気がついてみたら、長い間、「好き」を素直に言えなくなっていた。
時々、口に出してみるのは、たくさんの人がそれを肯定してくれるとわかっているとき。
…とか、有名人の誰かも好き、だという保証書みたいのがついているときだけ。
たぶん、子供のころそうなってしまったのだと思う。
私は、肉が大好きだった。今でも、好き。
でも、子供のころは、「お肉大好き」と言うと、「だからあんたは太る」「だからあんたは脂くさい」と言われていた。
私は、もの心ついたときから、ずっと肥満だったから無理もない。
昨年まで、夫にさえ、「肉が好き」と言えなかった。
私は煮くずれたものや熟しているものが大好き。
煮くずれた豆、うどんや完熟の柿、バナナ、キーウィなどなど。
それらも、子供のころから、「だからあんたの顔もくずれている」と言われてきた。
鏡を見て、「ブスだもんなぁ」と納得していた。
些細なことだけれど、こんな繰り返しで好きな物、好きな人、好きな事を口に出すのも、心の中で思うこともいつの間にかやめてしまった。
周囲の反応を気にするあまり、「好き」を見つけても、夢中になれなくなった。
それと元来の怠惰な性格もあり、誰かの反対を押し切ってまで、何かに没頭するほどの気概もなければ、困難を乗り越える努力もしなかった。
でも、4年前から、何かを「好き」ということに自信をもちたい、心の底から湧きおこるその感情を、大切にしたいと思うようになった。
過去にちょっとでも興味を持ったことも言えるようになってきた。
ブログを始めた去年からは、特にそう思う。
ブログやHPで「好き」をいっぱい語っている人は、とてもステキ!
私の憧れだ。
さらに、mixiのコミュニティに参加して、もっとその思いは強くなっている。
人生の早い時期に、「好きなもの」に出合った人って、ちょっとうらやましい。
私は、日本人の平均寿命といわれる年齢の折り返しに来て、初めて「好き」が見つかった。
今からでも遅くはないんじゃないか、そう思いたい。
私は、冷静さを欠くことが多い。
なので、自分の「好き」を周りの人に押し付ける、誰かの「好き」を否定する…などないよう、気をつけたい。
これからも、まずは、「好き」を「好き」って言ってみたい。
そして、取り組みたいと思ったならば、一生懸命やってみたい。
時々、口に出してみるのは、たくさんの人がそれを肯定してくれるとわかっているとき。
…とか、有名人の誰かも好き、だという保証書みたいのがついているときだけ。
たぶん、子供のころそうなってしまったのだと思う。
私は、肉が大好きだった。今でも、好き。
でも、子供のころは、「お肉大好き」と言うと、「だからあんたは太る」「だからあんたは脂くさい」と言われていた。
私は、もの心ついたときから、ずっと肥満だったから無理もない。
昨年まで、夫にさえ、「肉が好き」と言えなかった。
私は煮くずれたものや熟しているものが大好き。
煮くずれた豆、うどんや完熟の柿、バナナ、キーウィなどなど。
それらも、子供のころから、「だからあんたの顔もくずれている」と言われてきた。
鏡を見て、「ブスだもんなぁ」と納得していた。
些細なことだけれど、こんな繰り返しで好きな物、好きな人、好きな事を口に出すのも、心の中で思うこともいつの間にかやめてしまった。
周囲の反応を気にするあまり、「好き」を見つけても、夢中になれなくなった。
それと元来の怠惰な性格もあり、誰かの反対を押し切ってまで、何かに没頭するほどの気概もなければ、困難を乗り越える努力もしなかった。
でも、4年前から、何かを「好き」ということに自信をもちたい、心の底から湧きおこるその感情を、大切にしたいと思うようになった。
過去にちょっとでも興味を持ったことも言えるようになってきた。
ブログを始めた去年からは、特にそう思う。
ブログやHPで「好き」をいっぱい語っている人は、とてもステキ!
私の憧れだ。
さらに、mixiのコミュニティに参加して、もっとその思いは強くなっている。
人生の早い時期に、「好きなもの」に出合った人って、ちょっとうらやましい。
私は、日本人の平均寿命といわれる年齢の折り返しに来て、初めて「好き」が見つかった。
今からでも遅くはないんじゃないか、そう思いたい。
私は、冷静さを欠くことが多い。
なので、自分の「好き」を周りの人に押し付ける、誰かの「好き」を否定する…などないよう、気をつけたい。
これからも、まずは、「好き」を「好き」って言ってみたい。
そして、取り組みたいと思ったならば、一生懸命やってみたい。
『パパ』大好き・『ポポ』大好き・『静岡』大好き
そうそう東京青山といえば、かなり昔だけど兄の結婚式で青山のホテルへ。
行きはTシャツにGパンで表参道の美容院で変身し、帰りは別人になって田舎へ戻りました。荷物は全部宅急便で。懐かしいなぁ~
僕も、ずっと思った事を言葉にすると嫌な事を言われる環境で育ったので、言葉に表さない大人になっていました。家では特に感情を表に出せなかったです・・・まさにともゑさんと同じような事を言われて来ましたが、それが「フツー」だと思ってきました。いつしか周りの顔色をうかがってしか発言できない人になっていました。それは「控えめ」という言葉で良いものとされていますが、何かを本気でやる時は控えめではダメなんですよね~。
いまは英語しかしゃべらない環境に住んでますが、思った事を言わないと自分が無くなるような感じさえするぐらい、自己主張が求められます。この環境に馴染むまでは「YES or NO」とよく言われました(^_^;)自分の気持ちをちゃんと表す事で、自分がやりたい事や思ってる事を自分にハッキリ教えられたりします。
ともゑさんのニュージーランドでの生活はどうでしたか?日本語では言えない事でも、英語では言える事って多いですよね。
これからもいっぱい好きなこと、語っちゃうかもしれないです。
ステキ、おにいさまの結婚式、青山だったんですか。
変身した正宗っちさんの姿、見てみたかったなぁ。
BBSに出されていたお写真、とても良かったですもの。
遠出したときの荷物は、宅配が便利ですよね。
ほ~んと身軽に帰ってこれるのって楽ちんですね。
私は折り返し地点までもう少しありますが
まだ見つかってないみたい。
その先も見つかるか分からないし不安だけど。
一生かけて見つけられた人はそれだけで幸せと思います。
そしてそれに自信を持ちたいって言える人は
それだけで輝いていると思います。
ともゑさんが前からやりたかった何かに取り組んでおられる様子は
以前の記事を読んで知っていました。
それが今自信を持ちたいと思っている「好き」なのでしょうか?
月並みだけど、頑張ってください。応援しています。
そして私も「好き」を見つけたいと願っています。
>ぜ~んぶ読んでしまいました。
本当にありがとうございます。
うれしいです、そして、ちょっと恥ずかしいです。
時々、過去記事を読み返すと、「なんでこんなこと書いちゃったんだろう」と思うものばかりなんです。
ブログを始めたころのものとか、途中、失速しかけていたときのものなど、特にそう思います。
>何かを本気でやる時は控えめではダメなんですよね~。
そうなんですよね、おっしゃるとおりだと思います。
私は、目一杯アクセル踏んで突き進むべきところで、同時にブレーキも踏んでいるようなことがあります。
本気でやろうと思うときに限って、自分を客観視してしまうんです。
がんばろうとする自分の姿を、また笑われてしまうんじゃないかと臆病になっちゃうんです。
英語で話すこと、好きです。
自分が解放されたような気持ちになれます。
ニュージーランドにいたときは、学生の気楽さもありましたが、自分が楽でいられました。
当時、まだ若くて、今よりももっと我が強かった私にとっては、
はっきりと意思表示できることが心地よかったのかもしれません。
英語なら言えることって確かにありますよね。
いろいろ遠回りをしましたが、結局、
小学生のころから「好き」だと思っていたことに気がつきました。
でも、公言するのが恥ずかしいのと、
自分には無理だと思うことで、遠ざけていました。
できるかできないかは今でも自信がないのですが、
「好き」だという気持ちには自信が持てるようになれたと思います。
>それが今自信を持ちたいと思っている「好き」なのでしょうか?
そうなんです。
今年は決めたい…と年頭に意気込んでいたものの、とうとう半年が経ってしまいました。
7月からが下半期の始まりと考え、そんな決意も込めて昨日は記事を書きました。
がんばります。
ようこさんの「好き」、見つかりますとも。
案外、私みたいに心の奥底に、ほんとは潜んでいるかもしれませんよ。