えますが、氏にはそうでないようです。
 
 「また、占領地の軍政を陸軍所管とするか、海軍とするかでも常にもめた。」「マニラ陥落寸前に、高等弁務官官邸を、」「陸軍が使うか海軍が使うかといった、つまらないことで、」「三日間も、議論し続けたことがある。」
 
 このような些事を取り上げる方が、余程つまらないことでないかと思えますが、しかし次の事実が本当なら、国を危める話になります。
 
 「パレンバンは、有名な落下傘部隊の活躍で、陸軍の手に落ちていた。」「ここにあった採油施設も、当然陸軍の手中に入った。」「開戦時の予想では、せいぜい5万トンぐらいと考えられていたが、」「実際には150万トンだった。」
 
 「ところが陸軍には、油を運ぶ船がなかった。」「一方海軍の押さえていたボルネオでは、油が少ししか取れず、船は余っていた。」
 
 「常識で考えれば、海軍の船で陸軍の油を運べば解決するが、」「海軍は、陸軍になんと言われても船を貸さない。」「パレンバンの製油所の運営を、海陸合同でやるのなら貸そうといってきた。」「無論陸軍は承知しない。」「そんなことで、多量の油は、なんの役にも立たずパレンバンに眠っていたのである。」
 
 その頃国内では、至る所の壁に「ガソリンは血の一滴」というポスターが貼られていました。石油なしでは自動車も走らず、やむなく木炭自動車が、薪を積んで走っていました。陸海軍の対立については知りませんが、木炭車が走っていた風景は、教科書で教えられました。
 
 陸軍と海軍の対立の激しさについて、何も知らないわけではありません。東京裁判の法廷で、対英米作戦計画について尋問された東條元首相が、次のように答えています。
 
  「海軍統帥部が、この間何を為したるかは、承知致しません。」

 当時の日本では、陸海軍がそれぞれに作戦を立て、実行し、相互の連携が図られていませんでした。真珠湾の奇襲攻撃に至っては、首相であった氏にさえ、海軍は詳細を知らせていません。

  これには渡部昇一氏も驚き、「首相がこのように言っているとは、信じられない思いですが、嘘ではないでしょう。」と述べていました。国務と軍事の管轄が完全に分かれ、陸・海軍の意思の疎通も図られていなかったというのが、当時の実態だったようです。

 大畑氏も、単なる陸海軍の対立を批判する意見にとどめず、東京裁判の判決の虚構を覆せば良かったのです。キーナン検事長とウエッブ裁判長が、28人の被告を有罪にした法理論は、「全面的共同謀議」でした。

 昭和3年から敗戦の20年までの17年間、政府と軍は「全面的共同謀議」により、侵略戦争を計画し、準備し、実施したという理論です。ヒトラーのドイツを裁いた法理ですから、この理論がなければ、裁判自体が成立しませんでした。対立していた陸軍と海軍が、「全面的共同謀議」をするはずかないと説明するのなら、偏らない教授の意見です。

 反日学者の視点が的を外れている例として、報告しました。次回も同じスタンスに立ち、「的外れ」な氏の主張を紹介いたします。

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『太平洋戦争 - 上』 - 10 ( 敗戦の原因は、海軍の〈奢り〉 ? )

2021-12-03 14:13:51 | 徒然の記

 大畑篤四郎氏著『太平洋戦争 - 上』を、読み終えました。日中戦争の終結と、米国との戦争回避につき、努力はしながらも戦線が拡大していきます。

 シンガポール陥落、フイリピン攻略、ビルマ・ジャワ戦の勝利と、日本軍は勝ち進み、フランス、イギリス、オランダ、アメリカの現地軍を制圧していきます。

 「アイシャル リターン」と言ってフィリピンを脱出した、マッカーサーの言葉は、この時のものです。272ページまでは勝利の記録ですが、273ページ以降は、敗戦への道を転げ落ちる記録です。

 ドゥリットル航空隊の16機が、東京を初空襲した時からが敗戦の始まりで、ミッドウェー海戦、ソロモン海戦、ガダルカナルの死闘と、読むのが辛くなります。心の痛む場面ばかりなので、何度もページを閉じ、読書を止めたくなりました。

 現在の時点から考えますと、敗戦の大きな原因は二つあります。

  1. 日本の秘密電信が、全て米国に傍受され、解読されていたこと。

  2. 米国軍にレーダーがあったこと。

 日本軍の動きが米軍につかまれていますから、待ち伏せ、騙し打ちなど、やられ放題です。しかも敵にはレーダーがあり、艦船や爆撃機の動きが早期に発見され、確実に攻撃されます。次の叙述は320ページにある、ミッドウェイ海戦の状況です。

 「午後3時20分、警戒中の戦闘機から、〈米急降下爆撃機13機接近〉の報告が入った。」「しかし日本の艦隊は、レーダーを持たなかった。」「だからこの時も、敵発見が遅れた。」

 赤城、蒼龍、加賀の三隻がやられ、南雲艦隊最後の空母飛龍も被弾し、火災と誘爆が続きます。飛龍は夜になっても燃え続け、燃え盛る炎の中を、将兵は救助に来た駆逐艦に移乗し、司令官の山口少将と賀来艦長の二人が、艦と運命を共にしました。357ページでは、ルンガ飛行場の艦砲射撃のため、泊地を目指した艦隊の攻撃される様子が描かれています。

 「アメリカ艦隊は、レーダーの使用により、」「日本艦隊の侵入を探知し、待ち構えていた。」

 日本も、艦隊の動きをアメリカが全く感知していないとは、考えていなかったようです。

 「情報は、少しくらい漏れているのかもしれない。」「しかし漏れて迎撃準備がされていても、何ほどの抵抗ができようか。」「というのが、参謀たちの実感であった。」

 これまで、連戦連勝で来た海軍の奢りだと、氏は言います。

 「南雲長官による変針命令が、微勢力無電で打電された。」「あたりに鋭い受診網を広げているアメリカ艦隊に、これが傍受されないはずがない。」「この電波を出してから間も無く、日本側は、」「アメリカ艦隊が緊急信号を出し始めるのを、探知するのである。」

 それでも日本は、電信が全て傍受・解読されているとは、気づいていませんでした。レーダーがあり、艦隊の動静がつかまれていることも知りません。ミッドウェイの惨敗の総括を、氏が次のように述べています。

 「それは予想外の事態であった。」「太平洋戦争の開戦以来、日本軍は負け戦を知らなかった。」「帝国海軍は、無敵を誇り続けてきた。」「計画したことの9割九分を実現させてきた実績が、海軍にはあった。」

 というより、日清・日露戦争以来、海軍は勝利してきたと、そういう方が正しいのかもしれません。ミッドウェイ海戦だけでなく、日本海軍が敗れた原因は、「無線傍受」と「レーダー」が大きいと私は考えていますが、氏はそういう見方をしません。

 「敗戦の原因は、いろいろあったであろう。」「飛行機を二の次にした、大艦巨艦砲主義による主力編成、」「時代遅れな戦艦中心主義、ルーズだった機密防諜、レーダーの有無・・」「数え上げればキリがない。」

 「どの敗因も否定できない。」「しかし敗因の根底にあるものは、負けを知らなかった海軍の〈奢り〉ではなかったか。」「兵はともかく、兵を指揮する将、将を動かす作戦部参謀の驕慢を、」「見過ごすわけはいかない。」

 大艦巨艦砲主義の中心人物の一人は、東郷元帥でした。元帥は、バルチック艦隊撃滅の功労者として君臨し、大和・武蔵という巨艦の建造を主張し、航空機を軽視していました。時代遅れといえば、その通りですが、敗因の全てを〈海軍の奢り〉と断定するのが果たして正しいのか。

 大畑氏の意見に、依然として違和感を覚えます。これだけ詳細な戦争の事実を述べながら、氏の視線は「反日本軍」の立場からの解釈です。奢りも驕慢もなかったとは言いませんが、氏の著作を一貫して流れているのは、陸軍と海軍への批判です。国のために死力を尽くした軍人への感謝と敬意が、どこにもありません。

 「ともあれこの海戦を境として、太平洋の制海権は、」「日本の連合艦隊から、アメリカの太平洋艦隊に移ったのである。」「この海戦の持つ意義は、日本が敗戦に向う下り坂を降り始める、」「第一歩を踏み出したことである。」

 「アメリカにとっても、日本にとっても、太平洋戦争の終局に、」「一大転機をもたらす、決定的海戦だったということであった。」

 日本の負けていく様子を、ここまで他人事のように語るのが、学者なのでしようか。

 「何年もかけて艦を作り、何年もかけて訓練を重ねても、」「海戦での勝敗は、緒戦の数時間で決する。」「海戦の厳しさと恐ろしさが、ここにある。」

 東郷元帥の言葉ですが、日本軍はその通りになりました。ミッドウェイだけでなく、ソロモン海戦、ルンガ沖戦、ガダルカナルの戦いと、日本は虎の子の艦隊を次々と失いました。私ならこの原因を、〈海軍の奢り〉という精神論でなく、「無線技術」と「レーダー技術」の欠如を言います。

 大畑氏の著作が出版された昭和41年は、反日左翼学者が、日本批判の本を盛んに出していた頃です。日本だけが間違った戦争をした、ひどい国だったと合唱していた時です。氏のような教授が、日本の過去を批判し、歴史を否定する授業をし、「日本国憲法」への信仰が確立されました。

 「九条があるから、日本は戦争に巻き込まれなかった。」「平和憲法は、絶対守るべきだ。」と、「平和憲法念仏集団」が日本の各地に生まれました。その結果の一つが、今日の立憲民主党です。代表選挙に立候補した4人は、「憲法改正を前提とした議論には、全て反対する。」と、主張しています。

 共産党中国が、台湾へ侵攻し、すぐ近くの尖閣を侵略し、「自国の領土だ」と宣言する沖縄へと向かったら、立憲民主党の彼らは、どのようにして日本を守るのでしょう。「国民に寄り添う政党になります。」と、強調していますが、彼らは、どこの国の国民に寄り添おうとしているのでしょう。

 こういうおかしな政治家を育てたのが、大畑氏のような教授たちです。次回は、氏が日本軍のどのようなところに視点を置いていたのか。参考になりますので、息子たちと、「ねこ庭」を訪問される方々に、紹介いたします。

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感傷の秋、お詫びの秋

2021-12-01 18:46:23 | 徒然の記

 読書の秋、スポーツの秋、食欲の秋、天高く馬肥ゆる秋と、秋には沢山の呼び名があります。もう少し加えると、「物思う秋」「感傷の秋」となります。

 先日「公と私」のブログを書き、訪問される方々のコメントを読み、穴があったら入りたくなるほど恐縮しております。足腰が弱くなり、遠出をするときステッキを手にするようにはなりましたが、私は至って元気で、ブログを突然辞める気配はありません。そういう時が来ましたら、必ず事前にご挨拶をし、きちんとご報告した上で、ブログの終わりをいたします。

 丁寧なコメントを頂いた方に、早くご返事をと、早まる気持ちに反比例し、パソコンを開く勇気が消えていきました。

 いつも元気に、反日左翼と戦っているわけでなく、私もたまには、「物思う」時があります。先日は、たまたまそういう時で、私の世界から「いなくなられた方たち」を、しみじみと懐かしみ、感傷的な文を綴ってしまいました。

 おかげで、自分のブログを終えるときのことまで、ちゃんと考えなくてならないということにも思いをいたしました。お一人お一人にご返事をすべきですし、そうするのが礼儀ですが、理由が一つしかありませんので、コメント欄に、同じことを書くのもみっともないので、こういう「お詫び」をしております。

 子供のような失態をし、申し訳なく、恥ずかしい限りです。今年の秋は私にとってだけ、「お詫びの秋」という呼び名になりました。ご容赦くださいませ。

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