館林ロストシティーランブラーズ・フォークソングシングアウト

フォークを歌って43年の坂を今登坂中。世間に一言あってこそフォーク。軟弱アコースティックミュージックにシングアウトだ!

F本観光で行く「沖縄」の旅・第1話。

2006-11-17 07:24:38 | 旅は続く


友人のf本氏から、3年越しで「沖縄に行こうよ」と誘われていた。元来出不精である。
「私f本観光が、宿から飛行機すべて用意します」
「お金と体が来てくれればいいから」の話しに、沖縄は行ってみたかったこともあって、乗った。
実際彼は「持ち物リスト」まで作ってくれたのだ!感謝・感謝である。

朝五時の高速バスに乗った。OQ氏Z氏とご一緒なのだ。
羽田で、弁当とビール。ダッフィーさん推薦の「万世サンド」があったので、余地無く選ぶ。機内で美味しく食べた。すでに、観光気分であった。



沖縄は半袖状態、夏である。見たこと無い、美しい花が出迎えてくれた。
貸し切りの「タクシーの運転手」は、涙が出るほど、親切かつ、見事なガイドだった。



御願いしてあったコースは首里そば・酒蔵・首里城・平和祈念館・ガマであった。
昼時、まず「沖縄そば」を食べる。現地で食べる初体験である。
独特の麺、本州で食べた「沖縄そば」はあまり旨いとは思わなかったが、印象は上がった。別に頼んだ「煮付け」がビールにあったね。
喉はカラカラであった。ビールは旨い!



有名な泡盛蔵「瑞泉」を訪ねる。泡盛の作られる工程を見学し、試飲する。
さすが、古酒(5年熟成以上に冠される)が旨い!10年は実に旨かった。
バーボンならアーリーイヤー(新酒)泡盛・ウイスキーなら年代物が旨いと、僕は思う。



3升入りの壷。欲しかったが、荷物になる。
寝かせて、熟成を待つ樽がいっぱいである。



次に「首里城」に向かった。「守禮の門」で記念撮影である。運転手氏は実にタイミング良く、「記念撮影しましょう!」とみんなのカメラを操って、収めてくれた。そういえば、帰りの空港の売店で、3000円のお釣りを1000円札3枚でもらった。ややあって、その内1枚が2000円札と気づく。神のおぼしめしと、解釈したが、この2000円、守禮門がデザインであった。守禮門とは相性がいいらしい。



植物もみんな始めてのものばかりである。
有名な「カジュマル」は気根を髭のようになびかせ、その大木の様は、圧倒であった。
首里城からの、那覇の眺めもすんばらしい。



「寅さん」を思い出す、ハイビスカスは南国である。リリーは居なかった。
名を知らないムラサキの花が、あちらこちらに、咲き乱れていた。



沖縄である。WW2と沖縄戦について、せめても、その門の前くらいには立ちたいと、「沖縄県平和祈念資料館」に向かった。
途中、運転手氏が、「ここも見てください」と「悲風の丘」というところに案内してくれた。
陸軍病院の置かれた壕の跡である。荒れた丘であるが、言葉に尽くせない、迫る物があった。

以下・そこでの運転手氏の説明である。運転手氏の説明と資料館でのメモを繋いだ文なので、事実誤謬があるかもしれません。

沖縄陸軍病院(沖縄守備軍直属)が空襲で焼け、南風原分院のあった南風原国民学校に移転(ここ悲風の丘である)。1945年沖縄師範学校女子部、県立第一高等女学校の生徒および引率教師237人が、看護補助のため動員。彼女たちは戦後、「ひめゆり学徒隊」と呼ばれる。やがて「ひめゆり」達は、南へ追われ、海へ落ち・自決をして、今に伝えられている。

5月22日、首里城地下に置かれた第32軍司令部が摩文仁に撤退し、陸軍病院も南部へ移動することになりました。その際重傷患者に青酸カリが配られ、自決が強要された壕もあると言う。千人を越える犠牲者を出したと言う。

命の重みが一番軽くなるのが戦争であろう。
今の日本、毎日、自殺者やいじめ、虐待の報道がある。
命の重みが軽くなっている日本である。
軍靴の音、聞こえる思いである。

運転手氏に感謝である。
そう言えば「沖縄知事選」最中であった。候補者「糸数けいこ氏」は参議院議員であったが、その昔ガイドであったらしい。
この運転手氏のような、すんばらしいガイドであったかもね。



「沖縄県平和祈念資料館」である。



「平和の礎」には戦争の犠牲者が刻まれている、そして、今も刻まれ続けている。
資料館を隈なく見るには時間が足りなかった。
修学旅行の高校生でごったがえしていた。資料の上でメモなどとりまくっていて、見学にはちと邪魔であったが「若い君達こそ大いに学んで」と祈る気持ちもあった。

沖縄戦の戦死者は200656人、その内一般人9万四千・沖縄出身軍人2万八千余・他県出身軍人六万五千余・アメリカ軍一万二千余であるらしい。



最後に「轟の壕」というガマに行った。



南部最大の壕(自然洞窟)である。県の首脳・警察・多くの住民・そして惨敗兵が集まったらしい。
ここで、日本兵による食料の略奪・若い女性への侮辱などが行われ、住民はアメリカ兵に助けられ、兵隊は殺された、と記録されている壕である。

写真は、入り口に供えられた折鶴・ガマの入り口・ガマから眺めた外の森である。

入り口に立つのが精一杯だった。迫る何かに圧倒されている自分だった。
手を合わせるのみであった。

100は遥かに越える「アメリカ軍の基地」を抱く日本。その75%が沖縄にある。「基地で生計が成り立つ」などの声もある。
8000人のアメリカ軍をグアムに移す事に、合意した。その費用一兆一千億、日本の負担は59%6760億である。
アメリカ軍を養う予算と、亡き後の土地の活用は、基地依存(だと仮定しても)の経済を充分転換できる原資とも思う。

北朝鮮の脅威などと、理由をつけて「基地」の必要性を説く論がある。
少なくとも「貴方の町」にどうぞ、の覚悟で話せ!と思う。



5時間以上に上る見学で頭はギュウギュウだった。
ホテルに着き、運転手氏と別れ、シャワーを浴び、暫くベットで横になった。
腹はへった。気持ちを切り替えて、街に出かけた。同行の彼ら、沖縄慣れしている。僕は、背中を追って、歩いた。



マチグワー(市場)は活気があった。見てるだけで楽しかった。
お土産をしこたま買って、発送した。
ただなあ・・豚さんの顔面はどうもね・・お魚も色が南国であった。



のんべい集団は琉球料理店「あんつく」を目指した。



まずビールね。その後あっという間に、泡盛のボトルは空になった。
じーまーみーとうふ・ミミガの刺身(豚さんの耳の和え物であった)・ふーちゃんぷる・イカのにらいため・すーちかー(三枚肉の塩漬け)など食べまくった。
写真に無いが、なーべーらんぶしー(へちまの味噌炒め)は絶品だったな。



このメンバーこのまま終わるわけが無い!
次は、桜坂の「悦ちゃん」に連れて行ってくれた。



おでんで泡盛である。クーシーサーと言う「野菜」がさっと茹でられ、テビチー(豚足)が柔らかく煮られた、おでんである。もちろん、大根やタマゴ・揚げ物もありまっせ!

餃子は出前が届く。これまた、旨い!酒ははかどる。



酔いしれる我々。ジュークボックスが懐かしい!

皆がかけていた。

第1話・終了である。この後、僕には「至福」の時が訪れることになるのである。
コメント (8)
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