ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

北京原人の化石と勝鬨丸

2011-02-12 | 海軍

えーと、事務連絡です。
何がどうなっているのか分からないのですが、2月8日を最後にコメント欄にメールが届かなくなっているようです。
自分でも送ってみたのですが、送ったことになっていてもBOXには届かないようです。
2月8日以降、コメント送信したのに反映されない、また返事が来ない、という方、申し訳ありません。
ほとぼりが冷めてから?もう一度試してみてください。
本当にすみません。

 

今日は北京原人の化石の話題です。
北京原人の絵でも描こうかしら、と思い画像を集めてみたのですが・・・。

うーん、なんか描くの面倒だなあ。
北京原人には大変失礼ながら、対象への感情移入が多少なりともないと、なにしろこちとらシロート絵描きなもので。
描いていて楽しい(ブログもね)ものしか、わたしは描かんっ!

というわけで、WIKIから引っ張ってきたフリー画像でお茶を濁してしまいます。

このシナントロプス・ペキネンシス。
1927年(昭和2年)、中国、北京市の西南地方にある周口店の石灰岩洞窟から発見されました。
60万年から15万年前の世界最古の人骨と言われ、世界考古学界の最大の遺産、と言われます。

そのころこの化石は北京の北京協和医学院の新生代研究所に保管されていました。
この医学院は米国ロックフェラー財団の系列だったため、日中戦争の間も日本軍の接収を免れていたのですが、
いよいよ日米間の雲行きが険悪になってきたことから、ある日密かにアメリカに移送されることになりました。
このときに運搬の役を担ったのがプレジデント・ハリソン号。
ニューヨークの造船所で1921年に建造された1万509トンの貨客船です。

人類の遺産を乗せてハリソン号は出港します。

時に1941年12月8日―


ちょうどこの開戦当日、北京原人の化石のために、一か八かで日本軍制圧下にある上海に入港していたハリソン号は、上海港内で開戦を知ります。
すぐさま錨をあげ、脱出を図るのですが、
哨戒中の日本軍機に気づかれ、通報を受けた東亜海運の長崎丸に猛烈に追跡されるうち、
上海沖の小島に乗り上げてしまいました。

ここまでは、事実です。

さて、北京原人の化石、でグーグル検索をかけると
「日本軍が化石を略奪したのですか?極東の憲兵と言われた日本がそんなことをするとは思えないのですが」
という、ちびっこの微笑ましい質問が(かな?)あるのですが、
略奪目的でなく、どさくさで紛失する前に保護しなければ、という理由で、実は12月8日の朝、
陸軍はこの医学院になだれ込み、金庫という金庫を開けさせているのです。

勿論、当時の日本もこの化石の重要性を知りぬいていたためです。
このとき、古い人骨らしきものを全て回収し、意気揚々と引きあげた日本軍でしたが、持って帰ってみれば
皆石膏模型ばかりだったという、まことにあっちょんぶりけな話が残されています。

さて、結論から申しますと、化石はこの日を境に消えてしまったのでした。
いずこへ?

当時の噂はこのようなものでした。

一、いったんハリソン号に積みこまれたのだが、日本側に追跡された際、ハシケで脱出しようとして転覆、
そのまま海の藻屑に

二、北京から上海までの陸送の途中で、中国人の手に渡り、粉々に砕かれて不老長寿の薬になってしまった

三、日本軍がめでたく戦利品として内地に持ち去ったが、空襲で焼けてしまった

四、ハリソン号は囮で、別の船がそれを運んでいたが、ちょうど真珠湾攻撃の時間にそこにいたため沈められた

五、米国人医師が持っていたのを中国国内で日本軍に奪われ、
それを乗せた阿波丸が米国艦に撃沈されて海の底に

さて、どれもありそうななさそうな噂です。
二番の「不老長寿の薬」ですが、人体、とくにミイラ化した人体を粉薬にしたものを不老長寿の薬として売買する、
というバカげた仕業は北京原人のみならず、ミイラに対しても行われました。
エジプトの墓盗掘の目的はこれであった業者もいますし、このためにずいぶんたくさんのミイラが
「すりつぶされてしまった」と言われています。

しかし、両国がその重要性を知りぬいていながら、いや、いたからこそでしょうが、
我こそはとそれを保護しようとしたため、この紛失は起こってしまったのです。
「不老長寿の薬」並みの愚行だった、と言わせていただきたいと思います。

さて、このとき捕獲されてしまったハリソン号、開戦当日の日本軍の獲物として、
「勝鬨丸」と名前を変えて海軍から一般に貸与されました。
日本側への引き継ぎのとき、おそらく「海の男」としての誇りと義務から、ハリソン号の船員たちは
惜しみない協力をして働いたそうです。

しかし、彼らはやがてやってきた海軍兵に「目に余るような仕打ち」を受け、連行されて行きました。

エリス中尉は「海軍ファン」自認する立場の者ですが、これは言っておかなくてはなりません。
海軍軍人が一般の船員、特に徴用船にされた船の船員に対する蔑視は、酷いものであったと言われます。
対等どころか、その傲慢な仕打ちの数々を、生存している一般船員の多くが証言しています。
自国の船員に対してすらこのようなのが普通だったそうですから、
このアメリカ人船員たちへの扱いも想像がつこうというものです。

そして、その船員たちの怨嗟が残っていたのか、
それともハリソン号、彼女自身が日本のものになるのを拒んでいたためか、
勝鬨丸となった後、そのタンクに残っていた揚子江の汚水が、いくら清掃しても除去できず、
三名の死者を含む下痢患者が続発します。
その後、駆逐艦と衝突、修理を終えてドックを出たところで座礁。
船内ではなぜか事故が多発しました。

そのようにしてさんざん駄々をこね、日本に使われるのを拒み続けた勝鬨丸、いやハリソン号。
ある日米国潜水艦の放った魚雷、たった一発によって一瞬にして彼女は海中に姿を消してしまいました。
まるでかつての母国にとどめを刺してもらうのを待っていたかのように。

 

さて、北京原人に話を戻して。
その後、同じ場所から発掘された数編の骨を組み合わせ、みごと一つの頭がい骨が再現されました。
冒頭画像は、このとき紛失した頭がい骨のレプリカです。

戦争は人類の愚挙中の愚挙ですが、せめて明日に遺すべき遺産だけは英知を以て守りぬいて欲しいものです。

ちびっこの質問にあったように「日本軍が紛失した」ということになっているらしいのも、
「保護するために強奪とか、いらんことしようとするからじゃあ!」という日本への抗議から産まれた噂でしょう。

まあ、確かに余計なことしないほうがよかったのかも・・・・。

 

 

 

画像 ウィキペディア フリー辞書

  • English: First cranium of Homo erectus pekinensis (Sinathropus pekinensis) discovered in 1929 in Zhoukoudian, today missing (replica)
日付

2007年3月(2007-03)

原典

Self work

作者

José-Manuel Benito Álvarez (España) —> Locutus Borg

 

 


嶋田大将最後の戦い その1

2011-02-11 | 海軍

嶋田繁太郎、海軍大将。

日露、日清、そして大東亜戦争に従事し、第二次世界大戦開戦時の海軍大臣として極東軍事裁判、東京裁判で戦犯として起訴される。
終身禁錮刑の判決を受け、1955年まで7年間服役後仮釈放され赦免。
1975年死去。



児島譲著「東京裁判」は高校生の頃最初に読んでから何度か買い替えて手許にある文字通り座右の書ですが、
小林正樹監督作品の映画「東京裁判」は、それに実写映像のついた、まさに目で見る歴史フィルム。


画像はその「東京裁判」で、証言台に座る嶋田繁太郎元海軍大臣です。


「東京裁判のことなら何でも聞いて!」
というくらい高校生時代から「東京裁判おたく」を自称するエリス中尉。
やはり耳目を奪われるのは廣田弘毅であり、東条英機であり、
あるいはキーナン検事、ウェッブ裁判長、そしてパル判事といった「裁く側」の人間だったのですが、
海軍に興味を持って以降、もう一度本を読みなおし、映画を見て、
今回は嶋田大将と永野修身元帥に注目することにしました。



「東京裁判史観」という言葉が昨今でこそ公に語られるようになったのですが、東京裁判開廷当時は日本国の誰も
この国が今後どうなっていくかなど思いもよらず、ただ戦争によって受けた自らの痛みを「誰かのせい」にすることで
やり場のない怒りを昇華させようとしていました。


映画「東京裁判」では、当時の裁判後半の様子をニュースで伝えるアナウンサーの言葉には
国民の怨嗟すら感じさせる響きがあります。

「東京裁判はいよいよ問題の核心に迫りました。
日本侵略主義者の驚くべき陰謀が今まさに明るみに出ようとしています!」


シリアスなクラシックの効果音とともに不安をあおるような語調。
この響きを聞いて、北朝鮮の岩石のようなおばはんアナウンサーが
「パンニハムハサムニダ!」
と怖ろしい声で唸っているあの映像をつい思い浮かべてしまうのはエリス中尉だけでしょうか。


昨日までやれ一億玉砕だ軍神だと戦争を煽っていたマスコミが、一夜にして手のひらを返したように
戦勝国の側に立って「戦争犯罪人」を糾弾していることの不思議さに何とも言えない気持ちです。

しかし、こういう感慨も歴史を知るものからは何とでもいえるわけで、当時の人々は、
裁かれる「戦争遂行者」たちはもちろん、これからの自分たちの運命など予想することすらできなかったのです。

戦争に勝った者が負けた者を裁く。
この、世紀の茶番ともいえる裁判を当初から
「復讐にすぎない」
とし、さらにそこで裁かれることを潔しとせず自決した人たちがたくさんいました。

杉山元陸軍大将。(司令部で拳銃自殺)
小泉親彦陸軍軍医中将。(自邸の茶室で自刃)
橋田邦彦文相。(青酸カリを含み「さあ出かけましょう」と靴をはきかけたところで絶命)
近衛文麿元首相。(自宅で服毒)
そして東条英機。

撃った弾はかすかに心臓をそれたのですが、このため東条元首相は
「自決もできない男」
という悪意のある雑言を国民からも浴びせられます。



そして、本日の話題、嶋田繁太郎大将の逮捕の日がやってきました。


「トウジョウ・ショック」はごめんだ、不祥事を防止するため全力を挙げよ、と指示を受けていた米官憲が
そのためにしきりにせきたてると

”Be quiet. I don't suicide."(静まれ、自殺はしない)

と一喝しました。
嶋田大将は前日の東条自決を知っており、スーツケースに着替えと手回り品を入れて官憲を待っていたのでした。
この裁判に出廷し、証言することが軍人としての最後の戦いになる、
と嶋田大将は覚悟を決めていたものと思われます。
わけても自分のこの裁判における一挙一動が海軍そのものの名誉を負うものだと自覚していたのでしょう。



戦犯指名された元指導者たちは、当初横浜刑務所に収監されました。
ここでの待遇は被告たちが眼を見張るほどのものでした。

「ホットケーキは何枚でも食べろ、蜂蜜もたっぷりかけろ、ハムエッグは出るしコーヒーは飯合でお代りをくれる。
20人くらいだから別扱いも面倒なので米軍の兵食を出しただけなんだが・・・」

その後彼らは大森刑務所に移ります。
横浜刑務所に比べ一段劣るとはいえ、要求すればある程度のことは叶えられる生活だったそうです。
ここでリーダー格だったのが嶋田大将でした。
おそらくこれは英語が喋れることに加え、性格でもあったのでしょう。

米軍側のものであった横浜刑務所と違い、大森刑務所はバラック建てで
食事は日本側の賄いによるものでしたから被告たちは当初こそ失望したのですが、
始まってみればそれほど悪いものではなく、嶋田大将が(←注目)要求すると、
床の張り替え、明るい電灯との交換、風穴ふさぎなど、看守は何でもやってくれました。

ここで大将を満足させたのは、なんといっても軍人がその敬称で呼ばれたことでしょう。
呼ばれただけでなく、待遇そのものも階級に応じました。
嶋田大将は、なんと机、椅子をそなえた二畳の小部屋を割り当てられ、他の将官も一人部屋を与えられます。
佐官以下、閣僚以外の文官は雑居でした。

高級軍人が優遇されたのは
「管理人の米軍人たちが、日本軍の戦闘における実力をよく知っている歴戦の勇士であったからだろう」
というのが嶋田大臣の解釈です。


日本軍の実力に敬意を表して、というのは嶋田大将の自負に基づく希望的観測にすぎず、
もしかしたら単にアメリカ側は規定通りに扱っただけだったのかもしれませんが、
この言葉からは、大将が海軍そのものを背負って牢獄の中ですら気負っているらしいのが
うっすらと見えるような気がします。

嶋田海相(当時)は開戦前、不戦論を撤回し、陸軍に同調したため、海軍内で
「東条の茶坊主」「東条の男妾」などといわれます。
先日竹槍事件の項でさんざん語った映画「軍閥」の中では、血気にはやる海軍軍部の若手将校たちが
「嶋田を切る!」と叫ぶシーンがあります。

そんな元将校たちにすれば、あのとき陸軍に協力なぞするから今頃戦犯として引っ張られるんだ、
と言ったところだったでしょうか。
ともあれ、嶋田大将はこの裁判を遂行することによって、海軍軍人として海軍の名誉を守ったのち、
堂々と死ぬつもりでいたようです。

新聞記者のインタビューに対し

「腹を切ってお詫び申し上げようと思ったが、ポツダム宣言を忠実に履行せよとの聖旨に沿う為、
この日が来るのを心静かに待っていた」と語ったということです。

実際の裁判における嶋田大将の戦いについては後半にお話しします。








竹槍事件に海保映像流出事件を見る

2011-02-09 | 日本のこと

まさかこの画像を再び使う日がこようとは思っていませんでしたが、初めてレイヤー機能を使って画像を重ねて作った苦心作なので、リサイクルできてその点だけは嬉しいです。

さて、まるで竹槍事件ブログかというくらい経過を何回にも分けて語ってきたわけですが、この件について調べるにつけ、例の中国船船長釈放後の映像流出事件との怖ろしいくらいの共通点があるのに気付きました。




この幾星霜を経て起こった二つの事件に共通するアウトラインをサクッと述べると

為政者によって国民に知らされなかった情報を一個人がある方法で暴露した

為政者はそれを隠すことによって国民をある方向に導こうとしていた

情報を暴露した個人を、為政者は主に感情的な理由で処罰しようとした




いかがでしょうか。
一つづつ検証していきましょう。

まず「為政者」にあたるのが陸軍政府=民主党政府。
個人的には東条英機が仙谷由人に相当します。

当時の東条英機が首相、陸将、軍需相、参謀総長を兼任し、
耳の痛いことを進言する部下を更迭するなどの独裁体制を敷きつつあったように、
官房長官でありながら総理に聞かれたことも勝手に答弁し、国会質疑の全てを牛耳ろうとし
「わたしが一番答弁がこなれている」
と自画自賛のすえ法相を兼務した仙谷官房長官(当時)は、裏の首相とも言われていましたから、
いわば三つの職務を兼務していたわけです。

さて、告発者は毎日新聞記者=海保職員。
どちらもが政府の隠したがる事実についての情報を知る立場にいた者たちです。

そのどちらもが
「国民にはそれを知る権利がある」
という義憤から行動を起こしています。

そして両政府が国民から隠したかったことは
方や日本の敗戦と飛行機が足りなくなっていたこと、
方や中国に密約で隠蔽を強要された逮捕時の日本の正当性


この部分は実に興味深いのですが、
方や軍国政府であり
方や左翼政権である
という事実故、隠したかったこととその理由は

陸軍「日本の劣勢」 「戦いを最後まで貫徹するため」
民主「日本の正当性」「相手国に主に経済的理由から譲歩するため」


となり、全くベクトルを逆にするものです。



政治の中枢にいるものがなぜこのように国民の総意と異なる方向へと国体を煽動していこうとするのか、
所詮浅学非才の身には、それが権力を取り巻く魑魅魍魎の所業の故か、
あるいは彼らの信ずる何らかの理想の生み出したドグマゆえか解析することはできないのですが、
一つ明らかなことは、「権力」というものはそれを行使するもの全てをして、
おそらく恍惚とせしめるに足る魔力があるのです。

そしてそれを脅かされた両者は、毎日記者、そして海保職員に個人的な処罰を与えようとしました。


「法に従って厳正に」
と言いつつ中国人船長を証拠不十分のまま永久に釈放してしまった仙谷由人は、当初海保職員に対し
「起訴を含む厳重な処罰を」要求しました。
三権分立が裸足で泣いて逃げ出すとんでもない越権行為です。

陸軍は新名記者一人に懲罰召集をかけ前線に送ろうとしました。
その際、海軍からの追及に辻褄を合わすため同じような兵役免除者ばかりを250名招集したことは、
この一週間何度も語ってきました。

東条英機が毎日新聞を振りまわして
「馬鹿者がっ」
と言ったように、仙谷由人もまたsengoku38という海保職員のハンドルネームに対し激昂したと伝えられます。


告発者たちにとっては、その昔は海軍が、そして現代は野党が味方になりました。
自民の弁護士出身議員は
「起訴されたら何ならわたしが弁護する」
と名乗りをあげたそうです。

民主党に対する野党がそうであるように、陸軍に対する海軍も、
拮抗する勢力として「敵の敵は味方」という図式で告発者を守ったのですが、両者の大きな違いは

「海保職員には国民が味方した」

ということでしょう。
これは、インターネットの発達で政府が隠蔽しても真実は隠せなかったという時代の違いによるものです。
当然の帰結として、民主政府はインターネットの規制を含む情報統制を検討しているようです。


かつて天下りの実態を証言した官僚に対し、仙谷由人は
「こんな発言をするとは将来のある方なので惜しまれる」
といい、国会の場で告発者の恫喝をしました。
たまたまエリス中尉はそれをリアルタイムで見ていましたが、
その言葉に覗えるこの団塊左翼の権力者の陰湿さ、権力を恣意的に悪用する傲岸さに唖然とする思いでした。

その官僚は仙谷由人のその言葉を聞いた瞬間
背筋が凍りついた
と述解したそうです。


左翼政権である民主党が旗印としてあげるのは軍事的なものの殲滅であり、国体の破壊であり、
あるいは東アジア共同体というわけのわからないユートピアであり・・・・・
それは端的に言って東条内閣のような軍閥の率いた国の理念とは対極にあるものだったはずです。

しかし、どうでしょうか。


いずれの場合も、真実を隠して国民を扇動したかったのは
「戦争を続けていく国民の総意」であり
「屈辱に耐えて得られる妥協的平和」という、為政者によっては都合のいいごまかしだったわけです。
これが、最終的な解決ではなく、どちらもがあくまでも「その場しのぎ」であることにご注目ください。

そして、結局得た結果は
「無条件降伏の敗戦」であり、
「嵩に来た相手の不当なさらなる恫喝」だったわけです。
後者は、今のところそのような「経過」であるというのだけが救いで、これが今後
「領土を奪われ国体は属国化する」という結末でないことを祈るしかありません。


思想信条を真逆にするはずのこの二つの政権で、奇しくも同じ事件が起きたことによって、
その予想される行く末にまるで「背筋が凍りつく」思いをしているのはわたしでけでしょうか。

第二次内閣組閣でいくら看板を掛け替えても彼らの目指す目的は映像事件の頃からなにも変わってはいません。
外国人参政権を通すことをマニフェストから外し、「公約は守る」と民団には説明、
そして農業国でもある日本の個人農家壊滅を意味するの売国TPPを強行しようとしている民主政権。

日本という国の国体をぐちゃぐちゃにしてしまうための見えない大きな力がじわじわ働いているのではないか、
と思えることのひとつは、昨今、相撲、歌舞伎、そういった日本の伝統に最近「ケチがついている」こと。

これ、偶然だといいんですが・・・。














竹槍事件~新名記者の入隊と除隊

2011-02-07 | 海軍
さて、陸軍の召集によって入隊してからの新名記者がその後どういう道を辿ったのかについてです。


「海軍は君を陸軍に渡すことはできない」


と言って涙まで流した海軍報道部長栗原少将でしたが、招集権を持っており、記者一人を招集することの不自然さを糊塗するために「第二国民」と言われる兵役不合格者を250名いけにえにしてまで報復を図る陸軍にはなすすべもなく、新名記者は高知の連隊である丸亀部隊に入隊します。


身体検査の際、衛生兵が軍医に報告をします。
「この眼ではダメです」
しかし、事情を聞いていた軍医将校はそれを無視して新名氏の耳元でこう囁きました。
「ご苦労だが、つとめてください」


報復を目的とした入隊で、兵隊としては老年兵の新名氏が訓練や罰直でさぞ過酷な目にあったのでは、
と思われるでしょうか。
ここで新名記者にとって幸運だったのは、配属された重機関銃中隊の中隊長が、
かつて日中戦争のとき従軍した部隊にいたことでした。

この隊は広東作戦のとき「覆面部隊」であったため記者の同行を許さないと言われるも、
「第十一師団は敵前上陸で有名な部隊だから、どんなことがあってもついて行け」
との社命を受けて新名記者が強引に従軍を許可させたという縁がありました。


「あっ、あのときの君か!」

新名記者が部隊で新兵苛めに合わなかったのは、この中隊長の計らいだけではありませんでした。
実は、陸軍の中にも新名記者を守ろうとする人たちがいたのです。

まず、丸亀部隊では厳重な私的制裁禁止の命令が言い渡されていました。
そして、30キロの重さの重機関銃を担いで付近の山に登る訓練に出発しようとすると

「新名はこの場に残って、付近の状況偵察!」

さらに伝令が

「適当な時間が来たら、兵舎に帰って休んでおれという命令だ!」

銃剣術では

「新名は見学!木陰の涼しいところへ行って休んでおれ!」

行軍の準備をしていると班長が

「行軍にはいくな、辛いぞ」
「いや、行きますよ」と新名氏が答えると
「命令だ、行くな」


辛い厩掃除を機関銃の手入れに変えられたり、
中隊長からは坐骨神経痛には灸が効くからすえてやる、と申し出られたり、
一貫して「特別扱い」は続きました。

ある日、新名氏の元に未知の人からの不思議なはがきが届きました。いわく

「わたしは貴連隊に先日まで勤務していたものです。ご苦労ですが、つとめてください。
連隊本部の香川進中尉に連絡してください」

香川中尉とは連隊の報道部の士官でした。
新名氏を呼び出した香川中尉は
「君はやがて帰れるよ」と言います。

その言葉通り、新名記者は三カ月で除隊になるのですが、
そのさい香川中尉の申し出で一席が設けられ、そこで驚くべき話を打ち明けられました。


それが、
「新名氏を一人取ることに対して海軍がねじ込んできたので
その辻褄をあわせるためだけに二百五十名の召集免除者を大急ぎで取った」
という事実だったのです。

おそらくこの香川中尉や、新名氏にはがきを寄こしたものがそうであったのだと思われるのですが、
陸軍には支那事変以来中央に対して批判派がおり、
このたびの懲罰召集に対して明日は我が身の危機感を持つその一派が密かに動いていたものでしょう。
新名氏の隊生活がが特別扱いに終始したのも、その筋からの密かな指令が出ていたものと思われます。

この香川中尉がこのときに伝えたのは
「中央からは、沖縄、硫黄島方面の『球部隊』に転属させろという厳命がきている」
「しかし、今、君を除隊とする」
ということでした。

硫黄島の転属とは、紛れもなく第一線での戦死を意味します。
前回の最後に触れましたが、新名氏以外の二百五十名は、硫黄島で全員戦死しました。
映画「軍閥」では、それはサイパンのこととして描いています。




さらにこのとき香川中尉は「君の兵籍簿は、二度と召集が来ないようにブランクにした」
「それでも大丈夫とはいえない」ので、「内地にいない方がいい」
つまり、海軍に従軍して海外に逃げろ、と言ったのです。

陸軍を除隊になるや、海軍は新名氏を報道班員にして、フィリピンに派遣しました。
このとき、新名記者は、特攻に出る直前の関大尉のあるつぶやきを聞いていますが、
この話はまたいつか別の日にすることにします。


神風特攻隊を見送り、ついに飛行機が無くなったころ、海軍司令部は新名記者に
「内地出張」の命令をだしました。
海軍の所属である限り、陸軍に手出しはできないのであくまで海軍に所属したまま
「内地で戦争の真相を講演してほしい」
というのが表面上の名目でした。


この新名丈夫氏は、戦後太平洋戦争について多くの著書を残していますが、
陸軍に逆らって命を狙われ、海軍に救われた新名氏が、
あくまでもジャーナリストとして公正な立場で海軍内の問題をも取り上げていながらも、
それ以上に陸軍の組織としての欠陥とその体質について厳しく糾弾するのは当然であると思われます。


除隊になるときの宴席で丸亀部隊の香川中尉は新名記者に向かって
「しかし、新聞記者としてこれだけの大騒動を起こせば、以て瞑すべしですよ」
と言ったそうです。


本日画像は映画「軍閥」より、開戦前に靖国神社に参拝する東条首相。
四月という設定でしょう。
境内の桜は青々と茂り、入学式を迎えるらしい母子とすれ違った東条首相は
母親の一礼に真っ白な手袋で答礼します。













竹槍事件~大本営発表とマスメディアの責任

2011-02-05 | 日本のこと
ここのところ毎回のように竹槍事件について語っています。
この一事件の中に、太平洋戦争中のあらゆる問題点の根本が象徴されており、 
この事件を語ることによって少なくともこの戦争末期の、目を転じれば
ある意味現代にもつながる社会の仕組みそのものの矛盾の緒を知ることにもつながるからです。


戦後になって国民は、大戦中軍部が戦争の経緯について何一つ真実を知らせていなかったことを知ります。
今となっては信じられないというほかないのですが、国力の違うアメリカ相手に緒戦の勝利の勢いのまま勝利できるかのような報道しかされませんでした。

ご存知「大本営発表」です。

「ラバウルから撤退」という場合、実際は撃滅されて飛行機が無くなった結果であっても
「ラバウルから転進」という言葉で説明され、
「隊全滅」を「果敢な戦闘の結果敵に多大な被害を与えるも玉砕」
と言い変えました。

映画「軍閥」の中で、毎日新聞の政治部編集員がミッドウェー海戦の大本営発表を聞くシーンがあります。
高らかに鳴り響く行進曲「軍艦」に乗せてその発表は

「大本営発表
東太平洋海域に作戦中の帝国海軍部隊は6月5日洋心の敵根拠地ミッドウェーに対し
猛烈なる強襲を敢行するとともに 同方面に増援中の米国艦隊を捕捉
猛攻を加え 敵海上 及び航空兵力 並びに重要軍事施設に甚大なる損害を与えたり

現在までに判明せる戦果左のごとし
イ、 米空母艦エンタープライズ型 一隻 及びホ―ネット型一隻撃沈」


ここまで聞いたときに、編集部の社員たちは歓声とともに拍手を始め、「やったやった」
などと口々に言い、ほとんど残りの発表を聞くものはいなくなります。
一人冷静にメモを取る記者がいますが、彼以外はもはや上の空。

この後騒ぎの後ろでラジオはこう続きます。

「ロ、 彼我上空において撃墜セル飛行機約120機
ハ、重油 総群 二カ所 爆破炎上
ニ、他、重要軍事施設爆破」


すでに社員はラジオの前から自分の部署に姿を消し、
「戦争は思ったより早く集結するかもしれませんねえ」
「五十六さんの株も上がるな・・・。東条さんも」
「うちの娘なんかねえ、東条さん東条さんてもうたいへんだもんなあ」
「わっはっは」

てな、和気あいあいの雰囲気。
しかし、もう誰も聞いていないラジオでは「我が方の被害」を取ってつけたようにこう報じるのです。

「本作戦における我が方の被害
イ、 航空母艦一隻喪失 同一隻大破 巡洋艦一隻大破
ロ、 未帰還飛行機35機    以上」




・・・・おいっ。
誰も聞いてないけど、よく考えたらこっちも被害大きいやんけ!

と突っ込む人は、新聞記者にすらいないわけです。
たった一人メモを取っていた記者は
「待てよ・・・なんだか変だぞこの発表は・・・
空母二隻がやられた・・・ひょっとすると」

と冷静に分析を始めるのですが。
因みにこの記者はこの後反戦思想を咎められ憲兵に尋問を受けて社を辞めていった、という設定です。

そもそも、この発表は皆さんご存知のように
「嘘ではないが、言っていないことの方が多い」

因みに史実に残るミッドウェー海戦の日本側の被害は


沈没喪失・・・ ・・重巡洋艦1隻
大破、自沈処分・・・航空母艦4隻
大破 ・・・・・・・駆逐艦1隻
中破 ・・・・・・・重巡洋艦1隻
航空機:喪失艦載機・・289機


だったわけです。
「先に相手に与えた損害を言う」
「こちらの損害については、たとえば自沈処分したものはカウントしない」
「未帰還、つまり帰って来なかった飛行機だけカウントし、撃墜されたと認定されるものについては述べない」
という、もう大本営発表の見本の様な発表なのです。

しかし、

ここで「ろくに報道の検証もしないでwww」
などとインターネット世代の後世の人間が知るものの優越を振りかざすことは許されないことです。

いみじくも東条英機と同じく伍長上がりのヒットラーがその著書で述べているように
大衆を愚昧なものとして煽動することが政治の在り方だと施政者によって考えられているのは、
なにも当時だけに限ったことではないのではないでしょうか。

この「竹槍事件」は、真実を糊塗した戦況しか知らされていなかった国民に真実を伝えたい、
という義憤に駆られた一新聞記者が巨大権力に立ち向かった、という構図です。

新名記者始め、ここに描かれる、そしておそらくは実物の毎日新聞記者たちも、
社会の木鐸としての使命のために自らの進退を賭して立ちあがったのであり、
彼らの気概は高く評価されるべきでしょう。

しかし、それとはまったく別に、いやだからこそ、この映画では大本営発表以前の報道機関、
マスメディアの持つ力とその責任を厳しく断罪しています。


新井記者は「戦況はここまできた」
という出だしで、敗戦の真実を告げ、戦争の継続にも疑問を呈した記事で陸軍の反感を買いました。

しかし、その新井記者はフィリピンで明日出撃する特攻隊員(黒沢年男)に激しくこう詰られます。

「新聞記者 開戦のときには貴様らなんて言ってた?
無敵行軍だ 聖戦だ 万歳万歳!さすが東条さんだ 鬼畜米英撃滅だ・・・
そういったのはどこのどいつだ!

日本中を好戦的にしたのは貴様らだぞ!
負けいくさになったらやめた方がいい、たったそれだけのことを言ってなにが立派なことだ」

「それだけのこと」とは新井記者が描いた竹槍では間に合わぬ、の記事を指します。

「勝つ戦争ならやってもいいのか?」

悄然とうなだれる新井記者。
さらに特攻隊員はたたみかけます。

「貴様らは勝ってるときはべた褒めしやがって負けてくるとみんな東条のせいにしやがる。
貴様らに責任はないのか?」


今日、同じ会社の同じ名前の新聞とは思えないくらい、当時戦争を煽り続けたのは、
そう、ほかでもない朝日新聞であり、毎日新聞であったわけです。

この二社は今日も徹底的に「日本悪玉論」に立ったうえで戦争を批判し断罪し、
いまだに軍の、日本の責任をついてやまないのですが、
いったい何の特権によるものなのでしょうか。

戦争を始めたのは軍です。
当時の軍組織の権力の集中を思えばそれは「日本」であったといってもいいでしょう。
しかし、そこへその日本を連れていったマスメディアは、
歴史を知るものの高みに立って騙された国民を嗤いこそすれ、
自らを省みる責任については全く斟酌すらしてもいないように思えるのです。


そして今現在、
特定の政党のある一派にくみして日本を「どこか」に連れて行こうとしているマスメディアに、
当時の煽動者としての面影を見出しうすら寒い思いがするのです。







學士様のお宿

2011-02-04 | つれづれなるままに
「上野の音楽会の後、學士会館に泊りましたのホゝゝ」

の、學士会館宿泊についてご報告です。
先日精養軒の夕食の後、上野の音楽会を聴きに行き、その晩は學士会館に泊りました。

學士とは何ぞや、という説明から参りますと、旧帝大、つまり
北海道大、東北大、東京大、名古屋大、京都大、大阪大、九州大の卒業生です。
厳密に言うと、ソウルの京城大、台北の台北大も含むのですが、ここの卒業生をどう遇しているのかまで
エリス中尉今回調べることはできませんでした。


この學士会館は明治10年東京大学の創立から明治19年に帝国大学が設立されるまでの間、
当時の東京大学綜理であった加藤弘之の謝恩会を機に創立された学士会に端を発します。
旧帝国大学(現在は国立7大学)の同窓会組織に発展した学士会会員の交流の場として建設された会館が、
大正2年の大火で焼失し、さらには大正12年関東大震災によって仮会館も焼失したため、
昭和3年、東京大学発祥の地に再建されたのが現在の学士会館です。
(學士会館ホームページより、學士会館の歴史)

 

入り口に鎮座ましますいかにも偉そうな胸像。
これがその加藤先生だと思うんですが、なんか名前が違った気がするんだよなー。
大変失礼なので限定しませんが、東京大学の誰かであることは間違いないかと。
コトが海軍関係でないと、いきなり平気でいい加減なことを書くエリス中尉。
因みにここは「東京大学発祥の地」でもあります。

   

もう80年経っているのですが、その歴史の重みと、日本の頭脳を輩出してきたという伝統と誇りを
なんだか「へへー」とつい土下座とともに感じてしまう重厚な空気が満ち満ちています。
因みに、ここは學士でなくてもどなたでも泊れて一泊9200円、豪華な朝食付きですから、お薦めです。
「學士」つまり上記の7大学卒業生在学生は8600円で泊れます。
「卒業生でーす」
といって安く泊ろうとしても、今はデータベースでばっちり何年卒の誰、と名前が調べられるので嘘はつけません。
まあ、800円のために嘘までつく人もいないと思いますが。
因みに中退しちゃった人もデータベースに名前が無いのでダメだそうです。
ちなみに學士様であるところのTОですが、ここの終身会員になっており、宿泊費飲食費10パーセント引き。
シングル一泊7800円は安いですよね。
TОは仕事で遅くなるとここに泊っています。

   
夜中廊下の隅に朴歯の下駄に腰に手ぬぐい手には哲学書を持った帝大生の幽霊が立って
デカンショ節を口ずさんでいても何の違和感もないこのレトロ感。
ところが一歩部屋に入るとそこはこんな世界。
  

このホテルは神保町にあり、道向かいに小学館と集英社のビルがどーんと立っています。
小さいとき読んでいた「小学○年生」はここで作られていたのか・・・・・感無量。

改装済みのここで一番高いスイートルームなのですが、なんとお値段は3万くらいなんですよ。(会員価格)
一室しかありません。丸の内ホテルの普通の部屋より安いんですが、なんだか「地味にゴーヂャス」
牛尾になるより鶏頭になりたい方には?お薦めの選択と言えましょう。

そして、エリス中尉が學士にも學士以外にもここをお薦めしたい理由が、ここの朝食。
いやこれ、パークハイアットやなんかよりリーズナブルで美味しいですよ本当に。
まず朝食会場のレストランの素晴らしさを見るがよい。

 

ここが、終日禁煙を貫いているため、こういうところにありがちな煙の染みついたこもった匂いが無いのです。
そして、コーヒー紅茶ジュースにミルク、何でもお代わり自由、前日に和食洋食を選べる朝ごはん。
なんと、ご飯は白米ではなく五穀ご飯なんですよ。
卵料理も注文して好きなスタイルでその場で作ってくれます。
和食はお魚とお浸し、茶碗蒸し、納豆海苔、みそ汁というラインナップ。
偶然ですが、ここのレストランも精養軒が関係あるらしいです。


ここは、結婚式もやっていて、こういうレトロでアカデミックかつ質素だが落ち着いた式を挙げたい、という
旧帝大卒のカップルに人気なんだそうです。
本当のお金持ちや良家の子女はこういうところで披露宴をするのかもしれないなあ。

もしここを知っていたら○ェスティンなんてちゃらちゃらしたところじゃなくてここで披露宴したかった、
もしもう一回があれば次はここにしようと心に誓った(誓うな)エリス中尉でした。






竹槍事件~陸海軍の確執

2011-02-03 | 海軍

昭和19年年2月23日。

竹槍を持って戦えと国民にはっぱをかける東条首相の声明記事と並べて
敗戦の真実を告げ、さらに「竹槍では戦えない」というタイトルを付けた
毎日新聞社の新名記者に激怒した東条首相は、この一個人を戦争に召集しました。

つまり気にいらない意見を具申する部下に対してしばしば行っていた、
前線においやるという「懲罰人事」を行ったのです。

本日画像は、先日画像メイキング説明の日に使った加山雄三扮する
映画「軍閥」の新井五郎記者。
勿論毎日新聞の新名丈夫記者がモデルです。
今日は、この新名記者をめぐって海軍と陸軍が壮烈な争いを演じた
「竹槍事件始末」についてお話しします。

新名記者は当時37歳。
大正15年、二十歳のとき徴兵検査で近視のため不合格になり、
一度は兵役免除の扱いになっていました。
映画での加山雄三は、二枚目俳優にもかかわらずまるで牛乳瓶の底のような度付き眼鏡をかけ、
兵役免除になるくらいの近視だったという荒井記者のリアリティを出しています。
加山雄三が近視だったという話はあまり聞かないのですが、
これはまじもんで度がきつい眼鏡ですね。

このような者に、それもたった一人を対象に召集令が下るというのは異常な事態で、
すぐさま海軍は新名記者を救おうと動きました。

昨日記事に書きましたが、海軍がたとえトラック島が殲滅したことを公表されても
世間に訴えたかった「飛行機が足りない」という一事を書いてくれた記者を
むざむざ前線にやるわけにはいかない、これは海軍の意地であり、
新名記者に対する感謝の印でもあったようです。

海軍が取った措置は、陸軍の召集令より遡った日付で新名記者を海軍報道班員に徴用し、
パラオに送るというものでした。
しかし、陸軍は

「こちらの召集令の方が優先される」

とそれに肯じません。
陸海軍の間に埒のあかない論争が巻き起こり、新名記者の取り合いとなります。

「どうせ陸軍に取られるくらいなら海軍省内で白昼自刃せよ。
問題を天下にさらけだすのだ」


といきり立つ士官。

「新聞記者に腹を切らせて何になる。
それより報道班員として前線に行ってペンを手にして華々しく死んだ方がいい」

と反対する士官。

中央で埒があかないので、海軍は、新名記者の故郷である高松の地方人事部長レベルで
海軍担当から陸軍担当者に申し入れをし、いったんは召集を解くことに成功しました。

しかし、帰京しようとした新名記者に再び中央から再招集がかかるのです。

どちらも意地になっていたとはいえ、一個人に対しここまで徹底的な報復を図る陸軍の、
いや東条英機という男の執念深さには―これをもって彼を全否定するものではありませんが―
背筋が寒くなるではありませんか。

すぐさま海軍は陸軍にねじ込みますが、陸軍には中央から

「新名を絶対に帰すな」

と厳命がきていたのだそうです。
海軍にはもうどうすることもできませんでした。



陸軍の指定した召集日までは、おそるべきことに新名記者が東京に着いたら
すぐにとんぼ返りで高松に引き返さなければならないだけの日にちが
ぴったりと取ってあったといいます。

映画「軍閥」では、海軍側が

「大正の兵役免除のものを一人だけ取るとはおかしいと思わないのか!」

というと、陸軍担当者が冷然と

「丸亀部隊(新名記者が招集された高松の部隊)には
他に大正の兵役免除のものばかり250名を招集した」


と言い放つシーンがあります。

それを聞き海軍将校は唖然とするのですが、実際は、この事実を
新名記者は丸亀部隊を除隊になる際、
当の陸軍軍人の告白によって初めて知ることになります。


それにしても、250名もの人間のの巻き添え。

確かに戦争末期にかけて学徒どころかいったんは免除になったものや
老人にも招集がかかる例はあり、必ずしもありえないことではなかったとはいえ、
ほとんどが家庭持ちで息子も戦線に行っているような者たちを
新名記者一人への懲罰のつじつま合わせに招集するとは・・・・・・・。



陸軍の指定の日、海軍省から駆け付けた軍務局員に見送られて、
新名記者は丸亀部隊に入隊します。

さて、この事件に見られる東条英機という男の人間性には、
何かしら独裁者ヒットラーを彷彿とさせるものがあります。

権力を自らに集中させるにしたがって、周りの意見に耳をふさぎ始める、
耳の痛い意見は退け、あえて勇気を持って意見具申するものを権力で駆逐する。
さらに細心も度を越した小心とも言うべき肝の小ささ、狭量さ。

全て伝わるヒットラーのそれと重なるものがあるという気がするのはわたしだけでしょうか。
しかし、大きく違うことがあるとすれば日本にはドイツにはいなかった
「天皇」
という絶対的な存在があり、その存在ゆえ当時の軍部が独裁政権となりようがなかったことで、
さらに東条自身が独裁者として権力を目指したものではなく、

「無私の忠義者」

であったことでしょう。


この、新名記者のために召集された250名は、
その後硫黄島に送られ、全員が戦死しました。

新名記者を前線から連れ戻したのは、ぐだぐだになっていた
陸軍内の中央に反抗する一派の動きがあったというのですが、
それについてはまた稿を別にお話しします。


「我が」海軍は、その後も新名記者に手を差し伸べ続けるのです。








君死に給うことなかれ

2011-02-02 | 日本のこと

与謝野晶子の画像を探していて思ったのですがこのひとって・・・
志茂田景樹に似てませんか?

いえ、似た映像ではなく、どうせ描くならと一番美しい頃のお写真を書かせていただきましたが。


幼少の頃、家には「漫画日本の歴史」がありまして、結構繰り返して読んだものだから
「清少納言は紫式部を苛めてたんだ」とか、
「関東大震災のときに無実の朝鮮人が殺されたんだ」とか、
まあいまにして思えばどっぷりと偏向バイアスのかかった歴史観を
子供心にマンガで楽しく植え付けられてしまったような気がしますが、それはともかく、
その日露戦争の項でこの与謝野晶子の「君死に給うことなかれ」がでてきました。

あゝおとうとよ、君を泣く
君死にたまふことなかれ
末に生まれし君なれば
親のなさけはまさりしも
親は刃をにぎらせて
人を殺せとをしへしや
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや

という「反戦歌」ですね。
日教組始め「戦争反対」「憲法9条を守れ」みたいな論陣の
テーマソングのようになっているこの歌です。
マンガではこのように歌った晶子に軍服を着たおっさんが(誰?)
「この非国民」といい、晶子が
「心(歌だっけ)は自由ではありませんか」
とたんかを切る、というエピソードで、これもまた子供心に
おおーかっこいい、軍に逆らってこんなこと言うなんて、と思ったものですが。


こうやっていろんなことがようやく見えてきて、この歌をあらためて全部読んでみました。

「そうでしょうとも」

以上、感想でした。


昔々、イラクの自衛隊派遣のときに、野党の議員が
「牛歩戦術」を使ったのを覚えていらっしゃいますか?
エリス中尉実はあんまり覚えていないんですが(笑)

因みにその後、自分が政権を取ると強行採決を執行したのは
この社会党出身議員出身者のなれの果て民主党です。

そのときに街で拾ったインタビューの声というのが、
「子供を持つ親として絶対イヤですね」「厭です絶対」
なんていう主婦みたいな答えばかりだったような記憶があるんですよ。
今にして思えば、思いっきりマスコミは反対してたんですね。

この「君死に給うことなかれ」にも
「絶対厭です!自衛隊派遣なんて」
と全く同じ匂いがするなあ、と思っていたのです。


弟よ、戦争で死んだら嫌だ、死なないでほしい、
二十四で人を殺して自分も死ぬために親はアンタを育てたんじゃない


以下延々と同じ調子で「いやだいやだ」が続くわけです。
もちろん文学作品ですから格調高くリズムを持って。


それはあくまでも「心情」であり「感想」であるわけで、そもそもこれは文学作品。
反戦歌を書こうとして書いたわけでもない与謝野晶子のことを責める気にはまったくならないけど
少なくともそれを旗印にして平和運動を展開する、というのはあまりにも底が浅すぎる。



人が人を殺すのは悪い、戦争は殺し合うから悪い、こんなことは自明の理です。
どんな国だって戦争を望んではいないのです。
しかし現実として世界のどこかで必ず戦争が起こっている。
利害、民族、イデオロギー、宗教、生活、慣習、それこそあらゆる要素がぶつかって
起こしたくなくても起こってしまうのが戦争というものです。
戦争に行くのもそこで死ぬのも皆厭にきまっているが、だからといって
このような感情的な文章を旗頭に、国が平和を守りぬけるわけがないではないですか。

ジョン・レノンの「イマジン」だってそうです。
私はビートルズの4人では一番ポールが好きですね。
音楽的に優れていると思いますから。
(解散してからの、特にエボニーアンドアイボリーはカスですが)
あの曲は楽曲としては悪くないけど、それをテーマソングにする「ある一派」は胡散臭く思う。

だいたい、ジョンは思わなかったんだろうか。

たった四人のビートルズですら仲良くできなかったのに、
世界中の人が仲良くなんてなれるわけないって。


こういう「とにかく戦争は嫌だ」を「女子供の理想」というのだろうと、
最近女であるというそれだけの理由で不当な勘違いをされた(気がしている)わたしは
ふと思ってみるのです。
私事ですが。

最近観た映画で言うと、こういう「女子供」の典型的な例が、「戦場のアリア」の
「慰問についてきて夫を脱走させ亡命する美人(馬鹿)歌手」ですかね。



日教組の平和教育というのは、要するにとにかく戦争を起こした当時の日本は悪である、
という審判の高みにたって、この「君死に給う」とか「イマジン」のような
文字通り空想(イマジン)やきれいごとに拍手することしかしていない。

こちらが武器を放棄さえすれば、誰も国に攻めてこない、
たとえ攻められたところで相手を殺すなら殺されて死んだ方がいい、と、
ガンジーの無抵抗主義をまったく恣意的に曲げて解釈したような理論を振りかざす。

無抵抗主義が、形を変えた攻撃なのだと、民族の意志を示すための武器なのだと、
九条信者の誰が知って言っているかって問題です。
相手が攻めてきたら、黙って列を作って一人ずつ殺されていく覚悟でもあるのでしょうか。

「近代社会は欲望人の社会である」とはマルクスの言です。

リゾート地で札束を振りまわしながら豪遊する成金ロシア人や中国人を見るにつけ
マルクスよ、あんたの理想とする社会主義は間違っておったよ、
とつぶやかずにはいられないエリス中尉も、この言葉だけは正しいと認めてあげよう。

かつての社会主義国家、あなたの「タバーリシ」たちは、
たった今欲望人の社会をこうやって享受しています。
あなたが、こちらこそが人間社会の本来の姿と知っていたからこその理想だったのでしょうが。



全ての国が平和のうちにいられる世界なんて、この欲望の存在する限りありえないのです。
その真理に対し「どうあるべき」ということだけを高らかにうたっても
全くそれは意味のないことだと思いませんか?
そもそも、戦争は常に平和を目的に行われる
というメビウスの輪のような絶対の真理に目を向けずして何が平和教育だ、と言いたい。

ご存知のように日教組や九条信者は、自衛隊を軍国主義の象徴のように標榜し、
憲法違反だと糾弾しています。
世界はひとつみな友達なので、武器を捨ててイマジンを歌い
君死にたもうことなかれと唱えれば誰も殺しに来ないのだそうです。


自衛隊の人件費始め、防衛費を今民主政権はどんどん減らしています。
中国のそれが倍々のように膨れ上がっていくのと反比例しています。
しかし、歴史を振り返ると、戦争というのは、必ず国力の不均衡、
つまりバランスが崩れたときに起こるのです。
パワーバランスの不均衡をはかるゲージが危険ゾーンに来るのは
もうすぐではないかと怖れているのはわたしだけでしょうか。


さて、この「よさのん」のおばあちゃまですが、
実は潜水艦事故で亡くなったあの佐久間艦長にこんな歌をささげているのです。

勇ましき 佐久間大尉と その部下は
海国の子に たがわずで死ぬ

大君の 御名は呼べども あな苦し
沈みき船に 悪しきガス吸う


あるいはその後太平洋戦争に参加した四男を激励する歌

水軍の 大尉(だいい)となりて 我が四郎
み軍に征く 猛く戦え



なんだー、全然反戦歌人なんかじゃないじゃん。

これは・・・「マンガ日本の歴史」の啖呵切ったって話は、創作だなどうやら。
これらの歌もちゃんと同一の歌人の作品としてセットで平和教育に使うようなら、
少しは日教組やら九条信者やらにに賛同してあげてもいいんだけど。



というわけで、本日も大上段からお送りしてみました。









海軍と精養軒の関係

2011-02-01 | 海軍

「精養軒で御食事してから上野に音楽を聴きに参りましたのよ」
「まあ宜しゅう御座いますこと、その日は省線でお帰りでしたの」
「その日は神保町の學士会館に宿泊いたしましたの」
「羨ましいワ御主人學士様でらっしゃるから」
「マア嫌だわ花子さんたら、
學士たって貧乏學者ぢゃ帝國ホテルに泊まるわけにいかないからぢゃアありませんかホゝゝ」


ってな一日を過ごしてまいりました。

週末上野の文化会館で息子のチェロの先生がリサイタルをされたので、
それを聴きに行くことからこの日のスケジュールが組まれました。

実はですね。
エリス中尉、海軍、わけても海軍士官、わけても笹井中尉に興味を持ちだしてからというもの、
この東京に住んでいて本当によかったと思うことしばしば。
書に残るゆかりの場所や当時のまま残っている場所にも関心を持つようになったからですが、
例えば、銀座。

お気に入りのレストランに行くとき「銀座裏」(松屋の一筋となりとか)に車を止めるのですが
「ここを笹井中尉が・・・・・」
というセンチメンタルな感慨を持たずにそこを歩くことができなくなってしまったのですよ。
特に、どうやら笹井中尉が「銀座裏の達人であったらしい」
という情報を知ってからは。

だから目黒の雅叙園なんかも「ここで兵学校67期最後の大クラス会が・・・・」なんて
いちいち胸を熱くしてしまうのですが、そういうわけでこの「上野音楽会」が決まってからすぐに
一度行ってみたかった上野精養軒のお食事の予約を入れたわけです。


なぜかって?


海上自衛隊で経理補給幹部をしておられた(旧海軍でいうところの主計士官ですね)高森直史氏は、
食べ物から見た海軍史を数多く著述されています。
歴史を食から語るという独自の観点の面白さから、もうエリス中尉大ファンだったりするのですが、
この方の著述に精養軒と海軍との関係を書いた部分があり、それを読んでからというもの
一度行ってみたくて仕方なかったんです。

「海軍士官たる者、洋食マナーを重視すべし。しかるに西洋料理は築地精養軒を利用すべし」

よりによって海軍大臣からこんなお達しが出たのは明治5年のこと。
西郷従道がその職にあった頃です。
海軍兵学校で配られる士官の心得を書いた「礼法集成」には、
食事マナーについて、ナイフ、フォークの使い方、それこそ以前書いたスープの食し方は勿論のこと、

「みかんが出たらどうやって食べるか」
とか、
「バナナ、ブドウ、ビワ、さらにリンゴをフォークで食べるには」
なんてことまで事細かく書いてあるのですが

笑ってしまうのが蜜柑とネーブルが別の項に分けられているんですよ。
その違いは?
気になって仕方ないあなたのために要約すると

蜜柑
「皮のまま四つに割り下まで割らずに中身を出す。
手を『ナフキン』にて拭いたる後、一袋ずつ指先に持ち、汁を静かに吸い
袋を前の皮の中に入れ全部食べたら皮を元のように寄せてきれいにせよ」
ネーブル
「皮をナイフで削ぎ、四つ割にして、リンゴのように食す。
塩、砂糖をかけて食すこともあり


・・・・えええー!
ネーブルに砂糖やましてや塩かけて食べる人みたことあります?
スイカじゃないんだから。

おっと、全然関係ない話で熱くなってしまいました。

とにかく、このように士官には行きとどいたマナーが要求されたわけですが、
やはり兵学校の一度の練習では場数が足りない、というわけで、
実戦マナーの実習場としてこの築地精養軒が「推奨」されたのでした。

何となれば、その頃海軍兵学校(移転前)、海軍経理学校、水交社、海軍大学、海軍医学校、その後海軍省、
当時はこの築地は海軍関係の施設が集中していたためです。

現在築地の国立がんセンターの門の近くには海軍兵学校跡、ならびに軍医学校碑を見ることができます。

   

先日お食事をしたこの上野の精養軒は明治9年、上野恩賜公園の開園を機にオープンしました。
お店の人にコートを持たせている間に慌てて撮ったのでろくにピントも合ってませんがご容赦を。
こちらの方を海軍が推奨したということは伝わっていないのですが、
当時の東京に洋食料理店がそうたくさんあったわけではありませから、
当然のことながら素敵な海軍士官とこちらでお見合い、なんてお嬢様もあられたのではないでしょうか。

羨ましい・・・。


妄想はともかく、ここのお料理、正統派フランス料理。
この日いただいたのは
ビーフストロガノフ、鴨のソテー、そしてホタテ、というメインディッシュでしたが、
実にどっしりとした、危なげない正統派フレンチの王道と言ったお味でした。
   

お食事中デジカメパシャパシャ、というのもなんだかマナーに反する気がして、
メインディッシュは撮りませんでした。
はっと気が付いたら食べ終わっていて
「しまったあせっかく美味しそうな鴨でおまけに横のテーブルで切り分けてきれいに盛り付けてくれたのに
あんまり美味しいから夢中で食べてしまって撮るの忘れたあ」
と悔しがった、などとということは決してありません。
パンが、こういうところにありがちなぱさぱさのものとは一線を画す異常な美味しさでした。(特にロールパン)

最後のお堂は不忍池のです。
昔は勿論のことライトアップなんてしていませんでした。



さて、海軍士官は精養軒で食べることを推奨されたという話ですが、それが、ただ推奨されるのみならず、
「務めて食べるように」どれだけ実際に利用したか、ということをチェックされたと云うから、驚きです。

なんと、月末ごとに個人別勘定がチェックされて、精養軒への支払いが少ないものは呼びだされて注意を受けた
といいますから普通ではありません。


・・・・なんか、癒着でもしてたんでしょうか。海軍と精養軒。