唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

西川 劉闢の乱

2023-01-15 08:19:26 | Weblog
韋皐は奉天の乱後劍南西川節度使となり、永貞元年に卒するまで20年間西川を統治しました。軍備を強化し南詔と同盟して、吐蕃を何度も大破してその脅威を除きました。領内に重税を課し、麾下の官僚や軍人の待遇を良くし、幕僚達と朝廷との交流を行わず半独立国の状態に置きました。姑息な德宗皇帝はその功績を評価して放置していました。

永貞元年6月
韋皐は重病となり、麾下の劍南支度副使劉闢は京師に至り、当時の権力者王叔文に贈賄して後任となろうとしましたが峻拒されました。

永貞元年八月
韋皐は卒しました。行軍司馬劉闢は自立しました。

憲宗皇帝が即位したばかりであり朝廷は、宰相中書侍郎平章事袁滋為劍南東西兩川山南西道安撫大使を送り慰撫しました。

永貞元年10月
宰相劍南安撫使袁滋を劍南西川節度觀察等使とし、西川行軍司馬劉闢を給事中としました。給事中は高官ではありませんが文官としての出世コースですが、闢が受けるとは思えません。

滋は到底無理だと判断し赴任しません。朝廷は滋を吉州刺史に左遷しました。

永貞元年12月
征討を避けたい朝廷は、劉闢を劍南西川節度使とし、右諫議大夫韋丹を劍南東川節度使としました。

元和元年正月
増長した劉闢は西川のみならず、東川も併領しようとして梓州を攻め節度使李康を捕らえました。
そして同僚の盧文若を東川節度使としました。

激怒した憲宗皇帝は宰相杜黄裳の提案に従い闢を伐つことに決め、長武城使高崇文を左神策行營節度使とし、左右神策京西行營兵馬使李元奕、山西節度使嚴礪、東川節度使李康を率いさせました。

当時の名将とされていた劉澭や范希朝ではなく、高崇文の任用は意外とされました。
崇文は政治性の無い生粋の軍人で、常に対吐蕃防衛に備えていましたので、勅令が降ると直ちに全軍を率い出陣しました。

元和元年2月
先鋒の嚴礪は劍州を陥し、刺史文德昭を斬りました。

元和元年3月
嚴礪・高崇文は梓州を回収しました。闢は唐軍の速い進撃に驚き東川を捨てました。李康は解放されましたが誅されたとも左遷されたとも不明です。

闢の官爵が削られました。

新任の東川節度使韋丹は「出兵してきた高崇文軍は本拠地がありません。崇文に東川を与えれば士心は安定するでしょう」と上奏し認められました。丹は晉絳観察使に移ります。

元和元年5月
闢は鹿頭關に防衛戦を置き、崇文軍を防ぎました。

元和元年6月
崇文は鹿頭關・漢州徳陽に闢軍を破り、漢州を陥しました。

礪軍も闢軍を石碑谷に破りました。

元和元年7月
崇文は闢軍を梓州玄武に破りました。

元和元年9月
礪軍は闢軍を神泉に破りました。

崇文は闢軍を鹿頭關に破り、將李文悅、仇良輔は降りました。

成都を陥し、吐蕃に逃亡しようとした闢を捕ら、盧文若は自殺しました。

元和元年10月
功績により東川高崇文が西川節度使となり、山西嚴礪が東川節度使となりました。山西は嚴震-嚴礪が長期間在鎮していましたがこの機会に移動させることができました。


幽州節度使 朱滔の乱 2

2023-01-14 08:38:21 | Weblog
興元元年正月
德宗皇帝は大赦令を発し、朱泚・朱滔以外を赦しました。王武俊・田悅・淄青李納は帰順し、淮西李希烈のみが反乱を続けました。武俊・納は既得権が維持されればそれ以上の要求はなく、悅は相継ぐ敗戦により牙軍は潰滅して休戦を切望し、財政も破綻していました。

南下した滔軍をまだ態度を示さない武俊・悅は供軍しています。しかし悅は軍が出兵を望まないとして会同しようとはしません。

滔は悦の背信を怒り、馬寔に魏州宗城、貝州經城,楊榮國に魏州冠氏を陥させました。また回紇に魏州館陶を掠奪させました。悦は魏州に籠城します。

滔は邢州平恩、魏州永濟に分兵します。

滔は貝州に刑曹俊を攻囲します。また回紇を放し諸縣を大掠させ、貝州武城を陥し徳棣二州から軍糧を調達しました。

興元元年2月
王武俊に平章事兼幽州節度使が加えられ、滔を伐てという命令が下りました。

興元元年3月
帰朝しようとしていた田悅が私怨のため甥の緒に殺されました。

昭義李抱真と武俊は貝州の救援に来ていましたが、緒の乱により観望していました。

滔は悅の死を喜び將鄭景濟・馬寔に魏州を攻めさせ、緒を味方につけようとしました。

緒は幕僚將士と議し、唐朝に附き、武俊・抱眞の援を待つことにしました。

興元元年4月
滔軍は貝州・魏州とも陥すことができません。

抱眞は昭義歩兵と成德騎兵で滔と対すれば勝てるとし、武俊と会同しました。

興元元年5月
滔は抱眞・武俊軍に經城で大敗し軍の大半を失い、幽州に遁走しました。

王武俊は滔を破ったとして恆州に戻り、幽州盧龍節度使兼任は辞しました。武俊には河北の体制を維持しあくまで滔を追いつめるつもりはなかったのです。

興元元年6月
朱泚が誅されました。

興元元年8月
滔は上表して謝しました。

貞元元年6月
滔は失意のうちに卒しました。

幽州節度使 朱滔の乱 1

2023-01-13 08:34:36 | Weblog
滔は泚の弟で、泚が入朝した跡、幽州節度留後となり実質的な節度使となりました。
建中2年正月成德李寶臣が卒し、子の惟岳が自立すると、滔は率先して征討に参加しました。
そして易州刺史張孝忠を帰服させ、3年正月には孝忠と惟岳軍を束鹿に大破し深州を囲みました。

王武俊が反して惟岳を誅すると、孤立した魏博田悅を除き、河北では唐朝の優勢が定まりました。

建中3年閏正月深州刺史楊榮國は滔に降り、滔はそのまま刺史に任じました。

ところが2月唐朝からの恩賞は武俊に恒冀、康日知に深趙、孝忠に易定滄、滔には徳棣を与えるというものでした。恒と冀は深趙に分断され、易定と滄は離れ、幽州と徳棣も滄に分断されています。滔は隣接の深州を欲し、しかも現実に抑えていたのです。この決定に滔と武俊は憤激しました。

4月朝廷は滔に検校司徒、通義郡王を与えましたが、滔の怒りは収まりません。

建中3年4月
滔と王武俊は、魏博田悅と通じ反しました。張孝忠は同じませんでした。

李納將李士真、李長卿は徳棣二州を以って唐朝に帰していましたが、滔は唐朝からの命と称して派兵して接収しました。

滔と武俊は趙州に康日知を囲みました。

滔は趙州寧晉を陥し、武俊は趙州元氏を取りました。

田悅は援兵が来るとし、將康愔を派遣し攻囲していた唐朝軍を攻撃しましたが大敗しました。

滔は泚に密書を送り蜂起を促しましたが途中で密使は捕まりました。德宗皇帝は泚を疑いませんでしたが、泚の連れてきた幽州兵が多い鳳翔隴右節度使は解任し宰相張鎰に代えました。

建中3年6月
滔・武俊は田悅が攻囲されている魏州城に救援し、連篋山西で馬燧・李懷光・李抱眞・李芃の唐軍を大破しました。

滔軍は唐軍の糧道を断ちましたが、武俊の反対を押して唐軍が撤退するのを許しました。

建中3年11月
滔は大冀王、田悅は魏王、王武俊は趙王、李納は齊王を自称し官属を置きました。

建中3年12月
滔・武俊軍と唐軍は対峙していましたが、滔・武俊軍は魏博田悅が供給し、唐軍は度支に頼っていましたが、悅も度支も負担に苦しんでいました。

建中4年5月
神策李晟は涿、莫二州を取り、幽州と魏博を絶とうとし、清苑縣を攻めましたが、滔軍に大敗し退却しました。
瀛州を攻めていた義武張昇雲[孝忠の子]も滔に迫られて退却しました。

滔の姿勢に対し武俊は不満を抱き始めました。

建中4年10月
京師で朱泚が反し、滔に河北平定を促し、将来東都で会おうと連絡しました。

李懷光や李晟は河北から撤退し德宗支援に赴きました。

滔は回紇軍の参加を勧誘しました。

建中4年12月
唐朝は武俊・悅に既得権を保障して働きかけ、両者とも唐朝より滔の覇権を懼れるようになってきました。

滔は幽州軍五万、回紇三千で南下し、武俊・悅軍を併せて東都を攻撃しようとしました。

邠寧軍の継承軍乱

2023-01-12 08:13:48 | Weblog
邠寧軍は郭子儀の朔方軍の系列を引き、朔方軍・河中軍が形骸化した後も、吐蕃防衛の前線として關内道で最大の武力を維持していました。

韓游瓌
奉天の乱に邠寧を継承した韓游瓌は、貞元3.10子の欽緒が李廣弘の乱に参加したことから軍内で権威を失い、德宗皇帝に媚びて留任はしましたが、立場が不安定になったことを自覚していました。

①貞元4年正月
遊瓌は豐義城を築いて吐蕃防衛にあたることを德宗に約束していたのですが、軍中の人望は既に都虞候虞鄉范希朝に移っていました。遊瓌は希朝を殺そうとしましたが、希朝は逃げ、左神策軍の将となりました。
遊瓌は豐義築城を強行しましたが、將士の協力は得られず失敗しました。

貞元4年6月
遊瓌は病と称して辞職し、後任の交代をまたずに京師に奔りました。

貞元年7月
朝廷は左金吾將軍張獻甫を邠寧節度使としましたが、戍卒裴滿等は獻甫が邠寧軍の出身でなく、厳酷だという評判から蜂起し監軍楊明義にも范希朝を後任とするよう要求しました。都虞侯楊朝晟はこれを鎮圧しました。德宗は希朝を寧州刺史とし獻甫の副として事を収めました。

貞元12年5月
節度使張獻甫が卒しました。監軍楊明義は実力者の都虞候楊朝晟を留後としましたので乱は起きません。

②貞元17年5月
節度使楊朝晟が卒しました。
朝晟は寧州刺史劉南金を推し、將士もそれを支持していましたが、朝廷は神策軍の定平鎮兵馬使李朝寀を後任とし、南金を副としました。都虞候史經等は不満で蜂起し、南金に迫りましたが応じないので殺し、兵馬使高固を立てました。やむをえず德宗皇帝は固を節度使としました。

高固は元和2引退して統軍となり、その後は劉闢を征討した西川高崇文が入り軍容は安定していきました。

山東 來瑱の変

2023-01-11 08:13:48 | Weblog
乾元3年軍乱続きの山東十州節度使となった來瑱は、たちまち將士を手懐け統制を回復しました。
ところが定見の無い肅宗皇帝と李輔國はそれに猜疑を抱きました。

荊南呂諲や淮西王仲昇は「瑱は將士の衆心を得て自立を図っている」と讒言し、朝廷は京師に近い金商均房四州を山東の管轄から分離しました。しかし山間の遠隔地でもあり瑱はさして気にしませんでした。

史朝義將謝欽讓は王仲昇を申州に破り捕らえました。瑱は怨んでいましたので救援しようとはしませんでした。

元年建卯月
瑱を山東から切り離し安州刺史淮西十六州節度使という一見昇進にみえる転任をさせました。
山東は朝廷に内通して瑱を裏切った行軍司馬裴戎に襄鄧等州防御使として与えました。
十六州は一見広大ですが史朝義の領域や戦乱で荒廃した地域が多く軍糧の調達にも困難な地域なため瑱は赴任せず山東節度に留まることを求めました。

寶應元年5月
肅宗皇帝が崩御し、代宗皇帝が立った混乱からか朝廷は來瑱の復任を認めました。

寶應元年6月
穀城に屯していた襄鄧防御使裴戎は任命を受け、麾下二千人とともに襄陽へ赴きましたが、お互いに朝命を受けたとして対立し、戎は瑱軍に撃破され捕らえられました。そして戎は京師に逆臣として送られ誅されました。

寶應元年8月
瑱は入朝し、9月兵部尚書同平章事山東節度使山陵使という破格の昇進をしました。

寶應2年正月
贈賄を拒否された宦官程元振の誣告により、突然に瑱は流罪となり殺害されました。このような定見のカケラもない朝廷に軍人達は強い不信を抱き、この後の吐蕃の侵攻と京師陥落時に誰も支援をしないという状況を引き起こしてしまいました。
当然留守の山東では軍乱が生じました。

浙西 李錡の乱

2023-01-10 08:02:26 | Weblog
李錡は都統・戸部尚書國貞[軍乱により死]の子であり、貞元15年寵臣李齊運に贈賄し常州刺史より唐朝の重要財源である浙西観察使諸道鹽鐵轉運使となりました。盛んに収奪し德宗皇帝や宦官に媚びて贈賄し寵愛を受けた。

貞元17年6月には地元民崔善真にその不正を糾弾されたが、德宗は捕らえて錡に引き渡し殺させた。
また私兵を募集し身辺を固めました。幕僚達は連座を懼れて逃げていきました。

永貞元年3月
姑息な德宗皇帝が卒し、順宗皇帝になると浙西觀察使から鎭海軍節度使に昇格しましたが、利得の源泉となる諸道鹽鐵転運使を解任されました。錡は不満でしたが昇格でもあるのでまだ激発しませんでした・

元和2年9月
西川の劉闢が平定され、錡は懼れて入朝を請願しました。留められるという期待に反して、すぐ判官王澹を留後とし、尚書右僕射という名誉職に任じるという命令がきました。
後任に御史大夫李元素を鎮海軍浙西節度使と発令され、不満な錡は親兵をそそのかし澹を殺し、勅使を捕らえました。

元和2年10月
朝廷は李錡の反乱を予期していましたので、淮南節度使に練達の軍人王鍔を配置していました。鍔はただちに諸道行營招討使となり、宦官薛尚衍が監軍として、武寧・鄂岳・宣武・淮南・宣歙・江西・浙東軍が征討軍となりました。

錡は腹心を蘇州,常州,湖州,杭州,睦州に配置し、各兵數千を置き準備していました。常・湖州刺史はこれを鎮圧しましたが、蘇州刺史李素は敗れて捕らえられました。

錡は宣州を攻撃しようとし、兵馬使張子良・李奉仙・田少卿に兵三千を与えましたが、三人は到底乱が成功しないと判断し、牙將裴行立と共謀し反し錡を捕らえました。

元和2年11月
錡は京師で誅殺され、將張子良[奉国]は南陽郡王、田少卿、李奉仙等は公となりました。

宰相 宋申錫の変

2023-01-09 08:58:04 | Weblog
不良少年の敬宗皇帝の頓死後、樞密使王守澄、楊承和、中尉魏從簡、梁守謙等は真面目な江王[文宗]を擁立しました。
しかし真面目に統治しようとする文宗は、宦官の達の専横ががまんできなくなってきました。
大和4年7月信任する翰林学士の宋申錫を宰相に起用し宦官排除策を相談し始めました。
よくいわれる宦官全廃ではなく単なる幹部宦官の排除程度のものだったと思われます。
宦官勢力、特に王守澄は申錫派の京兆尹王璠の密告もあり警戒し、謀臣の鄭注の策により先手をうつことにしました。

太和5年2月
神策軍虞候豆盧著は宰相宋申錫が、文宗の弟漳王湊を擁立しようとしていると告発しました。
中尉王守澄は兵を動員して申錫宅を襲い殺害しようとしましたが、麾下の飛龍使馬存亮に止められました。
文宗皇帝は狼狽して申錫を見捨てました。

諌官達は根拠薄弱な告発を弾劾し、徹底した調査を求めました。

太和5年3月
申錫家臣晏敬則等を拷問して自白を得、宰相牛僧孺等は逃げ腰でしたが、京兆尹崔琯や王正雅や諌官は盛んに異議を申し立てました。

最初は文宗を脅して申錫や漳王を誅しようとしていた守澄達ですが、長い捜査は形勢不利とみて矛を収め、申錫の罷免と流罪や漳王の降格、一部の家臣団の誅殺に止めることにしました。

文宗皇帝は懲りずに大和9年に甘露の変を起こします。

山東節度の兵乱

2023-01-08 08:53:53 | Weblog
安史の乱に南下する賊軍を防ぐため魯炅が編成した山東節度軍は、規律が悪く無頼の兵団でした。魯炅の自殺後文官を節度使任命しました。

①.乾元2年8月
襄州將康楚元、張嘉廷が刺史王政を逐いました。楚元は南楚霸王を自称しました。

皇帝は將軍曹日升を派遣して司農少卿張光奇を襄州刺史とし、康楚元を慰撫しましたが従いません。

乾元2年9月
張嘉延は南下して荊州を襲い、節度使杜鴻漸は逃亡し、管轄下の澧、朗、復、郢、硤、歸等州の官吏も城を捨て逃亡しました。

史思明が東都付近を陥し河南道を荒らしています。

太子少保崔光遠を荊襄等州招討使とし、右羽林大將軍王仲昇を申安沔等州節度使、右羽林大將軍李抱玉を鄭州刺史鄭陳穎亳四州節度使として隣接地を固めました。

乾元2年11月
商州刺史充荊襄等道租庸使韋倫は降者を厚く撫し、隙を窺い進攻し簡単に楚元を誅し、荊襄を平定しました。

乾元2年12月
御史大夫史翽が山東節度觀察處置等使となりました。

②乾元3年4月
將張維瑾・曹玠が反し、節度使史翽を殺しました。

前回鎮圧した隴州刺史韋倫を山東節度使とし征討することにしましたが、倫が宦官李輔國に贈賄しなかったことから、秦州防御使に変更されました。

陝州刺史來瑱を山東襄鄧等十州節度觀察處置等使とし征討させました。

瑱が襄州に行くと、維瑾等はたちまち降り従いました。
維瑾等の將士は魯炅に代わる親分と仰ぐ人を求めていたわけで、瑱は將士の心をつかんで服従させました。

幽州 朱克融の乱

2023-01-07 08:41:08 | Weblog
幽州節度使劉總は父を毒殺し、兄を殺して自立したのですが、病身とその祟りに苦しみ、しかも淄青・淮西が滅亡し、成德・魏博・滄景も唐朝に帰服する情勢をみて自らも帰朝することにしました。そして幽州を三分割することを提案し、一族や不満分子を京師に送り、みずからは出家[天平節度への転任の途次で卒します]しました。

朱克融は滔の孫で幽州の將でしたが、劉總は不満分子とみて京師に送り神策軍の将軍として仕えさせる段取りにしました。しかし穆宗の宰相達は経綸がなく、不満分子を登用することなく放置し、克融達は失望して幽州に戻ってしまいました。

長慶元年3月
唐朝は帰服した幽州に宣武・河東を統治した元宰相の張弘靖を節度使に送り、瀛莫二州を分割して權知京兆尹盧士玫を觀察使として送り込みました。弘靖は藩鎭統治に熟達していると思われましたが、河北三鎮、特に幽州節度は特殊でした。弘靖は宰相が三代続く名門貴族の出身です。唐朝の勢力が及ぶ地域では門地だけで尊重される立場ですが、蕃地と隣接した幽州では節度使は実力のある武将の代表であり貴族ではありません。また幕僚達も現地の実情に疎かったのです。

長慶元年7月
朝廷の威に驕った幕僚達は將士を厳しく取り締まり、武人を軽侮していました。
忿懣な士卒は乱し幕僚達を殺し、弘靖を幽閉しました。
そして統率者を求め、老将朱洄を推しましたが、洄は老齢と辞して子の都知兵馬使克融を薦めました。
克融は軍の支持を得て自立しました。

朝廷は昭義軍節度使劉悟を幽州節度使とし征討させました。

また魏博節度でも節度使田弘正が殺され、都知兵馬使王廷湊が自立しました。

長慶元年8月
克融は莫州を陥し、瀛州では軍亂が起きて觀察使盧士攻を捕らえました。幽州節度使全体が失われました。克融は王廷湊と違って弘靖や士攻達を殺さず継承を求めています。

廷湊と協力して深州を攻囲しました。

長慶元年9月
克融は易州淶水、遂城、滿城三縣を掠奪しました。

長慶元年10月
克融は蔚州に侵攻しました。

易州刺史柳公濟は白石嶺に克融軍を破りました。

昭義劉悟は趙州臨城まで進みましたが、引き返しました。

長慶元年11月
克融軍は定州を攻撃しましたが、節度使陳楚に撃退されました。

長慶元年12月
征討軍主力杜叔良は博野で成德軍に大敗し、唐朝の劣勢がはっきりしました。

陳楚は克融軍を定州望都、莫州清源に破りました。

朝廷はやむをえず、克融を幽州盧龍軍節度使として認めました。弘靖等を害さない穏健さを評価したもので、王廷湊と分離させようとしたのです。

長慶2年正月
克融は滄州弓高縣を陥し、下博を攻め軍糧を奪いました。廷湊との連合を守っています。

魏博軍が潰乱し成德征討も絶望的になりました。

長慶2年2月
朝廷は王廷湊の成德節度使の継承も認めました。しかし廷湊と克融は深州の攻囲を続けます。

克融は張弘靖・盧士玫を釈放しました。

裴度が廷湊・克融に深州解囲を勧告したため、克融は撤兵し、廷湊は包囲を緩め、元翼は脱出しました。


宦官 陳弘志の憲宗皇帝弑逆事件

2023-01-06 08:27:08 | Weblog
淄青・淮西を滅ぼし、成德・魏博・横海・宣武が帰服し、あとは幽州の帰服をまって全国統一に向かっていた元和15年、気の緩んだ憲宗皇帝は道教に凝り、有毒な水銀を含む仙薬服用のため精神障害を起こしていました。そのため政務を執ることが困難となり、百官を憂慮させていました。

親任厚い宦官吐突承璀は、無能な皇太子[穆宗]に代えて賢明な澧王を立てることを薦めていました。
確かに皇太子は遊び人で無能で、それは即位後にはっきりと示されたのですが、母は郭皇后で、外戚はあの郭子儀の子孫で隠然たる影響力を持っているため簡単に廃することができなかったのです。

皇太子は廃されることを懼れ、外戚に対策を相談していました。

元和15年正月
宦官陳弘志が憲宗皇帝、吐突承璀、澧王を殺害したということになっています。しかし弘志だけで実行できるわけもなく、皇太子周辺や反承璀派の宦官勢力など相当な勢力が背後にあったことは間違いありません。ですから弘志は処罰されることもなく監軍として外に出されただけです。
弘志が殺されるのは15年もたった文宗皇帝時代です。

武寧軍 王智興の乱

2023-01-05 08:02:48 | Weblog
智興は徐州軍に属し、建中年間の李洧時代から出頭し、元和10年には節度使李愿の筆頭武将として李師道を破っていました。長慶元年には沂州刺史から武寧軍節度副使となり、元宰相で文官の崔羣に代わり武寧の兵権を握っていました。

長慶2年3月
成德王廷湊・幽州朱克融征討に出た智興と節度使崔羣は相互に疑い、帰還した智興は羣を逐い自立しました。

鹽鐵院の錢帛を奪い、諸道の進奉物を掠奪しました。徐州の管轄は江淮からの漕運の中継点ですから唐朝にとっては死活的な問題です。

しかし河北三鎭が反旗を翻し、唐朝はそれを鎮定できない状況で、武寧軍を討つ力はありません。

唐朝は武寧軍節度副使王智興を檢校工部尚書充武寧軍節度使として自立を認めました。

自立を認められた智興は一転して、長慶2年8月の宣武で自立した李介、大和2年横海で自立した李同捷の征討に積極的に協力して功績をあげるのです。

涇原 劉文喜の乱

2023-01-04 08:02:48 | Weblog
宰相楊炎は対吐蕃防衛の為、原州に築城し、涇原節度軍[涇州]を原州に移そうとしました。本来涇原軍は安史の乱に際して西域の北庭や安西から派遣された行營軍が流浪して邠州に定住し、さらに僻地の涇州に遷されて成立しています。
楊炎の策を諮問された涇原節度使段秀實は「また兵備は整わず、今はその時期ではありません」と反対しましたが、節度使を罷免され、閑職の司農卿に飛ばされました。

建中元年2月
邠寧節度使李懷光に四鎮北庭行營涇原節度使を兼任させ、軍を原州に移し、実権を持つ留後劉文喜を別駕に飛ばしました。
移鎭を聞いて將士は[やっと安住できるかと思ったらまた僻地にやられるのかと]憤激しました。
また涇原の將達は、邠寧で懷光が従わない將達を誅殺したことを知り懼れていました。

文喜達は涇州に籠もり「帥に段秀實を復するか、朱泚にしてくれ」と要求しました。泚は寛厚で人望がありました。

そこで朝廷は鳳翔節度使朱泚に涇原兼任を代えました。

建中元年4月
しかし文喜達は自立を策し、吐蕃に来援を求めました。

朱泚・李懷光・神策軍使張巨濟に征討が命ぜられました。

建中元年5月
征討軍は涇原軍に同情的で成果があがりません。

文喜は將劉海賓に入奏させ、節度を求めました。海賓は太子時代の德宗に仕えた前歴がありました。德宗は要求を峻拒するとともに將士に賜与は変わりなく与えました。

吐蕃は当時唐との関係が改善傾向にあったため文喜を支援することを拒否しました。

海賓は德宗の意志が変わらないことを將士に説き、文喜を殺して降りました。

そして原州築城は中止され、涇原軍の移鎭もなくなりました。

劉海賓は樂平郡王に封ぜられました。

判元帥府事 宦官李輔國の変①②③

2023-01-03 08:03:26 | Weblog
輔國[護国]は肅宗皇帝が皇太子の頃から仕え、小心で意志薄弱な肅宗を張妃[のち皇后]とともに支えていました。常に肅宗の気持ちを代行していました。
そして判元帥府行軍司馬として兵権を握り、その実権は宰相を凌ぎ、李峴など対立した宰相は罷免されました。

輔國が權を握ると張皇后との関係は悪化していきます。

①上元元年7月
玄宗上皇は京師の民衆の人気がありました。高力士や陳玄禮など多彩な側近が取り巻いていました。肅宗皇帝の疑心を忖度した輔國は兵を率いて上皇を幽閉し、側近達を流罪・引退させました。

上元2年8月
輔國は宦官として最初で最後の兵部尚書となりました。そしてさらに宰相となることを求めます。反対した宰相蕭華は罷免されます。

②寶應元年4月
肅宗皇帝が崩御すると、張皇后は輔國を除こうとして、皇太子适[代宗]に行動を促しますが。适は脅えて逃げます。そのため趙王係を立てようとします。宦官程元振の裏切りによりこれを知った輔國は、皇太子を擁立し張皇后・趙王・兗王を殺しました。代宗皇帝が立ちます。

代宗は輔國を優遇し「尚父」の號を与えました。
輔國は専横となり、代宗に「皇帝は宮中でゆっくりしていればよい、政治は私がやります」と言い放った。
代宗は心中不満であったが、輔國の兵威を畏れてなにもいえなかった。

寶應元年5月
輔國は正任の司空兼中書令として宰相になりました。

輔國は得意満面でしたが、麾下の程元振は代宗皇帝に取り入り策謀をねっていました。

③寶應元年6月
突然、輔國の中書令判元帥行軍及兵部尚書閒廄等使が免ぜられ兵権を失い、博陸郡王に封ぜられました。輔國は激怒しましたが、程元振が判元帥行軍として兵権を奪いどうにもなりません。

寶應元年十月
輔國は自宅で[皇帝から派遣された刺客により]殺害されました。首と片腕が持ち去られていました。

劍南 崔旰/寧の乱

2023-01-02 08:01:31 | Weblog
崔旰[賜名されて崔寧]は河北衞州の儒家の生まれだが、兵学を好み劍南に流れてきて將となり、文官の節度使嚴武に重用され漢州刺史、西山都知兵馬使として対吐蕃戦に功績が大でした。

ところが永泰元年4月嚴武が卒すると、5月後任に朝廷から歴戦の將右僕射郭英乂が派遣されて来ました。
旰は大將王崇俊を推していましたがならず、英乂に崇俊は殺され、旰もまた解任されて召還されました。

永泰元年閏10月
旰が召還に従わないので、英乂は軍糧を絶ち、大軍で伐ちましたが、山岳戦に長けた旰に敗れ敗走しました。英乂は厳酷であったため士卒は附きません。

旰は所部を率いて成都を陥し、英乂は簡州に奔りましたが、途中普州刺史韓澄に殺されました。

邛州牙將柏茂琳、瀘州牙將楊子琳、劍州牙將李昌夔が蜂起し劍南は大騒動となりました。

永泰2年/大暦元年2月
朝廷は華州周智光の乱のため劍南どころではなかったのですが、劍南は唐朝には重要な地域ですので
宰相である黄門侍郎同平章事杜鴻漸を山西劍南東川等道副元帥充劍南西川節度使として征討にあたらせました。
鴻漸は文官ですので、実際の討伐は武官山西節度使張獻誠に劍南東川節度觀察使を兼任させてあたらせます。

邛州刺史柏茂林を邛南防御使,劍南西山兵馬使崔旰を茂州刺史充劍南西山防御使としてもいます。

永泰2年/大暦元年3月
ところが獻誠は旰に梓州で大敗し遁走しました。

弱体な唐朝にはもう討伐に派遣できる兵力はありません。それどころか華州周智光すらどうにもできないのです。

永泰2年/大暦元年8月
鴻漸はひたすら「私の顔を立てて成都へ入れてくれ、悪いようにはしないから」と旰を慰撫しました。旰もただの軍人上がりではないので鴻漸に賄賂を贈り朝廷へのとりなしを依頼しました。

鴻漸は茂州刺史崔旰為成都尹劍南西川節度行軍司馬とし、柏茂琳・楊子琳・李昌夔をそれぞれ本州刺史としました。つまり旰に実権は与えるので名目上朝廷に帰服せよという鴻漸の意向です。

成都に入った鴻漸は、旰の反をまったく責めず、ひたすら朝廷の要路への働きかけ方を教え、政務を委任しました。

大暦2年6月
鴻漸は旰を西川留後とし、莫大な蜀の財宝を携え入朝し宰相に復帰します。そして宦官や要路に財を撒き、旰の継承を承諾させました。もちろん自分も取り込んでいます。

大暦2年7月
劍南西川節度行軍司馬崔旰が劍南西川節度觀察等使となり、遂州刺史杜濟が劍南東川節度觀察等使となりました。
西川は半独立体制となりましたが、一応唐朝の支配下に留まりました。これが当時の唐朝の実力です。
それなりに有能な旰は吐蕃の侵攻をくい止めました。

淄青 李師道の乱 2

2023-01-01 08:08:57 | Weblog
元和13年5月
忠武節度使李光顏を義成節度使とし師道征討の先鋒としました。

河陽都知兵馬使曹華は棣州刺史とし商河縣へ到り、来寇した淄青兵を破り商河を復し、橫海節度副使を加えられました。

元和13年7月
師道の官爵を削り、宣武韓弘、魏博田弘正、義成李光顔、武寧李愬、橫海等五鎮に征討を命じました
宣歙觀察使王遂が兵站支援の供軍使です。

元和13年9月
宣武韓弘は自ら曹州を囲みました。

元和13年10月
左金吾衛大將軍薛平が義成軍節度使となり、李光顔は忠武軍節度使に戻りました。やはり自軍のほうが扱いやすかったようです。

元和13年11月
河陽節度使鳥重胤を滄州刺史橫海軍節度滄景德棣觀察等使とし進出させました。

魏博田弘正は全軍を率いて楊劉より黄河を渡り鄆州[淄青の主邑]を攻めました。淄青軍は動揺しました。

元和13年12月
李愬の請願により淮西の降將春州司戸董重質を武寧軍驅使として登用しました。

元和14年正月
武寧李愬は兗州金鄉を陥しました。師道は不利な報告を聞こうとしませんでした。

魏博軍は淄青兵を鄆州東阿・陽谷に大破しました。

宣武韓弘は曹州考城を陥しました。

元和14年2月
楚州刺史李聽は海州を攻め、東海、朐山、懷仁等縣を陥しました。

武寧李愬は淄青軍を沂州に破り、丞縣を陥しました。

師道は淄青都知兵馬使劉悟[正臣孫]を魏博軍に対峙させていましたが不利でした。師道は悟に不信を抱き殺そうですが、悟は先手をうって反し、鄆州城に突入し師道一族を殺しました。

劉悟は淄青継承を望んでいたようですが、朝廷は許さず義成軍節度使に任じました。

淄青十二州は解体され、淄青齊登來と兗海沂密と鄆曹濮の三道に分割され唐朝の支配下に入りました。