らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

ジオラマで見る懐かしの昭和(3)

2017-10-13 | 地元紹介

「ジオラマで見る懐かしの昭和」シリーズは今日が3回目です。
ここに展示されているジオラマ人形は900体ほどあることから、その全てを取り上げることはできませんが、出来るだけご紹介しようと思っています。

“ちちんぷいぷい”の取材に応じていたジオラマ人形作家・南條 亮(あきら)は、今回の展示について次のように話していました。
「去年ガンになった。気が付いたらステージ4の真ん中です。それって死ぬんじゃないの。」
これから未だ仕事がしたいと思って、これ(ジオラマ)も含めて、「僕はあと何年生きられるんですか?」と医者に聞いたら、「2年持つかどうか」と言われた。
その時には「エッー」と思って・・・。
「そしたらもう時間がないじゃないか」と思って、「倉庫にこの人形たちを眠らせたままほったらかして死ぬわけにはいかないから、とにかく生きている間に作品をもう一度見ていただける場所を作りたい」と思ったということです。
更に続けて、
「これは自分の構想の中では一部なんだ。明治時代から100年を表現しようと思って始めたので、それの3分の1くらいしかできていない。だからこれからジオラマを作れるかどうかは体力的にも自信がない。ジオラマ以外にも表現方法はいっぱいある。自分が亡くなった後でも違う形でもいいから作り足して誰か別の人が共感してくれる好きな人に引き継いで発展してもらえたら嬉しい。」と。

「長屋の風景」
・井戸の傍で盥(たらい)と洗濯板で洗濯する風景です。昔懐かしい長屋の一面ですね。


「にわとり小屋」
町では庭や空き地で鶏をよく飼っていた。鶏の世話をするのは大概子供の役だった。気の強い鶏に子供が追いかけられて泣き出す事もしばしばだった。と説明しています。

鶏と言えば、私が子供の頃の私の実家では、この鶏が大切なタンパク源で、御馳走でした。
正月やお祭りなどの時には、卵を産まなくなった一羽が犠牲になり、私たちの口に入ることになっていたのです。
子供の時は、その残酷な様をよく目にしていました。



「畑と肥たんご」
畑の傍には便所から汲み取った下肥を溜めておく通称「肥たんご」があった。天日干しでカチカチになったところへ石を投げて割ってしずくがかからないように走って逃げる遊びがあった。その後「肥たんごの」縁に立って、割れた穴の処をめがけて、みんなで思いきり小便をとばしてその勢いを競い合った。
ジオラマの案内にはこのように書かれていましたが、私が子供の頃は、便所から汲みだした下肥を父親が畑まで天秤に担いで運んでいたのを覚えています。
勿論、畑の肥料として施されるのです。

・ジオラマでは家の傍に畑や「肥たんご」を置いますが、これは展示スペースの関係だと思います。


「明治の道頓堀」
当時の道頓堀は現在と変わらないほどの賑わいでした。橋は戎橋で大きな建物は中座です。建築基準法などなかった当時、木造二階建ての家の上に更に家を建て増しして積み重ねると言う大胆な事が行われていました。左端の舟は「牡蠣船」です。

・戎橋と言えば、以前は若い女性を引っかける場所として「引っかけ橋」と言う別名がありましたが、グリコの看板がすぐ傍にあることから、近年では外国人旅行者に人気の観光スポットとなっています。


「明治の小学校」
子供たちはみんな着物姿です。このジオラマでは男の子、女の子が一緒に並んでいますが、当時は男女別々が普通でした。



「料亭」
大店の旦さんたちは道頓堀の料亭で取引先を持て成しました。

道頓堀の料亭風景です。