葛木二上神社の後は、中将姫ゆかりのお寺として知られている石光寺へと向かいました。
「石光寺」
石光寺(せっこうじ)は浄土宗の寺院で、山号は慈雲山、本尊は阿弥陀如来です。
出土遺物等から飛鳥時代後期(白鳳期)の創建とみられる古寺で、中将姫伝説ゆかりの寺院です。
境内には中将姫が蓮糸曼荼羅を織成する際に蓮糸を染めたという井戸「染の井」と、糸を干したという「糸掛桜」があることから「染寺」とも言われています。
また、ボタンの寺としても知られており、境内にはボタン、シャクヤク、アジサイ、サクラ、サルスベリなどが植えられています。
関西花の寺二十五霊場20番札所になっています。
・石光寺の山門です。
「相観の沙(そうかんのすな)」
「砂」を「沙」と書くのはお釈迦さまが沐浴されたガンジス河の砂に例えているからなのだそうです。
阿弥陀教には、ガンジスの砂の数ほどの数え切れないくらいの諸仏が阿弥陀を信じ、極楽往生を願う念仏の衆生を護念し給うくだりがあることから、ガンジス河の砂に例えているようです。
砂の形は手前が方形、後方が円形になっています。手前の方形は私たちの姿、世界を表しています。
方形、即ち四角な物体は、一見、強く、安定した形に見えますが、崩れやすく角も欠けやすいもので、私たちの姿を表していると言うことです。
円形、即ち球体は「超えた世界」、覚りの世界及び仏を意味します。絶対の世界、壊れない世界で、柔軟に全ての事に対応できる智恵の姿だそうです。
「相観の沙」は凡夫が「仏様助けたまえ」と念仏を唱える姿だということです。
「本堂」
天智天皇(626年~671年)の時代、霊光を放つ大石が見つかり、天皇の勅命を受けてこの石に弥勒如来を彫らせ、堂宇を建立したのが石光寺の始まりと伝えられています。
開山は修験道の祖・役小角(えんのおづぬ)です。
平成3年の弥勒堂建て替えの時に石造弥勒像が発見され、言い伝えが実証されたと話題になったそうです。
因みにこの弥勒像は日本最古の石仏だそうです。
「中将姫 染の井 糸懸桜」
聖武天皇の時(750年頃)に、当麻寺で「蓮糸曼荼羅」を織ったいた中将姫が、この寺の井戸で蓮糸を洗い五色に染め、桜の木にかけて乾かしたというので、この桜を「糸かけ桜」、井戸を「染の井」といいます。
「中将姫伝説」
聖武天皇の御代に右大臣藤原豊成(藤原鎌足の曾々孫)の娘に中将姫がいました。5歳にして母を亡くし、継母に育てられました。世に言う継子いじめに遭われ、ついに世をはかなんで17歳で出家し、当麻寺に籠ったのです。
そして、生身の阿弥陀を拝みたいと毎日毎夜念じている内に、ある時霊感を得られ、蓮を集めて、その茎から糸を撚りだし、ここの井戸で洗い清め、桜の木(役行者が仏教興隆を願って植えた木)に掛けて干すと、乾くに従って五色に染まりました。
この糸で二人の化尼(観音・勢至両菩薩の化身)の助けで一夜のうちに阿弥陀浄土図を織り上げたのです。
これが世に言う當麻曼荼羅です。
「境内」
ボタンの寺として知られていますが、境内には他にもシャクヤク、アジサイ、サクラ、サルスベリなどが植えられています。
冬に花を咲かせるボタンには、寒ボタンと冬ボタンの2種類あります。
・寒ボタンは、二期咲きのボタンで、自然の中で時期が来れば咲き、その見頃は、だいたい12月~1月頃です
花が自分自身で寒さ対策をしているため、茎が短く葉もほとんどありません。
・冬ボタンは、冷蔵庫と温室を使って人工的に春をつくり、この時期に花を咲かせる種類です。
こちらは、植物自体が春だと思って咲いているので、春と同じような大きな花を咲かせるタイプです。
因みに石光寺のボタンは『寒ボタン』で、當麻寺奥院は『冬ボタン』だそうです。