お良しなさい日記♪

三浦半島からこんにちは!

春の訪れとともに・・・

2018年03月23日 16時41分15秒 | 父と母のこと

 

 

2018年3月22日、前日の春分の日の 冷え込んだ雪模様から一転して、青空が晴れ渡った日。

珍しく弱気なことばかり言い、なんとなく元気がなかった母が、夜 突然に逝きました。90歳と6カ月。

背中が痛かったそうですが 朝はなんとかお味噌汁を作り、いつものように時間通りにヤクルトを飲んだり、ヨーグルトを食べたり、読書、パズル解き、父と一緒にテレビの相撲、お茶碗を並べて夕飯。俳句番組を楽しく見て、さぁ お風呂に入ろうというところでの、突然のお別れでした・・・。お良しの目の前で、座った姿勢のまま倒れました。「頭が痛くなってきちゃったぁ」と言い出して心臓が止まるまで、5秒ぐらいでした。夢まぼろしを見たような気分です・・・。

「東京オリンピックまでがんばる」というのが口ぐせで、

「やだなぁ!死ぬのは。おかあさん、生きるよ」と、明るく言っていたのに・・・。

 

 私にくれた、交通費が入った封筒の表書き。(黒ペン字の部分。いまでも → いつまでも の誤り)

 

 その日の夕飯には、卵焼きと、大好物の このリンゴのすりおろしにトマトが入ったものを作りました。この写真を何で撮っておいたのか 自分でも不思議です。

「バナナもあるよ。半分こして食べようよ」と言って1本出してきたので、それも輪切りにして。

 

 ここには書きませんが、お別れの言葉っぽい会話もしたのです。(お良しへの花向けともとれる言葉)

そのとき、母からの言葉に、ちゃんとお礼が言えて良かったと、今 思っています。

 でも、励ましてばかりでなく、体がつらい気持ちによりそって、もっとわかってあげればよかった・・・と、今さら すまない気持ちでいっぱいになっています。おかあさん、本当にごめんなさい・・・です。

 

 お良しの 絶対的な味方だった母。 看取った医師が臨終を告げた時、前向きに一生懸命生きた母の亡骸に、

「おかあさん、良く生きたね。どうもありがとうございました」と、笑って声をかけ、頭を下げました。とにかく私は「茫然」の一言という状態でした…

 

母は `生かされている’と感謝し、死の直前まで周囲の人に「ありがとうね」と言っていました。

 望んでいたような形で逝きましたので、私としても今 安心しています。怖がっていた「死」を乗り越えた母の姿を目の当たりにして、親とは最後まで、「子の親」なのだ、と思い知らされました。私は、以前から、老いてゆく親が、私のゆく道を身をもって見せてくれている(良いこともつらいことも)と、感じていました。

こんなことを言うと、偏見だと叱られるかもしれませんが、お風呂に入るときに裸の母の体を見ると、「こんなに小さくなっちゃって、背骨も曲がって、懸命に生きているのね・・・」と、娘として切なくなっていました。毎日たいへんだったと思います。

 本人も、腰が曲がったり 顔がシワだらけだと気にしていました。「やっぱり女の子だなぁ☺️💓」と思いました。周囲の誰もが「かわいいおばあちゃんだね、私も○○さんみたいなおばあちゃんになりたいわ」って、うらやましがられていたんですよ。 

 

 でも!私はちゃんと知っているし覚えています。母は体が小さくなりましたが、チャーミングで 丈夫でしっかり生活していたし、家族と回りの人のために一生懸命に働いたから、体はその証であったことを!

 私は、最近の母が一番好きでした‼️

 亡くなる寸前のその時だったのか、ハッキリと覚えていませんが、苦しそうに歩く母の前屈みの後ろ姿を見て、私は

「あばあちゃん!お母さんはいつまで頑張ればいいの?」って、確かに心の中で助けを求めるように叫んだことがありました。この晩だったのか、昨年の秋に転んで背中を痛くした時だったかもしれません。母が逝く3分か5分前。おばあちゃんが迎えに来てくれていたなら、母は 逢えて嬉しかったかもしれない…。53年前に亡くなった「おっかさん」をいつも思っていたから。

 つらいとき、「おっかさん助けて」って言っちゃう。いつまでたっても「おっかさん」が頼りだよ。って笑ってたなぁ 母は。

 その上で このような決意をもって ↓

  

 毎日の出来事や排尿回数、私が家に来た日をちゃんと記していた手帳

表紙の文字が切ないです。ごめんなさい、おかあさん。

 いつか言った言葉。「お良し、強く生きていけ!負けるな❗おかあさんみたいにならずに(腰が曲がらずにということ)、気をつけて長生きしろな。おとうさんも、おかあさんも長生きしてるから、お良しも大丈夫だよ。」

 

 これから、家の周りの桜が満開へと進んでいくという3月の晩でした。

 

 

 3月27日追記 ☆ かかりつけ医の予測だと、喘息の発作が起きたことで血圧が上がり、高齢なので耐え切れずに血管が切れたことでの、脳出血(監察医の見立ても脳出血死)だったんだろう、ということでした。

 

 その日の朝6:40ごろ、夜中から背中が痛くて不安で眠れなかったのを我慢して、私を早くから起こさないようにと、必死に電話してきました。ふだんの背骨の痛みというより、心臓からきているかも…?と疑った私は、とりあえず内科へ連れていきました。よく診てもらいましたが、異常なしでした。翌日が、かかりつけの整形外科の受診日だったので、本人の希望で家に帰って休むことにしました。

 

 夜、時々ある 喘息の発作が出たとき、自分で薬の吸引をしていましたが、もう一度させるべきだったと、後悔しています。いつも母を見守っているつもりだったのに!私は最後の最後に失敗してしまいました。母を死なせてしまったのは、実の子の私でした。( 持っていた吸引薬は、即効性がない、喘息コントロール薬でした。もう一回吸引しても無理だったろうということが後からわかりました )

 

 もう一度だけ覚え書きさせてください★4月26日 追記★

母の友人知人たちから、一様に「娘の病気がよくなって良かった。私は娘に世話をかけてるけれど、嫁さんじゃなくて娘で良かった💓」と、よく言っていた、と聞かされました。私のことホントに心配してたんだな…、わるかったなぁ…、せめて父にはもう心配かけまいなぁ。

 母は、チューブにつながれての寝たきりはぜーったいに嫌だ‼️と言っていて、私との間では、家で心臓が止まっちゃったら救急車は呼ばなくていい、ということを何度も話し合っていました。けれども、在宅医療と看取りに関わっていらっしゃる医者がよく例を出すように、「家族が気が動転して救急車をよんでしまう」ということをしてしまいました。ですから、救急隊から、到着するまで心臓マッサージするよう指示されたし、夫であるお良しの父も「助けなきゃだめだよ!」と言う。

「お母さん、ごめんね」と謝りながら、どうか肋骨が折れませんように!と祈りながら、30回、胸を思いきり押しました。最初の2回だけ、「うっ、うっ」と、母の声が出ました。心臓は止まっているのに… 「苦しいよ」って、言ったのかなぁ?

 父が、取り乱した様子なく、ずーっと、母の髪や頬、胸をその大きな手で擦り続けていました。

 父はいつも母が床にはいると、掛け布団を上から押して、体とのすき間をなくして寒くないようにしてあげていました。隣の部屋で、お良しはよくその睦まじい様子と会話を聞いていました。父はどんな気持ちで過ごしているのでしょうか。娘でも、聞きにくいです…。

 

 母にはいくら詫びても足りないですが、でも、よくぞ私の前で…父と私に傷を残さないように、最後の最期まで気を遣った態度で、お母さん ありがとうございました(ToT)と大感謝なのです。

母の胎内で最初の心臓の鼓動をいただいた私が、消えゆく母の鼓動の脈を取りました。これって、本当に幸せなことですか?

(いくら日記だとはいえ、私的な記事を書いてすみませんでした)