ふむ道,小道,数多く

趣味いろいろ。2014/9に別ブログを合体したので、渾然一体となってしまいました(笑)

The Joy Luck Club : JING-MEI WOO -The Joy Luck Club (1)

2013-05-04 09:08:28 | BookClub
The Joy Luck ClubThe Joy Luck Club
価格:¥ 1,675(税込)
発売日:2006-09-21

Jing-Meiは2ヶ月前に亡くなった母に代わってJoy Luck Clubに行くよう父から依頼された。父によると、母は何かを思い過ぎて頭が一杯になって亡くなったという。医者によれば死因は脳動脈瘤で、母の友人達は、うさぎのようにあっと言う間に亡くなったわ、と言った。

母は次回のJoy Luck Clubの幹事をやる予定だった。母は亡くなる前の週、リンおばさんは赤い豆のスープを作ったから私は黒ごまのスープを作る、と張り切っていた。どちらも同じようなものよ、と言っていたが、全然違う。
これは中国語で言う所の、

that means the better half of mixed intentions.

でも理解できないのでよく覚えてない。

サンフランシスコ版Joy Luck Clubは1949年、Jing-Meiが生まれる2年前に始まった。両親はその年おしゃれな服だけをもって中国を出発。他のものを詰める時間がなかったのだ。(と母は後で父に説明したらしい)

両親はサンフランシスコに到着後、絹のドレスを隠した。やがてバプティスト教会の世話役と知り合いになり、ちょっと大きすぎる服をもらった。その義理で教会に通う羽目になり、水曜夜の聖書勉強会と、土曜朝の雑用会で英語を習い、そこで周さん、Jongさん、St.Clareさんたちと出会う。彼らもまた人に言えない悲劇を中国に置いて来て、下手な英語では表現できない夢を持っていた。

夫人達のnumbnessを見て取った母は、Joy Luck Clubの開催を提案した。

Joy Luckとは母が桂林で最初に思いついたアイディアだ。暇さえあればいつでも母はその話をしていた。会った事のないバンクーバーの親類から送られたスキーセーターを取り出して、よじれた毛糸を引っ張り、皿に起きながら話してくれた。

「私はそれまでずっと、桂林を夢見ていたのよ。尖った山々や曲がりくねった川。そして川岸の苔。これを食べると元気になるし、落ちても柔らかい苔が受け止めてくれるの。頂上に登ればどんな心配もなくなるのよ。

中国では誰でもそう信じていた。しかしいざ着いてみると、実際の山々は大きな揚げた魚が幾つも重なってその陰が重なり、迫ってくるような怖い所だった。

でも実は私は桂林の美しさを見に来たのではなかった。夫が私と2人の子供を呼んだの何故なら、そこが安全と思ったから。彼は国民党員だったの。そしてその後彼は私たちを2階建ての小さな家に置いて、重慶に旅立ったの。

その頃日本軍が迫っていた。町はあちこちから逃げてきた人で一杯。お金持ちも貧しい人も、上海人、広東人、北の人達、そればかりでなく、外国人や宣教師まで。そして国民党員。彼らは、自分たちが1番偉いと思っていたのよ。

難民達はしょっちゅう争っていた。皆お互いを見下していたわ。私はわけのわからない言葉を喋って言いよってくるアメリカ空軍兵が大嫌いだった。でも最悪なのは北からの人達。あいつらは、手で鼻をかんで他の人になすりつけて、嫌な病気をうつすのよ。

だから桂林の美しさなんてあっという間に吹っ飛んだわ。日本軍は一体どこに潜んでいたのかと思った。ある日赤ん坊を抱えて隠れていた時、サイレンの音で飛び出して、洞窟に隠れたの。でも山が崩れそうで怖かった。外も怖い。一体どこへ逃げたら良いのかわからなかった。空襲が終わった後、私たちは町へ戻ったの。

最初のJoy Luckパーティを思いついたのは、蛾も落ちてしまいそうな蒸し暑い頃。
私と同じように希望を持った顔の3人の若い女性に声をかけたの。軍人の奥さん、上海のお金持ちの家の出身だけど着の身着のままで逃げてきた女の子、貧しい家の生まれでお金持ちの老人と結婚して、すぐに旦那さんに死なれた若い未亡人。

私たちは毎週集まって、縁起の良い料理を作って楽しんだわ。食事の後は麻雀。そしておしゃべり。しかし苦しみや悲しみに目をつぶっていたわけではない。皆怖かったの。だから、毎週正月のようなふりをして、悪いことは終わってしまったようなふりをしていたの。

私は麻雀はたくさん買ったわ。でも、お金持ちにはならなかったわね。紙幣の価値がどんどん下がって、千元紙幣でもトイレの紙ほどの価値もなくなってわよ……」

母の桂林の話はいつもエンディングが違う、中国のおとぎ話と思っていた。

「価値のない千元でお米をカップに半分買って、お粥にして、糊ににして豚足2本と交換して、6つの卵と交換…」(わらし長者かw)のようにどんどん膨らんでいった。

しかしある日、トランジスタラジオをおねだりしたのに買ってくれず「何で持った事のない物を欲しがるの」と、言いながら、全く新しい話を始めた。

要約すると、母は、軍の将校がやってきて、重慶にいる夫のもとへ逃げるよう言われた。友達が賄賂でゲットした荷車に荷物と2人の子供を乗せて、急いで重慶に向かいます。難民達の間では、虐殺の噂も流れていましたが、国民党は桂林は中国軍に守られているので安全だ、と、言い張る。

ところが、数日後、桂林の路上は国民党の勝利を報じる新聞がばらまかれるが、その紙面には、肉や魚のように横たわる人々の姿が……

母は荷車が壊れるまで押し、その後、自慢の麻雀台を捨て、子供と鞄を2つかかえて重慶に向かった。泣く力もない。そのうち傷だらけの腕で耐えられなくなり鞄も捨ててしまう。周りの人も皆同じ状況。

人々は持っていられなくなった財産と希望ををどんどん道に捨てる。母も、重慶に付いた時は上着のように羽織っていた絹のドレスだけ。そして、

「その時の夫はあなたの父さんではない。連れていた子供もあなたではない」


Run!Run!Run!