◎第一夜について
(2006-08-24)
カトリックの冥想プロセスに特徴的なものではあるが、神の観想を進めていくと、自分はすっかりダメな奴で、悪と罪に満ち満ちた者であるという、苦悩と困窮に追い詰められるものである。これは、神の認識の光に照らして自分を見つめると、自ずとそうなっていくものである。
もちろんそうした状態は、ノイローゼだったり、うつという病的な精神状態に過ぎないのか、それとも神との一致に進む途上の正統的な「暗夜」なのか見分ける必要がある。
カトリックでは、観想法が用いられているところが特徴的である。禅では観想法はなく、クンダリーニ・ヨーガにはあり、たとえば日本密教(真言、天台)でも月輪観など観想法がある。
第一夜は、感覚的な欲望の暗夜がテーマ。
まず神と合一しようとする精神的な愛の炎が絶えがたいほどに燃え上がらないと、感覚的、官能的なものへの誘惑を退けて、感覚の暗夜に入っていこうとする勇気が起こらない。
その勇気をもって、欲望を弱め、静めていくと、いつしか感覚的な暗夜を通過したことに気づく
第一夜に該当する詩句
『暗き夜に
炎と燃える、愛の心のたえがたく
おお幸いなその時よ
気づかるることもなく出づ、
すでに、我が家は静まりたれば』
(カルメル山登攀/十字架の聖ヨハネ/ドンボスコ社から引用)