◎【第五章】冥想の種類
◎単体冥想の評価
1.前提
冥想の分類にはいろいろあって、例えば目的や効果を求める冥想、それらを求めない冥想という分類もあり、また宗派別冥想という区分もある。宗派別冥想は、伝統的組織宗教では、複数の単体冥想手法を組み合わせたものがほとんどであり、「冥想の種類」を説明する材料としてはわかりにくいことになる。
よって、冥想手法をバラバラに分解して単体冥想を区分すると「3. 単体冥想のいろいろ」以下のようなところになる。
単体冥想については、単体冥想の優劣、すなわちどれが悟りを容易に開く道なのかという疑問を抱くものだ。その点について、例えばダンテス・ダイジは、只管打坐とクンダリーニ・ヨーガを優れた冥想として推してはいる。だが、現代人は数分坐れれば悟る可能性があると言われているように、只管打坐とクンダリーニ・ヨーガ以外の単体冥想でも悟る可能性がある上に、それ以外の偶発的冥想でもニルヴァーナに触れる可能性がある。
それは彼の次の言葉でわかる。
『プロセスもテクニックなぞも
ないことを体現している
あらゆるあなた達に捧げる』
(ニルヴァーナのプロセスとテクニック/ダンテス・ダイジ 序文から引用)
更に言えば、禅語録にはどんなタイミングで悟ったかの実例が多数書かれているが、大悟が起こったタイミングは、何か単体冥想に打ち込んでいる瞬間ではなく、鍵たばをガチャリと置いた瞬間とか、小石を投げて竹に当たりカーンという音がした瞬間などであった。
もっとも密教、クンダリーニ・ヨーガ、古神道では、山の洞窟や密室で観想などで長期修行するせいか、あまりそういうことは言わないのであるが。
2.注意事項
(1)冥想手法と結果が連動しないこと
一つの冥想法で最後まで行きつける人は多くはないのではないか。例えばマントラ禅に打ち込んでいても、ある日自然な只管打坐が起こりそのまま身心脱落したなど。この点はその過程の最初から最後まで見届けた人物でないとわからないが、どうもそうらしいということは、釈迦が四禅から涅槃に入ったことを確認した人物がいるというようなことで察するしかないように思う。
また名だたる冥想フリークはいろいろな冥想法を次々に変えてチャレンジを繰り返している場合が多い。洋の東西を問わず冥想フリークはいるもので、諸国の有名マスターを歴訪したり、場合によっては宗派も変えたりもしている。
(2)危険性
あらゆる冥想には、廃人になったり、精神障害になったりする危険な面も伴う。よって一人で自分勝手にやるのは危険。正師につくこと。
これは、冥想ではトランスを経由する場合が多いのだが、トランスとは無意識が顕在化した状態であるが、自分でそれをコントロールできるかどうかは、いろいろなファクターがからむ。自分で無意識をコントロールできなくなれば、廃人になったり、精神障害になったりする可能性が出てくる。そこで正しいマスターは重要である。出口王仁三郎の霊界探訪(霊界物語)などでも、独力でなく、神使に案内されながら慎重に進んで行ったもの。
行とは無意識を操作することだが、正しいマスターだけがそれをアドバイスできるのであって、マニュアルだけで進んでは一生を棒に振りかねない。密教系、古神道系、ソーマ・ヨーガ系などの本で、霊界で一生を棒に振ったらしき人を見かける記述を読むことがあろうと思う。