◎知的理解の冥想
冥想道手帳の続き
『〔知的理解の冥想〕
どういうわけか、君は、生きる苦しみ、病気の苦しみ・老衰する苦しみ、死ぬ苦しみを持つ人間であると自分のことを思い込んでいる。
夢にも見たことのない素適な宇宙に君は、 今いるのに。
今ここで、君の知性を全身全霊の情熱を こめてフル回転させてみればいい。君は、
人間知性の絶対的限界を知る。そして、その絶対的限界の恐怖の中で、君は、君が、もともとなかったことに気づくだろう。その時、君は、夢にも見たことのない素適な宇宙である自分自身になっている。
君自身は、愛そのものだ。始めも終りもありはしない。
君は死なねばならない。妄想である君が死んだところに素適極まりない宇宙が悟りを開く。もっとも、その時には開かれるような悟りなぞ、どこにもありはしない。
君こそが、愛そのもの、人間そのものとしてあるのだから。
冥想修行は、君を次の三つの宇宙を旅せしめる。宇宙が三つもあるものかといって大笑いする不死身の君には、この先を読む必要はあるまい。火星で酒でも飲んでいたらいい。』
(冥想道手帳 MEDITATION WAY MEMOダンティス・ダイジから引用)
人には、必ず生老病死があるものだと信じ、そのとおりに生きていることが多い。だが、全然そんなことはなく、目くるめく素適な宇宙に君は今いる、とショックを与える。
人間知性の絶対的限界の典型は、哲学の極みや禅の公案。
代表的な公案に次の無字の公案がある。
『弟子が趙州禅師に「犬に仏性がありますか?」と質問をぶつけた。
趙州「無」。』
なぜそういう回答になるのかを何時間も何日も、知性を全身全霊の情熱をこめてフル回転させてみれば、人間知性の絶対的限界を知る。
その絶対的限界の恐怖の中で、自分が、もともとなかったことに気づく。本来の自己という、夢にも見たことのない素適な宇宙にいたことに気づくのだ。
それは、第六身体アートマンかもしれないし、人によってはその先の第七身体ニルヴァーナに届くかもしれない。
ここで唐突に『君自身は、愛そのものだ。』~『君こそが、愛そのもの、人間そのものとしてあるのだから。』と愛について語っている。
ここまでは、悟っていない人が知性によりどのように悟って行くかを実地に具体的に述べてくれているところであり、とても貴重な語りの部分。
ところが、悟りを開くのは宇宙であって自分ではない。自分が悟りを開くわけではない。(自分が宇宙となるという、体験とは言えない体験。)
最近非二元、ノンデュアリティを語る人が多いが、自分が死なない非二元、ノンデュアリティはあり得ない。自分の死を語らない非二元、ノンデュアリティは偽物。※自分の死とは自殺のことではない(念のため)。