らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

紀州街道を歩く(その2)

2015-03-25 | 地元紹介

紀州街道を歩くシリーズの2回目です。

「五十一銀行跡」
昨日ご紹介した旧和泉銀行本店から更に10分ほど歩いたところに「五十一銀行跡」の看板が掲げられていました。
五十一銀行は明治時代初めに全国に作られ「国立銀行」の一つで、設立順に一番から百五十三番までが存在したことからナンバー銀行とも呼ばれていました。
現在でも第四銀行、十六銀行、十八銀行、七十七銀行、百十四銀行など、いくつかのナンバー銀行が経営を続けています。

明治11年(1878年)に設立された五十一銀行は、昭和15年に国の政策により、和泉銀行、寺田銀行、岸和田銀行と合併して阪南銀行と名称が変更されました。
更に昭和17年には富田林銀行、辻林銀行と合併後、昭和20年に住友銀行に合併され、岸和田本町支店となりましたが、その後、支店の統合により廃止され、建物は岸和田市の水道局庁舎となった後、昭和56年に解体されたそうで、現在は看板だけが掲げられています。

・第五十一国立銀行跡地があります。


「円成寺」
円成寺は浄土真宗大谷派の寺院です。
天文5年(1536年)信濃の国の武士、加藤主計(かずえ)が出家して釈専称と号し、諸国を遍歴の後、岸和田村に坊舎を建立し、人々に浄土真宗の布教を行ったのが始まりとされています。


「吉田松陰逗留地」
嘉永6年(1853年)2月、吉田松陰は大坂沿岸の警備状況を視察するために岸和田を訪れ、塩屋平衛門宅(現久住家)に滞在しました。
岸和田に滞在中、藩儒でもあった相馬九方(きゅうほう)ほか藩士らと、藩校講習館の一室で囲炉裏を囲み、茶を飲み、せんべいをかじりつつ、夜を徹して時勢や詩文について議論を重ねたそうです。
この時、松陰は頻繁に姿を表すようになった外国船に対し、海防が手薄であることを繰り返し説いていたと言われています。

・吉田松陰が滞在した久住家住宅です。


古い町屋が並ぶ岸和田市内の紀州街道沿いの景観です。

「紀州街道一里塚跡(一里塚弁財天)」
ここに掲げられている説明によれば、
一里塚とは、江戸幕府の命により慶長9年(1604年)、江戸の日本橋を五街道の起点と定め、36町歩を一里と定め、一里ごとに塚を築造し、榎、松などを植えさせたのが始まりだと言われています。
紀州街道は脇街道、紀州往還道であるため、大坂の高麗橋を起点として、和歌山城下まで一里塚が設けられていました。
由緒によれば、弁財天は元々は一里塚に植えられていた松の下に小祠があったものを、天保7年(1836年)8月頃に弁財天として社殿をつくり、現在のところに遷座したものとされていて、現在も街道を往来する人々を見守り続けています。

・紀州街道の一里塚に建てられた弁財天(一里塚弁財天)です。