アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

二重の夢で成る人生-2

2023-03-19 06:38:23 | 覚醒のアーキテクチャー

◎肉体の死と深い方の夢

 

人間は肉体が死んでもほとんどの人は悟りを開かない。それは、肉体が死んだとしても「起きて活動している時間帯の自分という夢」が続いていて、相変わらず「起きている時間帯も眠っている時間帯も稼働し続ける自分という夢」(深い方の夢)には気づかないまま死後の世界にいるということ。

 

チベット死者の書は、人間を悟りに導くプロセスの説明ということで一貫しているので、そういう実もふたもない説明の仕方はとらないが、実際はそういうことである。

 

死のプロセスにおいて、肉体機能停止直後に、すべての人が悟りである「原初の光」に出会うが、誰もがそれと認知できるわけではない。ごく一部の人だけが、「原初の光」を見る。

 

肉体機能停止後数時間で、エーテル体は崩壊。アストラル体は残るわけだが、Aさんが死んで、アストラル体がAさんのままかといえば、そうでなくA´さんになるらしい。アストラル体A´さんになったとしても大概の人は、「起きて活動している時間帯の自分という夢」だけを自分と思い込んで悟らないままで、あの世に生きる。

 

だが、その意識感とかあの世における見方、感じ方は、どこにいても中心太陽が見える(あの世探訪譚では、大概いつでも中心太陽(central sun)が見えると書いてあるものだ)ことからすると、肉体人間が、神を知らないという見方、感じ方とはまた異なるものかもしれない。

 

それにしても大悟覚醒する側は、七転生で大悟したとか、何百回も転生した後に大悟したということからすれば、大半の人が肉体の死後においても、悟りすなわち「起きている時間帯も眠っている時間帯も稼働し続ける自分という夢」に気づかないまま生まれ変わってくるのだと思う。深い方の夢には気づかないのだ。

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二重の夢で成る人生-1

2023-03-18 06:45:21 | 覚醒のアーキテクチャー

◎人生は浅い夢、深い夢

 

人間の脳は、映画のスクリーンであって、そこに自分を主人公とする映画が映し出される。

 

映画館を出た後、しばらくは映画の世界にまだいるような気分がするものだが、そのように自分は、自分を主人公とする夢の世界に没頭して生きている。

 

ところが、自分が演じる夢の世界は二重構造になっていて、「起きて活動している時間帯の自分という夢」と、「起きている時間帯も眠っている時間帯も稼働し続ける自分という夢」に実は分かれている。

 

最初の「起きて活動している時間帯の自分という夢」の中では、自分が主人公として活躍しているが、その夢を見ている者は完全に忘れ去られている。

 

悟っていない普通の人は、「起きて活動している時間帯の自分という夢」こそが人生だと思い込んでいて、それこそが喜びも悲しみもある人生だと思い込んで、何回でも生まれ変わりを繰り返す。

 

一方、「起きている時間帯も眠っている時間帯も稼働し続ける自分という夢」においては、その夢を見ている者は意識されている。

 

さて、「起きている時間帯も眠っている時間帯も稼働し続ける自分という夢」は、意識の隙間と呼ばれて知られている。

まるで映画という動画にはアナログでもデジタルでも隙間があるが、その隙間にこそ真実が隠されているかのように。

 

さてこのように人生は二重の夢見だ。浅い方の夢が停止した時に、深い方の夢に気づくことがある。それが悟りと呼ばれる。

 

人間に突然の悟り、急速な目覚めをもたらす手法はあるものだ。代表的なものが只管打坐だが、実際には、人生が嫌になって石を投げたら竹に当たった音で悟ったとか、石に蹴つまづいて悟ったとか、重い鍵束をガチャリと置いたら悟ったとか、黙って坐る黙照枯坐だけのワンパターンで悟るわけでもない。

 

また、突然の悟り、急速な目覚めをもたらす手法が強烈過ぎたり、起きるのが早すぎる場合がある。その結果、それに耐えられなかったり、精神障害になったり、自殺したり、脳がこわれたり、死んでしまうこともある。人はあまりにも長く「起きて活動している時間帯の自分という夢」だけを現実として生きてきたせいで、その夢がなくなると自分が誰だかわからなくなりさえする。

 

人は、「起きて活動している時間帯の自分という夢」なしで生きるのはむずかしい。だから突然の悟り、急速な目覚めをもたらす手法は、あまり一般的に用いられることはなく、むしろクンダリーニ・ヨーガ型の漸進的な段階的な徐々に進む手法が用いられることがある。

 

覚者たちは、突然の悟り、急速な目覚めをもたらす手法のことを、乾いた道、近道などと呼んで、ちゃんと承知はしているものだ。

 

人生を二重の夢、浅い夢と深い夢と見れば、深い夢が悟りであって、その意味では、誰もがいつでもどこでも悟りを生きている。ところが、自分が悟りを生きていることに気がつかないだけなのだ。真の現実とは深い夢の方だが、深い夢である「起きている時間帯も眠っている時間帯も稼働し続ける自分という夢」に気づくのは、なかなか容易ではないのも現実。

 

このような意味で、人は今ここで悟っている。自分が悟っていることに気がつくか、つかないかだけの差である。だから悟りに時間はいらないとも言える。

 

だからと言って、突然の悟り、急速な目覚めをもたらす手法が万人に有効とはいえない。

 

そうすると漸進的な段階的な手法一択かと考えがちだが、さにあらず。ダンテス・ダイジは、この時代、人類が存続するようなら禅が流行し、人類が滅亡するようならクンダリーニ・ヨーガが流行すると予言している。この禅は、只管打坐のことであり、突然の悟り頓悟の手法。冥想手法もあざなえる縄の如し。

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玄沙師備が石につまづいて悟る

2023-03-17 06:40:23 | 人と神の「実際のところ」

◎あわてふためき父を溺死させる

 

玄沙師備(835-908)は、福建省の漁師の家に三男として生まれた。長じて、海で父の漁業を手伝っていた。玄沙は、漁業は殺生でもあり、気に染まない生業だった。ある日、漁の最中に父が足をすべらせて水に落ちた。玄沙はあわてふためき、父を助けてあげることができず、結局溺死させてしまった。

 

この事件をきっかけに玄沙は出家し、雪峰を師として禅の修行に打ち込むこととなった。だがなかなか悟りを開くことができなかった。

 

※備頭陀:玄沙のこと。

『雪峰は、ある日おどしをかけた。

「備頭陀よ、そなたはこれまで、いちども諸方の老師を遍歴していない。ひとわたり見てまわっても、差しつかえあるまいに」

 

こんなふうに、四度も先生(玄沙)は、和尚に熱心に説かれると、和尚の言いつけ通り、旅仕度するほかはない。

 

すべてが終って、ちょうど嶺上にゆくが、石ころにつまずいて、突如として大悟する。おもわず、さけぶのである。

「ダルマも来ず、二祖も受けとらぬ(達摩不過来二祖不伝持)」

 

さらに、大樹にのぼって、江西を眺めていう。

「さあ、おまえをどうしてくれよう(奈是許你婆)」

すぐに、雪峰にひきかえす。雪峰は、かれがかえってくるのを見て、たずねた。

「きみを江西にゆかせたのに、何でそんなに早くかえってきたのか」

「いって来たのです(到了也)」

「どこにいったのだ」

先生はくわしく、前の事件をはなす。雪峰はその力をみとめて、かさねて入室の話をしてきかせる。

先生は、瓶の水をうつしかえるごとく、あまさず機微をつかんだ。 』

(純禅の時代 続 祖堂集ものがたり 柳田聖山/著 禅文化研究所P221から引用)

 

自分にしっくりこない職業に就いて世過ぎをするということはある。だが、もっと大きな力が働いて、人を本当に生きるべき人生行路に導いていくということはある。

 

それは、最初は父の溺死に無力だった自分であり、後には1個の路傍の石ころだった。

 

準備ができていたから出家し、準備ができていたから悟った。

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慧可断臂異説

2023-03-16 06:27:08 | 只管打坐neo

◎ゲゲゲの女房など

(2010-04-03)

 

上野の国立博物館のグッズ売り場は、スミソニアンやニューヨークのメトロポリタン・ミュージアムみたいに明るく開放的な売り場に変わってしばらくたつ。そこでは色紙の雪舟の慧可断臂図を手にとって買おうか、買うまいか迷うことが何度かあった。

 

慧可断臂図の事情を知らない人にとっては、縁起でもない図柄であるからである。

 

達磨の高弟であった慧可は、その不安な心を差し出せと命じられて、自ら片臂を切って達磨に呈したところ、達磨の髄を得たと高く評価された。これがその経緯の定説である。

 

これには異説もある。

『『続高僧伝』の慧可伝の附記によると、慧可はかつて賊に臂を切られたが、観心の法によってよく苦痛を御し、自ら瘡口を火で焼き、止血して帛布でつつみ、平日と同じように村里に乞食していたと言い、

 

後に彼と同じように賊に臂を切られた曇林が、苦痛のあまり一晩中絶叫するのを看護し、曇林のために乞食して養生せしめたとき、曇林は初めて慧可の片臂なのに気付き、深く驚いて相許した言っており、これが後に無臂林と呼ばれるようになる事由である。』

(講座禅第三巻(中の中国禅宗史P15-16)/柳田聖山/筑摩書房から引用)

 

この異説の方が本当らしいと思う。定説の方は、修行のやりすぎでノイローゼみたいになって臂を切ったみたいな印象であって、またいかにも臂の貢ぎ物の代価として印可したみたいな具合でどうかと思うところがある。

 

慧可は、禅・只管打坐型冥想の修行者であるが、「観心の法」というクンダリーニ・ヨーガの技も使えた。これからの核戦争の後は、放射能による肉体の障害を「観心の法によってよく苦痛をコントロール」して、生き延びる場面もあるのだろう。

 

ゲゲゲの女房の夫君水木しげるは、ニューギニアで敵機の爆撃により左腕を負傷。左腕を麻酔なし手術で切り落とした。彼は、慧可と同様に片臂なのをさほどコンプレックスには感じていない。

 

このあたり、「自分のことがどうなろうとそんなことは知ったことではない」という悟った人に共通した恬淡さがある。金だ、体面だ、ファッションだ、そんなのは「本当に生きる」ということと何の関係もない。本当の幸福とは、金に余裕のある生活や外面の良い暮らしなど個人の願望を実現することだと思い込んでいる人にこんなことを言っても理解されないだろう。

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空虚の本質-2

2023-03-16 06:18:35 | 人と神の「実際のところ」

◎その心を捜しているがみつからない

 

さらにOSHOバグワンは、空虚について説明するが、そのおおよそは以下。

 

  1. 瞑想の中で、時に一種の空虚が感じられることがあるが、それは、本物の空虚ではない。それは、数秒の間の思考の停止である。だがそれも新たな思考である。よってそれが起こっても、何もせず、ただ待つ。
  2. 最初のうち、それはどうしても発生するが、何もせずただ待つ。
  3. このことについて、OSHOバグワンは、禅語録無門関第41則の次の話を例として挙げる。

      (参照:ヴィギャンバイラブタントラ(7光と闇の瞑想)/OSHO P292-295)

 

洞窟の中で、達磨は、面壁で坐禅していた。しんしんと雪の降る中、後に最初の弟子になる慧可が切断した臂を持ってやってきた。

慧可「私の心は安心していません。師匠、私の心を安心させてください。」

達磨「お前の心をここに持って来なさい。そうしたら安心させてやろう。」

慧可「その心を捜しているが全然みつかりません。」

達磨「お前は既に安心した。」

 

 

さて、雪の降る中自分の臂を切ってマスターに見せに来るというのは、いかにも凄惨な狂気の図ではある。だが、生死を越えるとか逆立ちしてブリザードを耳で見るとかという次元であれば、そういう話は出てくるものだ。

またグロな話が嫌いな人向けには、そもそも慧可は他の弟子と修行中に強盗に臂を斬られてしまっていたという話もある(無臂林)。

 

さて「私の心」が、OSHOバグワンの言うところの本物ではない「一種の空虚」にあたる。達磨は、慧可に対して「一種の空虚」をも棄てなさいと示して、慧可は、本物の空虚を得たのだ。

 

その機微がわかる雪舟とそれを国宝として伝承してきた日本の禅者の系譜に対してはただリスペクトあるのみである。そしてそれを例として引いて来るOSHOバグワンも禅マスターである。

【雪舟 慧可断臂図】:達磨も慧可も眼球が上を向いている。

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続瑞能神歌の真偽

2023-03-15 21:00:00 | 古神道の手振りneo

◎早すぎる水爆登場

(2011-03-27)

 

続瑞能神歌は、未曽有の大地震である東北関東大震災と福島第一原発の事故のダブルパンチに見舞われた今見てみると、ひょっとして当たっているかもなどという疑念もよぎる。そこで改めて真偽を真面目に検討してみた。

真偽と言っても、出口王仁三郎作ならば真で、そうでなければ偽ということ。

 

そもそも私が続瑞能神歌の存在を知ったのは、仲矢伸一の著書だったか、泉田瑞顕の著書だったかはっきりしないが、出口王仁三郎没後にいくつかの予言があって、出口王仁三郎の意向である(憑依した?)予言とされるものが何本かある。それらの一つが、続瑞能神歌であると思う。

 

なお日月神示は、その格調が大本神諭や、瑞能神歌などとはまったく異なるものなので、信用はしていない。

 

さて、続瑞能神歌は、1947年の発表とされる。出口王仁三郎の逝去は1948年1月。

 

続瑞能神歌の問題箇所の最初は、

「花のお江戸は原爆や 水爆の音草もなく」

最初の水爆実験は、1952年1月。よって、1947年の段階で水爆の存在が世に知られていたかどうかが問題となる。

 

新型兵器というものは、原爆もそうだが、実際にそれが使用されるまでは徹底的にその新型兵器の存在すら秘匿するもの。せいぜい、「SF小説には出てくるかもしれないような危険で無慈悲な新型兵器を敵国が開発している」という形のデマを飛ばすことで、その実在がほのめかされる程度である。

 

よって1947年の段階で、水爆のことが、大本関係者に知られているとは考えにくい。

 

続瑞能神歌の次の問題箇所は、

「残るは三千五百万 赤き自在天主の旗のもと」

日本一億人の三分だから、多めにはじいて3千5百万人と見たのだろう。しかし出口王仁三郎は、逝去直前の頃には、三分とは3割でなく、3%であるとつぶやいている。よってこれは出口王仁三郎の見方とは一致しない。

 

続瑞能神歌のもうひとつの問題箇所は、

「血潮に赤き統一も 一年余年の殺りくも」

出口王仁三郎のつぶやき(新月の光/木庭次守編)によれば、日本の立替は、半年であり、1年余年というのは、これと合致しない。

 

このように子細に見ていくと、続瑞能神歌の真偽は怪しいと言わざるを得ない。

誰か神がかった人の霊言をまとめて、箔をつけるために出口王仁三郎作と称したのだと思う。その時にその霊能力者の見ていた世界が地獄に近い霊界であればあるほど、悲惨な未来を予見することになるもの。

 

※(2023-03-15)本物の予言者は、現世を予言するものであって、霊界である地獄を予言するものではない。

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空虚の本質-1

2023-03-15 07:21:24 | 人と神の「実際のところ」

◎ただひたすら空虚になること

バーナデット・ロバーツは、自分がなくなってから、しばらくその取扱に苦しんだ。

OSHOバグワンに弟子から、自分がなくなる空虚についての質問がやってきた。

『瞑想の中で、「私」が一時的に落ち、内側に空虚が生じることがあります。でもその空虚は、「未知」の訪れによって満たされることがなく、私は挫折感を味わいます。 どうしたらその空 虚とともに生きられるようになるでしょうか。』
(ヴィギャンバイラブタントラ(7光と闇の瞑想)/OSHO P287から引用)

OSHOバグワンの回答のあらましは、次のようなものだ。

1. 空虚と未知は同じもの。

2. 最初エゴ(自己)が消え、次にエゴの不在が感じられ、更に次に真の空虚になる。

3. このエゴの不在で生じた内的空間が「神」である。

4. 「神」は到来したのではなく、もともとそこにあったが、エゴという膜で発見できなかっただけ。それが今ここ。

5. だが欲求すれば、空虚は失われる。
『だからけっして、「どうしたら、空虚とともに生きることができるか」などと尋ねてはいけない。それは真の質問ではない。ただひたすら空虚になることだ。あなたはまだ空虚ではない。 
いったん空虚とは何かを知ったら、あなたはきっとそれを愛するだろう。それはエクスタシーに満ちている。それはもっとも美しい体験だ』
(上掲書P289-290から引用)

6. 空虚は最奥の中心であり、一方あらゆる行為は表層にある。たまねぎの皮をむいたら最後は何もないというシュンニャの例えがこれ。

7. 空虚は源泉なので、これに対して「神や神的な力やエネルギー」が降りてきてほしいと思うとエゴが復活する。神と言う言葉は神とは別物。

ここまで単純明快に方向性を示してくれれば、エゴがなくなったバーナデット・ロバーツも山に籠ったりして苦悩と混乱と麻痺の数か月を過ごす必要がなかったかもしれない。

まことに、悟っている導師、マスターの存在は貴重なものである。

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二種類の人工地震

2023-03-14 03:16:37 | 覚醒のアーキテクチャー

◎地震兵器とみんなが悟る時代

 

二種類の人工地震について、出口王仁三郎が予言している。

 

一つは巨大地震が起こると時々噂になる地震兵器による人工地震。これは、とある国が地震兵器のスイッチを押しさえすれば地震が起こるわけではなく、神様が認めないと起きはしない。

 

関東大震災後まもなく詠んだ歌。

関東の地震に勝る人造の

    地震治むる神の権力

〈霊界物語第37巻十章/出口王仁三郎〉

地震兵器で関東大震災以上の地震を起こそうとする勢力もあるが、神様が止める。

 

なお人工地震と言えば、核実験等の原因による人工地震も学会では知られている。

 

もう一つは、世の中に段々と神を知る悟った人が増えて来て、既成宗教に批判が猛烈に強まる時期がある。その既成宗教側の動揺を人工地震と呼んでいる。

これは、大正時代にそんなことを言ってもまずわかる人はいないので、とてもあっさりと記述されている。

 

悟った人が増えて、既成宗教に今まで馬鹿にされていたということで、宗教反対論を大勢で繰り広げるなど、どんどん風当たりが強くなって、まるで地震のようだということ。既成宗教のシンボルである聖なる壺も、人工地震が起きると割れてしまう。

そんなことは、今は夢想だにできないが。

 

出口王仁三郎の裁判記録。問が裁判長、答が出口王仁三郎。

『●争点 霊界物語の第三十八巻の歌「千歳経し…」

 

問 昭和八年四月十日、霊界物語の三十八巻の第四版を発行するに当つて、其の九十四頁に、

  千歳経し聖の壷も地震の

  荒ひに逢はゞもろく破れむ

  つがの木の弥つぎつぎに伝はりて

  宝の壷もひゞぞ入りぬる

 是はどうぢや。

 

答 是は、前にも申上げてあるから、或は二重になるかも知れませぬが、又申上げますが、仏教が渡来してから千年以上になります。「千歳経し聖」と云ふことは基督教にもあります、聖徒と書いてひじりと読まして居る。総て仏教では坊さんを皆な聖と云ふのです、此の問言ひましたやうに、

  初雪や高野聖の笈の色

 詰り、坊主のこと、兼好法師の徒然草には、京都の「しんせい」院に坊主が居つて、其の和尚が木餌上人やと言うて居つたのに、それはおかしいと思うて、木の葉ばかり食つて居るのに不思議やと思うて、小坊主が床下を見たら、さうしたら、米の糞があつたから、是は「こくむそう」聖やと云ふことが書いてありますが、それで聖と云ふことは予審や何かで陛下のことのやうに言はれ、さう云ふ意味に取られましたけれども、是は決してさうでない、仏教の坊さん或は基督教の宣教師などを皆聖と云ふのでありまして、「聖の壷」と云ふことから、……壷は総ての局部です、仏教を統一する所ならば──真言宗なら真言宗は高野山とか、或は天台宗は叡山とか、其処の房は総て局と云ふ、局は都房とも言ひ、漢字で本当の壷を書いたので……。

 

問 地震は何だ。

答 地震と云ふことで、是は本当の……。

問 房と云ふのは局と云ふのか。

答 詰り教務所みたいのものです、宗教を本当に統括する所……。

問 教務所がどうしたと云ふのか──。

 

答 ……のやうなものです、総括するやうな意味です。

 それが、「壷も地震」と云ふたらば、地震の意味ですが、信者が目覚めて来て、今日迄の所は、坊主が巧いことを言うて善男善女を弄らかして、甘い汁を吸ふたりして居るけれども、段々文明の世の中が進んで来て、若い者──今日の若い者が進歩して真理を悟つて来ると、今迄馬鹿にして居つたと云ふので、皆一緒くたになつて宗教反対論を唱へて来ることは、是は人造地震です。

 其の地震が揺れば、直ぐに破れてしまふと云ふ、皆が悟つて来たら直ぐに駄目になると云ふことを言うたのであります。

 其の意味を書いたのであります。

 

問 其の次は「つがの木の云々」は。

答 それも同じやうな意味で、是は、私が丸山貫長と云ふ人に依つて──「つがの木」は「つぎつぎ」と云ふことの枕言葉で、「つがの木の弥つぎつぎに」と云ふのは、是は真言宗の坊さんの丸山貫長と云ふ人に聴いたのですが、「千年余りも高野山は伝つて来たが、併し、其の当時には高野山にも仏法僧と云ふ鳥が居つて、仏と法と僧と鳴いて、三宝鳥と言つて三つの宝の鳥が居つて仏法僧と鳴いた。処が今日は坊主が女を置いたり、高野山の女禁制の山に向つて上げたり色々なことをして穢れ切つて居るので、それで仏法は動かないが僧──一つの宝、それに罅が入つてしまつた」と云ふのです。

 それで、千年も続いて来たのが、今日は斯う云ふ具合に仏教にも罅が入つて来たと云ふ意味です。

 

問 仏教のことを言ふのか、高野山のか──。

答 高野山の……丸山貫長が高野山の話をして、「仏教がさう云ふやうになつて居る」と云ふのです。

 それは丸山貫長の話に依つて作つた歌です。』

(大本史料集成 3 第2部 第二次事件関係 第2章 裁判所資料 第2節 地裁公判速記録(出口王仁三郎)P458-459から引用)

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冥想テクニックと自己(エゴ)

2023-03-13 06:56:21 | 時代にFace it

◎すべてを棄てる、すべてを明け渡すこと

 

OSHOバグワンは、東洋人にはすぐに冥想テクニックを与えるが、西洋人には、すぐには冥想テクニックは与えず、すべてを導師であるOSHOバグワンに明け渡せと指図する。

 

ところが、西洋人には、明け渡しはまずできない。なんとなれば、西洋的精神には師と弟子という概念がなく、導師を想像できない。つまり人間が他人に明け渡すなど想像もできないからである。

 

OSHOバグワンの見るところ、西洋の教育、文化、文明はすべて自己(エゴ)の強化と完成に目標を置いている。また西洋の心理学の基本線も自己(エゴ)の強化であって、35歳までにエゴの極み、すなわち一点集中のエゴ、結晶化したエゴを完成させた後、ようやくそれを明け渡すことができる。

 

さらにエゴが未完成な西洋人に冥想テクニックを与えると、エゴがテクニックを悪用し、更にエゴを強化するだけになる。だから、彼は、すべてを棄てる、すべてを明け渡すことができない西洋人に冥想テクニックは与えない。

 

以上参照:ヴィギャンバイラブタントラ(10空の哲学)OSHOP70-77。

 

この話は、日本人の教育や世論誘導の方向性を見るとまさに混乱の極みであることが見てとれる。自己の強化と自己の明け渡し施策が混在しているのである。

 

もともと日本人の精神は禅的であり、花鳥風月自然ともに生き、自然と共に死んで行くのがあたり前の姿であり、神仏習合ながら精神的指導者としてどのコミュニティにも仏僧がいた。徒弟制度の中でも、また芸道、武道、書道、華道、茶道、仏道、神道には、普通に師匠がいるものであり、その土壌で育っていけば、師にすべてを明け渡すことはあたりまえのことである。それはメリット・デメリットとは無縁の価値構造、精神構造であった。

 

そこに戦後、人は平等とか、個人の権利とか、能力主義とか、自己実現・自分に合った職業選択とか、不道徳でもスーパーリッチがよいとか、エゴ強化を目的にした西洋的思想施策が怒涛のように入ってきて、国民全体の貧困化と相俟(ま)って、いまや日本人の精神は混乱を極めている。

 

すべてを棄てる、すべてを明け渡すのもう一つの実例は、戦中の滅私奉公であって、これについて左翼を中心にネガティブ・キャンペーンが行われ続けているが、人間の真の幸福をニルヴァーナからの展開と見れば、その冥想修行のプロセスの中で、師への絶対服従は必要なものだ。

 

冥想修行の中で、スピリチュアル・エマージェンシーとか、完全に精神がオープンになって善にも悪にも振れる危険な瞬間はあるものだ。そういったタイミングにおいてこそ師は必要なものだ。

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第三の目の技法

2023-03-12 06:54:37 | 覚醒のアーキテクチャー

◎何かまずいことが起こりそうだと感じたら中止する

 

冥想では、閉眼と開眼と半眼がある。半眼ではエネルギーが体内で還流するが、閉眼と開眼では、エネルギーは流出あるいは体外と交換する。

 

第三の目と言えば、1ドル札だったり、石屋のシンボルを思い浮かべることが多いが、インドや西洋だけの特許ではない。第三の目は誰にでもあるからである。

 

OSHOバグワンは、第三の目について重要な言及をしている。

曰く、

  1. 両目は、肉体にある。第三の目は、アストラル体(sookshm shareerスクシュマ・シャリール)にある。

 

  1. エネルギーが肉体にある時、両目は物質ばかり見るが、第三の目で見る時は、相手の見え方は肉体でなく、アストラル体、魂、霊性になる。

 

  1. 第三の目が機能して初めて、別次元に入れる。

 

  1. 見ることには、エネルギーが要る。そのエネルギーが両目で働けば、肉体の両目が見えるが、第三の目は見えない。そのエネルギーが第三の目で働けば、第三の目は見えるが、両目は見えない。

よって、そのエネルギーを第三の目に転移させれば、「第三の目」は開く。

一点を見つめて両目を静止させれば、そのエネルギーは両目に流れず、どこかへ行こうとする。第三の目の位置は、両目の間で深さ半インチほどのところだが、両目に近いがゆえにそのエネルギーはひとりでに第三の目に流れる。

 

  1. 第三の目が開けば、他人の死期が見える。怒りなどのオーラが見える。

 

  1. 両目が停止した場合で、そのエネルギーが噴出して頭蓋骨の第三の目部分に穴があくという事故もある。チベットでは、そのエネルギーを通りやすくする外科手術もあった。

 

  1. アストラル体が見えれば、それだけでよいということではなく、アストラル体が死ななければ、輪廻転生というカルマから抜け出せない。これは、誰でも肉体が死ねば悟れるということではないのと同じ。

 

(参照:ヴィギャンバイラブタントラ 第三巻/OSHOP231-244)

 

だが、本当に両目を静止させただけで、第三の目が開くような代物でないことは皆もよくご承知のとおり。また、素人がそういうことを見よう見まねでやった場合、頭蓋骨に穴が開くなど死の危険もある。だから弟子の行動にあまり興味がないようなOSHOバグワンですら、『何かまずいことが起こりそうだと感じたら中止する』と警告を発している。

 

第三の目とは、霊能力者の目つきは、恐ろしげでこわばっている程度の軽いものではないのだろう。また第三の目が開きさえすればよいとも言ってはいない。悟りとは、第三の目の位置するアストラル体の死の先でもある。アストラル体には天国も地獄もある。

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高熊山で何があったか

2023-03-11 07:08:58 | 浅い霊感から神人合一まで

◎出口王仁三郎の悟境

出口王仁三郎の悟境を探っていくと、明治31年の2月の28歳の時に、高熊山に一週間の冥想修行を行った事績に突き当たる。クンダリーニ・ヨーガ的に見れば、出口王仁三郎は六度死んだが、その一回目がこれなのだろうと思う。

その際に大神(天御中主神)を目撃したのか、あるいは神人合一の体験をしたかどうかは、霊界物語の本文中には出てこない。感覚の蕩尽、意念の断滅だったとは書いてあるが、松岡など神使に導かれ、多数の高級神霊に出会ったとは書いてあるが、肝心のところは書いておらず、「まことかたればきくひとはなし (宣長)」とはぐらかしている。

高熊山の修行直後の心境としては、
「我は空行く鳥なれや
  ○○○○○○○○○○
  遙かに高き雲に乗り
  下界の人が種々の
  喜怒哀楽に捕はれて
  身振り足振りする様を
  我を忘れて眺むなり
  実に面白の人の世や
  されどもあまり興に乗り
  地上に落つる事もかな
  み神よ我と倶にあれ」
が残されているが、これだけでは、どういった境地かわからない。

そこで、歌集「霧の海」には、霊界物語より踏み込んだ所感が述べられている。たとえば、

天(あめ)もなく また地(つち)もなく われもなく
有漏路無漏路(うろぢむろぢ)を超越して居り

霊魂の力一ぱい天地(あめつち)に
いやひろごりてめぐりにめぐる

天にもあらず地(つち)にもあらず現(うつつ)にもあらぬ世界に
われ生く心地す

これらは、確かにそうなのだが、個人と神との逆転の視点なく、見ている自分が残っており、今一つなのだ。

そこでさらに他の彼の著作を捜してみることにする。

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シルヴィウス溝

2023-03-10 17:02:42 | 究極というものの可能性neo

◎臨死体験の再現

(2018-04-08)

 

側頭葉にあるシルヴィウス溝を電気刺激すると、臨死体験が起きるなどと、メルヴィン・モースが言っている(NHKの立花隆の「臨死体験」という番組でそうしゃべっているシーンがある)。

 

臨死体験というのは厄介なもので、生還してこそ臨死体験であり、戻らなければ逝去である。臨死が生還になるための条件は厳しく、迅速な予後が必須である。

 

脳を物理刺激していろいろやってみるのは昔からある。ペンフィールドは、意識がある患者の頭蓋骨を開けて脳のいろいろな部位を刺激して何が起こるか見てみたし、スタニスラフ・グロフはLSDを与えて実験したりした(それが合法だった国でやりました)。

 

臨死体験あるいは、死の体験がキーポイントになることはチベット密教に限らず宗教シーンでは知られている。

 

チベット密教では、アジナー・チャクラの重要性に神経質になるあまり、額の中央の何センチか奥を金属器具で刺激するという技もあった。

 

脳のどこかを刺激する。それは電気あるいは物理刺激かもしれないし、ソーマなどの薬物刺激かもしれないが、臨死は起こせるものかもしれないし、起きないかもしれない。

 

呼吸停止、脈拍停止、脳死は起きるかもしれないが、脳刺激からそこに至るまでの仔細を意識清明のまま隈なく感知できていれば何が起こったかを理解できるだろう。

 

だがその感受性と冷静さ、そして生還できるという運がなければ、臨死体験において体外離脱した、トンネルを抜けた、天国の花園を抜けたなどというレポートを出してくることは叶わない。まして大悟覚醒をや。

 

臨死体験というと低俗心霊ネタに分類されることが多いのかもしれないが、道教の慧命経では、イラスト入りで人が体外離脱し、中心太陽に飛び込む様が描かれている。臨死体験は、競泳に例えればプールの縁に腰かけただけだが、腰かけるのは、物理刺激でできるかも知れないが、完走できるかどうかとは全く別物なのである。

 

泳ぎだしたが、ゴールとは全く違った方向に行ったり、プールの底に沈んでしまったり、スタート地点から動かなかったり。

 

これについて証明、証明というが、人が臨死を試せるのは、その肉体と脳に与えるダメージを考えるとせいぜい一回。証明は再現して初めて証明なので、再現などできないから一人の人間で証明することなどできない。

 

六度死んだ出口王仁三郎など例外中の例外である。

 

それは危険極まりないが、人間最奥の秘密もその先にしかないのだと思う。

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臨死体験での人生回顧

2023-03-10 16:59:03 | 冥想アヴァンギャルドneo

◎見ることでちりあくたを浮かび上がらせる

(2011-10-15)

 

人には堪えられる出来事と堪えられない出来事がある。死のプロセスにおいてはそれに向き合わねばならないシーンがあることが知られている。

 

これは、臨死体験でのパノラマ現象。この人の記憶の遡行は今生だけにとどまった。

 

『7 人生の回想

 

「その光の存在は私を包み込み、私の人生を見せてくれました。これまでしてきたことをすベて見て、反省するわけです。中には見たくないこともありますけど、みんな終わったことだと思えば、かえってほっとします。とくによく憶えているのは、子供のころに、妹のイースター・バスケットを横取りしてしまったことです。その中のおもちゃが欲しかったものですから。でも、あの回想のときには、妹の失望やくやしさを自分のことのように感じました。

 

私が傷つけていたのは私自身であり、喜ばせてあげていたのも、やはり私自身だったのです」』

(臨死からの帰還/メルヴィン・モース、ポール・ペリー/徳間書店P7から引用)

 

カルロス・カスタネダは、臨死体験ではなく、その冥想修行の中で、人生に別れを告げるという修行をやらされた。彼の師匠であるドン・ファン・マトゥスは「自分の人生を反復すると、ちりあくたが残らず表面へ浮かび上がって来る」と説明した。

 

良かったこと、悪かったこと、なつかしかったこと、恐怖におののいたこと、自分の邪悪に片目をつぶったこと、自分の無力さをかみしめるしかなかったこと、などなどいろいろあるだろう。

 

この引用文では、妹のことを自分のことにように感じたとしているが、この体験のような修行をカルロス・カスタネダはあらゆる愛着と別れを告げる修行としてやらされたのだ。

 

修行が深まれば深まるほど、自分の見たくないものに直面させられることになる。人生も老いれば老いるほど見たくなかったものを見せられるのに似ている。

 

パノラマ現象で人生回顧させられると言っても、見ている人の感受性の深浅高低により、その体験の評価には、実はかなりのバリエーションがあるのではないかと思う。浅い人は浅くしか見れないし、深い人は深く見るのだ。 

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最初の4つの身体と統合失調症

2023-03-10 16:54:09 | クンダリーニ・ヨーガneo

◎私たちも軽度の統合失調症

(2013-03-29)

 

OSHOバグワンは、最初の4つのボディに対応する冥想技法を当てている。曰く、

肉体からスタートするのは、ハタ・ヨーガ

エーテル体からスタートするのは、マントラ・ヨーガ

アストラル体からスタートするのは、バクティ・ヨーガ

メンタル体からスタートするのは、ラージャ・ヨーガ。

 

(※ボディの違いを問題にするのは、クンダリーニ・ヨーガであり、只管打坐ではない。)

 

これら4ボディは、OSHOバグワンに言わせると水平的であり、第五身体のコーザル体に至るところが垂直移動となる。つまり最初の4つのボディ内での移動は、水平移動だから横超であり、古代ギリシアの壺絵では、トビウオ(水平にしか飛べない)として揶揄される動きにすぎない。

 

さらにOSHOバグワンは、第一身体から第四身体では、心は下方を向いており、上方を向かない。この状態で、心身のバランスが保たれている。ところが、第四身体(メンタル体)から先を目指す(第四身体からの跳躍)時、はじめて上方を見る(アジナー・チャクラを見る)。

 

OSHOバグワンは、初めの4身体を超える前に上方を目指してはいけない。というのは、他のボディは下方に向いているのに一部のボディが上方を向いているということになると、統合失調症を起こしやすいからだとする。

 

そういう人には中心がない。そこでOSHOバグワンはダメを押す。私たちもそんなものだ。統合失調症と私たちの差は社会に適応しているかいないかの差があるだけだ、と。

(参考:秘教の心理学/和尚/学研P158-164)

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第三の目を開く

2023-03-10 16:45:25 | 超能力・霊能力neo

◎それなりの医学

(2006-07-12)

 

ロブサン・ランパは、トゥルッリクという活仏の生まれ変わりと認定された人物であり、人為的に額の中央にとがった金属で穴を開け、第三の目(アジナー・チャクラ)を外科手術で開眼させられた人物である。この本を読むまでは、怪しげな呪術者が無理やり額に穴を開けて、おそらくはエーテル体のアジナー・チャクラを開けているのではないかと想像していたが、この事例は活仏に対して、チベット国立医学研究所が正式に手術しているものであった。

 

要するに、むやみに相手を選ばずアジナーを開眼させているのではなく、チベット医学の根拠に基づいて、精神的に霊的に、準備のできた者に対してだけやっているのである。アジナーが開眼すると、相手の思念がわかり、相手の前世もわかり、今後の運命もわかる。そうした一種残酷な物の見え方に堪えうる者だけに対して手術しているという印象を持った。手術後も3週間以上の安静を行ってアフターケアもしっかりしている。それなりにちゃんとした科学なのである。

 

逆に、交通事故か何かで、前額部骨折や前額部穿孔になった人が、たいがい相手の思念がわかり、相手の前世もわかり、今後の運命がわかる状態になるということはないので、賢明な現代人諸氏は、真似することはないだろう。

 

ロブサン・ランパは、後に先代のダライ・ラマに頼まれて、中国からの使者のオーラを見てその思念を報告しなさいと命じられた。ロブサン・ランパは、「自分自身で、相手の思念や、相手の前世や、今後の運命を見る能力のない人間がそれを知ったところで意味がない」と考えていたので、ダライ・ラマの命といえども見たことの一部しか述べなかった。

「あの人々は邪悪なる意図を持っています。彼らの霊気の色は不実を示しております」とだけ。

 

最近、他人の前世を見てくれるという触れ込みの人が多いように聞くが、本当に前世を見たのでしょうか。前世が見れるならば、きっと今後の運命も、今の想念も見れる力量があるのでしょう。

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