唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

鳳翔隴右節度使 その1

2012-05-02 10:43:02 | Weblog
・鳳翔府は元岐州であり、京兆府の西隣となり、隴右道・河西道への入り口となる要地である。
・至徳元年[756年]扶風郡より鳳翔府と改名、至徳二年[757年]には西京が置かれた。
乾元二年[759年]には防禦使が置かれ。上元元年[760年]には興鳳隴節度使になった。
節度使は崔光遠など短期で交替し、永泰元年[765年]に澤潞節度使李抱玉が兼任するまでは
軽量な扱いを受けていた。その後吐蕃防衛の拠点として重視されていった。
・大暦年間、十二年[777年]に卒するまで抱玉は河西隴右副元帥として鳳翔を拠点とし、
河中郭子儀とともに重きをなした。
・その後幽州から来た朱の兼任となったが、建中三年[782年]の弟朱滔が河北で叛すると
解任され、宰相張鎰が赴任した。
・建中四年[783年]朱が軍乱に乗じてが京師で叛し、宗皇帝は奉天城に逃れて籠城した。
鎰はこれを救援しようとしたが、將士はの元部下であったので乱し殺され、李楚琳が自立した。
しかし楚琳は唐朝有利とみて側には立たなかった。
・興元元年[784年]乱の平定とともに楚琳は帰順して入朝し、副元帥李晟が節度使となった。
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劍南節度使 西川節度使 その8

2012-05-01 22:19:28 | Weblog
・大順元年[890年]より王建は次々と諸州を陥とし成都を包囲していった。従来型の武将の敬瑄
に比べて、蛮族の支持を得て戦乱に長じた建は優勢であった。
・大順二年[891年]招討使韋昭度は戦乱の悲惨な状況を懼れて両者の和を図ったが、優勢な建は
これを逐って征討を続け、敬瑄は令孜と共に降伏した。
・景福元年[892年]最後まで抵抗を続けていた彭州を陥し、晟は戦死した。景福二年[893年]
建は敬瑄・令孜を殺し永平・威戎を廃して西川を統一した。
・乾寧元年[894年]は東川顧彦暉に侵攻し、乾寧四年[897年]これを制圧した。
・天復二年[902年]朱全忠の鳳翔李茂貞攻撃に乗じて、山西方面を攻撃し茂貞領を奪った。
・天復三年[903年]荊南成汭の敗死に乗じて蘷忠萬施州を奪った。
・天祐年間[904-907年]に入ると鳳翔茂貞を対全忠対策のため支援し同盟を深めた。
・天祐三年[906年]には金州を攻撃馮行襲を逐ったが奪回された。
・全忠の自立に対抗して建は蜀を建国し皇帝となった。
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