奥蝦夷地移転勤務の本州人、その精神支柱、択捉対象の地まで江戸のたたずまい敷衍 「史跡国泰寺跡」とは241114―前―
◎史跡国泰寺跡の指定理由三項目
1)幕府が和人の定着・慰撫を図り、蝦夷地の教化と法務活動を行なわせるために建立
2)鎌倉・金地院 こんちいん 末寺で、東蝦夷地「境界」域が活動範囲、住職の多くは相模国・鎌倉五山から派遣
3)建物の改修等により旧規を残すも、よく江戸時代のたたずまいを今日に伝える。
注1「奥蝦夷」は、のちの十勝国、釧路国、根室国、千島国が対象。「ここから奥蝦夷」 は松浦武四郎筆『東蝦夷日誌』に見える。中華蛮夷思想で「中心=君主の徳およぶ地」「近隣」に接する「境界」に相当、その域外は「異域」に続く。
注2)指定対象「江戸のたたずまい」は、「山門、東面する本堂、天保6年の石仏、天保13年建立の仏牙砂利塔、歴代住職の墓所があるほか、東方の丘上には竜王殿・馬頭観音堂・神明社跡」としている。
注3)今日的には付随する「風除林 一〇町四方」の林相&植生を加えることで、「杜と海は<水>でつながる 往時からの漁業、水産のマチ」たるシンボルゾーンの位置あり。
◎史跡国泰寺跡の指定理由三項目
1)幕府が和人の定着・慰撫を図り、蝦夷地の教化と法務活動を行なわせるために建立
2)鎌倉・金地院 こんちいん 末寺で、東蝦夷地「境界」域が活動範囲、住職の多くは相模国・鎌倉五山から派遣
3)建物の改修等により旧規を残すも、よく江戸時代のたたずまいを今日に伝える。
注1「奥蝦夷」は、のちの十勝国、釧路国、根室国、千島国が対象。「ここから奥蝦夷」 は松浦武四郎筆『東蝦夷日誌』に見える。中華蛮夷思想で「中心=君主の徳およぶ地」「近隣」に接する「境界」に相当、その域外は「異域」に続く。
注2)指定対象「江戸のたたずまい」は、「山門、東面する本堂、天保6年の石仏、天保13年建立の仏牙砂利塔、歴代住職の墓所があるほか、東方の丘上には竜王殿・馬頭観音堂・神明社跡」としている。
注3)今日的には付随する「風除林 一〇町四方」の林相&植生を加えることで、「杜と海は<水>でつながる 往時からの漁業、水産のマチ」たるシンボルゾーンの位置あり。