◎ジェイド・タブレット-外典-10-7
◎利他、死の修行の非社会性
密教修行者にあっては、他の人間をよりよく生きさせたいという利他の気持ちが根底にあるものだ。
チベット密教修行での最後のホーム・ストレートは、生起次第と究竟次第。生起次第とは、観想により自分が本尊になること。究竟次第は、究極を究めること。
ダライ・ラマは、これについて以下の説明をしている。
『
〇生起次第:空性に心を向け、死の8段階のしるしを観想して『本尊ヨーガ』を修める。
〇究竟次第:空性に心を向け、風を中央脈管に導き入れて、より深いレベルの意識をあらわにし、『本尊ヨーガ』を修める。
この二次第によって、あなたは仏陀の境地――――完全なる利他の状態―――に至る残りのプロセスをすべて修めることになります。』
(『ダライ・ラマ 死と向き合う智慧』地湧社P215から引用)
※本尊ヨーガ:本尊の観想を中心とした修行
本尊とは、そのシンボルはいくつかに分かれているが、アートマン、第六身体のことである。
究竟次第については、公開していない本が多いのだが、「チベット密教 ちくま新書 ツルティム・ケサン著 筑摩書房 P151」では秘密集会聖者流の究竟次第を明かしている。
それによると
1.定寂身
2.定寂口
3.定寂心
4.幻身
5.光明
6.双入
の6段階。
5の光明は原初の光。よってここで心拍停止、呼吸停止が起きるのだろうと思う。
6の双入は、ちくま新書では、ほんとうの光明と清浄な幻身を両方同時に成就させることなどと書いてある。だが逆転の雰囲気はない。
だいたい密教系、クンダリーニ・ヨーガ系の秘伝は断片的にしか公開されていないのであって、その理由は公開されることの弊害、悪用の害が甚だしいためだろうと思う。ここもそういう風に読んでおきたい。ダライ・ラマが、ここの説明で、空性を強調するのは、現世利益に陥ることを戒めるためだと思う。
さはさりながら、死ぬことは怖い。パンチェン・ラマ一世の十七偈にも「死の恐怖を克服する勇気」を祈っているが、一方ダンテス・ダイジは「恐怖の恵み」とも言っている。
サッカー・ワールド・カップでもそうだが、アディショナル・タイムで負けていて、その恐怖の真ただ中にあっても、勇気と冷静さを。
死の修行とは、実に現代人の想像を絶したものであり、弱肉強食ながら私権と法治が優先する本質のこの民主主義社会では、大いに誤解され迫害されがちな素地を備えている。
それでも真摯なチャレンジャーは少数派だがいる。
※臨終時に脈管を押さえつけること(チベット死者の書)
臨終時に喉の左右の動脈の動悸を圧迫せよと書いてあるのは、おおえまさのり訳チベット死者の書。ところが、川崎信定訳チベット死者の書では、『死におもむく者をうつらうつらさせる働きのある左右の両脈管の動悸の連続を途切らすように、しっかりと押さえつけねばならない。』(原典訳チベット死者の書/川崎信定訳P14から引用)
とあり、押さえつけるべきは、どうも動脈ではない。スリーパーホールドではないが、頸動脈を押さえつけると脳が酸欠になるので、意識清明にはなるまい。よって脈管の動悸を押さえつけるというのが正しいと思われる。ところが、イダー、ピンガラーという脈管は、エーテル体レベルなので、普通の人はそのような技はできない。これは簡単に書いているが他人の脈管内のルン(風)を操作せよということなのだろうと思う。神秘生理学的対応が求められるのだ。