紀州街道を歩くシリーズの3回目は岸和田城をご紹介します。
昨日ご紹介した「紀州街道本町一里塚」から5~6分歩くと岸和田城の傍に辿り着きます。
岸和田城は三層の小さなお城ですが、その優美な城閣は街のシンボルとなっています。
私たちの一行は紀州街道から少し逸れて、お城に立ち寄ってきたので、今日は岸和田城を特集でアップします。
「岸和田城」
岸和田城の築城は、南北朝時代まで遡ります。
和泉国守護であった楠木正成が甥(弟、楠木正李の三男)の和田高家(にぎたたかいえ)を当地に派遣して、建武元年(1334年)前後に、今の城よりも東側の「岸」と呼ばれていた地に岸和田古城を築かせたのが始まりと言われています。
岸和田と言う地名は、「岸」という地名と和田高家(にぎたたかいえ)の苗字の和田が合わさって、岸和田と呼ばれるようになったと言われており、岸和田古城もいつの頃か、岸和田城とよばれるようになったということです。
また、岸和田城は別名を千亀利城(ちきり城)とも呼ばれていますが、「ちぎり」とは、機(はた)のたて糸をまく器具のことで、本丸と二の丸を連ねた形が、「ちぎり」に似ているためそのように呼ばれるようになったそうです。
「岸和田城主」
天正13年(1585年)には、羽柴秀吉の紀州根来寺討滅により、秀吉の伯父・小出秀政が城主になり、本丸を五層の天守に大改修しました。
以降、岸和田城主は、小出氏3代、元和5年(1619年)からは松平(松井)康重・康映、寛永17年(1640年)からは岡部氏がつとめました。
寛永17年(1640年)、岡部宣勝が入城(6万石、のち5万3千石)し、さらに城を大改築して近世城郭を築き上げ、以後、明治維新まで岡部氏が13代に亘って岸和田藩を統治しました。
文政10年(1827)に天守閣が落雷で焼失し、維新期には櫓・門など城郭施設を城主が自ら破壊したため、近世以前の構造物は堀と石垣以外残っていないそうです。
岸和田城は、本来は5 層天守であったことが絵図などで確認されていますが、現在の天守閣は昭和29年建造された3層3階の模擬天守です。
なお、城跡は昭和18年府指定史跡に指定されています。
「大手門」
岸和田城の大手門(復興櫓門)は、本丸隅櫓とともに昭和44年(1969年)に再建されたものです。
「八陣の庭」
昭和28年「1953年)、当時の庭園設計の第一人者であった重森三玲氏によって設計監督されました。
庭石材料は作者が一石一石選定した和歌山県 沖の島産の緑泥片岩を用いた石組を、京都白川産の白砂で囲み、、一木一草入れない枯山水としています。
「天守からの八陣の庭」
テーマは諸葛孔明の八陣法を取り入れ、大将を中心に天・地・風・雲・龍・虎・鳥・蛇の各陣を配しています。
この庭は城跡の保存を意識し、将来建設されるであろう天守閣から、更に上空からの俯瞰を意図して作庭された、これまでにない近代感覚にあふれた独自の創作によるものです。
「八陣の庭の説明板」
「犬走り」
岸和田城の遺構のなかでも内堀石垣下部の「犬走り」がとくに有名です。
現存する内堀石垣の下部に周堤帯が存在していますが、これが犬走りと呼ばれているものです。
城の防衛という見地から見ると非常に不利であり、なぜこのような構造にされたかはわかっていないそうですが、脆い泉州砂岩で造られた石垣が崩れるのを防ぐためという説が有力だそうです。
・石垣と内堀の間に作られている緑の草が生えている部分が「犬走り」です。