先日、現役時代の同期会があったので、久しぶりに大阪ミナミへ出かけてきました。
大阪には演歌に歌われている場所がたくさんありますが、今日はその一つ「法善寺」を演歌と共にご紹介したいと思います。
「法善寺横丁」
法善寺横丁は法善寺の北側、ミナミの繁華街にあって、静かななにわ情緒を漂わせている細い通りです。
東西両端にある門に掲げられている「法善寺横丁」の文字は、西は藤山寛美、東は3代目桂春団治によるものです。
横丁は東西に長さ80m、幅3mの2本の路地が伸び、通りの両側には老舗の割烹やバー、お好み焼き、串カツ店などが並んで、風情ある石畳が敷かれています。
この地は元々、浄土宗天龍山法善寺の境内で、参拝客相手の露店がいつしか横丁に発展したものです。
・藤山寛美の文字です。

「法善寺」
法善寺は寛永13年(1637年)に琴雲の開山により建立された浄土宗のお寺で、山号は天龍山です。
不動明王と金毘羅堂の慈悲地蔵尊のある境内は数十坪、両方にお参りしても1分とかかりません。
恐らく、「これほど小さいお寺にも関わらず、全国的に有名なお寺は稀でしょう」といわれている法善寺ですが、江戸時代の始め頃は境内も広く、本堂や庫裡、墓地などもあって、寛永21年(1644年)から始まった千日念仏回向の中心地として栄え、「千日寺」とも称されていました。
現在の千日前の地名はその前に拓けたところからついた名前ということです。

「水かけ不動」
この不動明王は太平洋戦争で辺り一帯がほとんど焼失したときも、唯一焼け残ったそうです。
現在では「水かけ不動さん」と呼ばれ、お寺のみならず地域のシンボルとなって人々に愛されています。
本来、不動明王は手に剣と縄を持ち、悪因縁を断ち切るべく怖い顔をしているのですが、このお不動さんは優しい顔をした男前だったそうです。
しかし、今は顔はもちろん全身が緑の苔に覆われているので、その表情をうかがい知ることができません。
水かけの由来は、一説によると、かつて一人の女性が「頼んまっせお不動さん」と願をかけ、合わした手で水をすくい全身にかけたのが始まりと言われています。
今では、お参りする誰もが柄杓で水をかけるため、苔は青々と輝き、その光沢を失うことはありません。
・苔に覆われた「水かけ不動」さんです。

それでは藤島桓夫が歌った「月の法善寺横丁」をお聴きください。
大阪には演歌に歌われている場所がたくさんありますが、今日はその一つ「法善寺」を演歌と共にご紹介したいと思います。
「法善寺横丁」
法善寺横丁は法善寺の北側、ミナミの繁華街にあって、静かななにわ情緒を漂わせている細い通りです。
東西両端にある門に掲げられている「法善寺横丁」の文字は、西は藤山寛美、東は3代目桂春団治によるものです。
横丁は東西に長さ80m、幅3mの2本の路地が伸び、通りの両側には老舗の割烹やバー、お好み焼き、串カツ店などが並んで、風情ある石畳が敷かれています。
この地は元々、浄土宗天龍山法善寺の境内で、参拝客相手の露店がいつしか横丁に発展したものです。
・藤山寛美の文字です。

「法善寺」
法善寺は寛永13年(1637年)に琴雲の開山により建立された浄土宗のお寺で、山号は天龍山です。
不動明王と金毘羅堂の慈悲地蔵尊のある境内は数十坪、両方にお参りしても1分とかかりません。
恐らく、「これほど小さいお寺にも関わらず、全国的に有名なお寺は稀でしょう」といわれている法善寺ですが、江戸時代の始め頃は境内も広く、本堂や庫裡、墓地などもあって、寛永21年(1644年)から始まった千日念仏回向の中心地として栄え、「千日寺」とも称されていました。
現在の千日前の地名はその前に拓けたところからついた名前ということです。

「水かけ不動」
この不動明王は太平洋戦争で辺り一帯がほとんど焼失したときも、唯一焼け残ったそうです。
現在では「水かけ不動さん」と呼ばれ、お寺のみならず地域のシンボルとなって人々に愛されています。
本来、不動明王は手に剣と縄を持ち、悪因縁を断ち切るべく怖い顔をしているのですが、このお不動さんは優しい顔をした男前だったそうです。
しかし、今は顔はもちろん全身が緑の苔に覆われているので、その表情をうかがい知ることができません。
水かけの由来は、一説によると、かつて一人の女性が「頼んまっせお不動さん」と願をかけ、合わした手で水をすくい全身にかけたのが始まりと言われています。
今では、お参りする誰もが柄杓で水をかけるため、苔は青々と輝き、その光沢を失うことはありません。
・苔に覆われた「水かけ不動」さんです。

それでは藤島桓夫が歌った「月の法善寺横丁」をお聴きください。