◎サマディは日常意識の近くにあるが、到達、維持は難しい
サンフランシスコ州立大学の学生ジム・デコーンは、27歳で最初のLSDトリップで見神したようだ。
残念ながら、彼はそれ以上の体験とはいえない体験を求めて、以後20回以上のLSDトリップを行ったが、最初の体験に匹敵するものはなかった。具体的には、地獄体験、アストラル・トリップ、共時性体験、前世体験(18世紀の誕生から老年を経て死まで)、物体の念力移動、他次元の戦士の世界への旅、「おまえが責任をとるのか?」という声(ハイアーセルフの声?)などの、悟りとは言えない体験に止まった。
以下引用文は、最初のLSDトリップでの見神時と思われる体験の記述。
『その頃私は、東洋宗教に強い関心を持っていた。そのためか意識の上にドラッグの効果が現れると、サマディ(深瞑想)としか形容しようのない体験が始まった。サマディとは「ヨーガの修行の最終ステージ で、そこでは個性が放棄され、瞑想の対象に同化する」ことである。初めて、そして残念ながら生涯でただ一度、私は完全なる調和と統合という、言葉では表せないほどの至福を体験することを「許された」。主観と客観が一体となる――なんら問題はない。なぜなら、存在するものはすべてそれ自体が素朴な「答 え」であり、継ぎ目のない統一体の中にあるほかのすべてのものと完璧な関連性を保っているからである。善も悪もない、正も邪もない。あるのはただ、本質的で自然な極致だけだ。
この体験のもっとも驚くべき部分の一つとして、意識の状態が非常に単純ではっきりしているということが挙げられる。このような真理を一度体験してしまうと、人生をほかの方法で見るなどということがどうしてできようか? 神はこのようにして物事を見ているに違いない。このときのトリップではそんなふうに感じられ、天にも昇る心地を体験した。実際にはそれ以上のものなのだが、この体験は言語に絶するもので、とても言葉では言い表せない。今日に至るまで私は、そのような意識の状態が通常の意識のこれほど近くにありながら、到達や維持がこれほどむずかしいということがどうしてありえるのだろうと不思 議な気がしている。』
(ドラッグ・シャーマニズム/ジム・デコーン/青弓社P22-23から引用)
サマディは、世間的にはいろいろ定義があるが、本来は見ている自分がないのをサマディ(三昧)と呼び、見ている自分があるのは定。
それにしても、『善も悪もない、正も邪もない。あるのはただ、本質的で自然な極致だけだ。』という状態は、見神かもしれないが、トレヤ・キラム・ウィルバーは(薬物を使用せず)、似たような至高体験以後は、境地が深まる方向に行ったが、ジム・デコーンは、深められなかった。トレヤ・キラム・ウィルバーは、冥想修行したが、ジム・デコーンはドラッグに頼るばかりで冥想修行がなかったということなのだろうか。
同じソーマ・ヨーガ界隈では、カルロス・カスタネダは、正師ドン・ファンを得て究極の悟りに至ったが、ジム・デコーンは、正師を求めるほどの情熱がなかったということなのだろうか。
容易に薬物で霊界をのぞくことはできても、意図せず霊道を開くのは危険なものであり、ただでは済まない。ソーマ・ヨーガは、インド・アーリア時代からの伝統があり、20世紀以降様々な向精神性薬物が開発されたが、それだけで、窮極の悟りを得るのは独力では如何ともしがたいところがあるのではないか。
薬物乱用カルトも珍しくない時代になって久しい。