◎無私の願望の実現
ヒマラヤ聖者の生活探求(霞が関書房)は、最近復刻されたようで、書店で見かけることが増えた。これは、チャネラーであるアリゾナのスポルディング(1953年没)による心霊的な世界観の著作。
キリスト教的な心霊観をバックボーンとして、霊界にブッダやクートフーミーやモリヤなど心霊オタクにはよく知られた心霊(大師)の登場する世界観を延々と述べるもの。こうした霊がかりの世界観が好きな方も多いが、そのような高級神霊を頂点とする世界観で本当の「やさしさを超えたやすらぎ」に出会えるというのなら、私はお勧めしないが、それはそれでやむをえないことだと思う。
スポルディングは、大師方の平和に満ちた世界観(啓示)に入れば、わざわざ坐禅を組んで三昧に入って大師方と同じ境地を発見し直す必要はないという考え方である。
みんなで超能力を開発しようとか、『「私は神である」という真理の内容を完全に悟りきってそう宣言すれば、どんな状態でもたちどころに癒える』と超能力志向だし、ヒマラヤツアーのエピソードでは、大師が思った瞬間に食糧はふんだんに現出するは、豪壮な建物は山中に突然出現するはで、真理を悟って邪悪でなければ、願望実現何でも思いのままという立場である。
ところが、私の見る限り、釈迦もイエスも、自分の肉体ですら「思いのままの快適な状態であることを維持し続けたから、それが真理を体現している証拠だ」などということは主張しなかったように思う。イエスが『今、ここが聖なる地である』というのは、身体に傷があったり、持病があったり、金や住居に困っていても、それでも本来人間には何一つ欠けることがない幸福そのものであるという意味だと理解している。
何か世俗の願望を叶えることが、人間にとって幸福であり、その幸福を得るためにはヒマラヤの大師たちの唱える真理を信じて、今の自分ではない別の『光輝く別の自分』になろうというのは、私の見方からすると危うい迷路に入りやすいルートであるように思う。
大方の人は、毎日の生活の中で思い通りにならない願望があって、その願望が実現しない苦しみというものを抱えているものだ。その願望を叶えようとして、ヒマラヤ大師や街のチャネラーの「神様」や新興・既成宗教の門を叩くこともあるだろう。
だからそうした人に、最初から「自分の願望を実現しようとして宗教的なものにアプローチすることは間違いである」などと反論してみせても、だれも聞く耳は持たないのであるが、「それはちょっと違うよ」とささやいておきさえすれば、いつかは気がついてくれることがあるかも知れないと思う。
真相はむしろ、願望にもいろいろあって、本当の自分の願望が何かを自分で気がつくためには、冥想などの宗教的トレーニングが必要であって、その結果本当の無私の願望が洗われ出てくる。その無私の願望こそがたちどころに実現する性質の願望である。これを指して大師たちは「想念は実現する」と宣言しているのだと思う。
ガラクタの劣情的願望の気ままな実現を保証する大師は、ちょっと違うのではないだろうか。