“熊野古道を歩く”シリーズの第3弾は今日の5回目で最終となります。
今回のシリーズは、有田川北岸のJR紀伊宮原駅から有田川を渡り、糸我峠を越えて、熊野古道の宿場としてにぎわった湯浅へ抜ける約7㎞の古道を歩きました。
「後白河法皇 腰掛け岩の跡」
逆川王子から400~500m程行った方津戸(ほうづと)峠の手前に「後白河法皇 腰掛け岩の跡」の石柱が建ててありましたが、説明板には秋葉神社の事が書かれていました。
腰掛け岩との関連が記されていないので詳細は分かりません。
「後白河法皇 腰掛け岩の跡」です。
「弘法井戸」
この井戸は、弘法大師が杖で突くと水が湧きだしたと伝えられている井戸で、昔は旅人の喉を潤したそうです。
「方津戸(ほうづと)峠で金山寺味噌売上金持参使者を迎える」絵図
これは「方津戸峠で金山寺味噌売上金持参使者を迎える」絵図です。
江戸時代の金山寺味噌製造が盛んだった頃、大坂方面に販売した代金は大阪の業者の方々が湯浅に持参して支払ったとされ、湯浅の製造業者が紀州藩の役人を伴ってこの方津戸峠に出向き、正装して到着を待ったそうです。
これは現在の方津戸峠です。
「湯浅伝統的建造物群保存地区」
湯浅町北町の伝統的建造物群保存地区の町並みです。
この伝統的建造物群保存地区は醸造業関連の町家や土蔵を代表とする近世から近代にかけての伝統的な建造物がよく残されている地区です。
醤油醸造など商工業を中心に発展した湯浅の町並みは、その重厚な歴史的風致を今日によく伝えていることから我が国にとって価値が高いと評価され、平成18年(2006)12月19日に全国初の醤油の醸造町として、国の『重要伝統的建造物群保存地区』に選定されたそうです。
「江戸時代の医者が用いた道具」
この北町の保存地区に江戸時代の医者が用いた道具が展示されていました。
その下には、湯浅町に生まれ、江戸時代の最も優れた心学者として高い評価を得ている鎌田柳泓(かまたりゅうおう)の紹介が書かれていました。
醤油製造業者「角長」の昔の仕込み蔵
これは「角長」の昔の仕込み蔵です。
「角長」は天保12年(1841年)の創業で、700有余年にわたって受け継がれてきた伝統の手づくり醤油の醸造法を現在に伝える湯浅で唯一の醸造蔵です。
ここに掲げられている説明によれば、『この建物は慶応2年(1866年)岡屋弥三右ヱ門建築の仕込み蔵です。往時の醤油道具を陳列し、古き蔵人たちの労苦を偲び、また彼らの優れた知恵の結晶を保存して、醤油の故郷 湯浅の証とするものなり。』角長店主とありました。
このシリーズでご紹介した王子は、44番目の糸我王子と、45番目の逆川王子の2か所ですが、私たちが歩いたこのコースも、その昔「蟻の熊野詣」と言われたほど賑わった熊野古道そのものです。
今回一緒に歩いた“歴史探訪同好会”のメンバー13名も、往時の“アリ”をの気持ちを十分感じたものと思います。
“熊野古道を歩く”シリーズ4回目は糸我峠から「逆川(さかがわ)王子」までをご紹介します。
糸我峠から急な坂道を下る途中に、伝説「夜泣き松」の石柱が立ててありました。
「夜泣き松伝説」
伝説によれば、この付近に後鳥羽上皇の手植えの木だと伝えられている大きな松の木がありました。
平治元年(1159年)、平清盛の熊野詣でに随行していた子供連れの女人がいました。(この清盛の吉野詣での隙を狙って源義朝が兵を挙げ、平治の乱が起こりました)
詣での途中、住民に「子供が夜泣きをするので大変困っている」と訴えた時、この近くの大きな松の木の皮を削って燃やし、その煙を吸わせると夜泣きが治ると言われました。
女人に、一度試してみてはいかがかと老女に勧められ、やってみたところ夜泣きが治ったとされています。
・夜泣き松伝説を伝える説明板です。
更に急な坂道を下ったところに「行者石」がありました。
「行者石」
もとは逆川沿いの祓い井戸のそばにあって、旅人はこの石の上で体を清め、道中の安全を願ったようです。
糸我峠から急な坂道を1㎞余り下るとそこに「逆川(さかがわ)王子」(逆川神社)があります。
「逆川(さかがわ)神社」
「逆川(さかがわ)神社」は国津神社に合祀されましたが、昭和12年に社殿と石段を新たに建立し再建されました。この逆川神社の奥に見える祠が「逆川王子」です。
「逆川王子」
説明板によれば、藤原宗忠の日記、1109年(天仁2年)10月18日に逆河王子と書かれているのが最も古い文献だそうです。藤原定家は「サカサマ王子」と呼んでいます。
この王子は江戸時代には吉川村の氏神として祀られ、神主が置かれていたようです。
明治時代には村社となっていましたが、明治43年の神社合祀で田村の国主大明神(現、国津神社)に合祀されました。
王子の名の由来は、定家が王子の近くを流れる川のことを「水が逆流しているので、この名がある」と日記に書いているように、付近の多くの川とは異なり、西の海の方へは流れず、東へ流れているところから逆川と呼ばれたようです。
逆川王子の祠です。古来の形を伝えていると言われています。
「吉川の名の由来」
通常は海に向かって流れる川が逆さに流れているので逆川と名がついた。それに伴い近くにあった神社も逆川神社と呼ばれ、この土地も逆川と称するようになったようであるが、土地の人はこの名を嫌い、吉いことのあるように祈って村の名を吉川と改名したと伝えられています。
「逆川(川の名前)」
紀州の川は地形状東から西へ流れるのが通常ですが、この川は東が低く、西が高いため水は西より東に流れているため『逆川』と名付けられたようです。
この川は東に流れて山田川に合流し、湯浅湾に入るそうです。この「逆」を嫌って村の名を吉川にしましたが、川の名前は「逆川」のまま残っています。
“熊野古道を歩く”シリーズ、3回目の今日は「糸我(いとが)王子」から糸我峠までをご紹介します。
糸我稲荷神社から400m~500mくらい行ったところに「糸我(いとが)王子社」の小さな祠があります。
「糸我(いとが)王子」
「糸我(いとが)王子社」の説明板によれば、藤原宗忠は、天仁2年(1109年)10月18日に有田川に架かる仮橋を渡って、伊止賀(いとが)坂を登っていますが、王子の名はその時の日記には書かれていないそうです。
それから約100年後、藤原定家は後鳥羽上皇の熊野御幸に随行して、「いとカ王子」に参っていますが、「糸我王子」と正しく書いたのは藤原頼資(ふじわらよりすけ)の日記だそうです。
頼資は修明門院(しゅめいもんいん)に随行して承元4年(1210年)4月25日にこの王子社に参拝しているそうです。
説明板では更に続いて、糸我王子社は近世には廃絶していたらしく、『紀伊続風土記』に、「廃糸我王子」と記されています。
また、この付近には、「水王子社」「上王子社」がありましたが、地元では「上王子社」を糸我王子社に比定しています。両王子社は明治時代、稲荷神社に合祀されましたが、平成7年、愛郷会の人たちによって当地に「糸我王子社」として再建されました。
・「糸我王子社」です。平成7年にこの場所に移設されました。
「糸我王子社」からしばらく歩くと「糸我王子社跡」の標柱が立っていました。この場所が古来の「糸我王子社」の址のようです。
「糸我王子址」
ここに立てられている説明板によれば、
王子とは、若一王子(にゃくいちおうじ)をいい、祭神は天照大神である熊野三山をはるかに拝まれ、また休息されたところを言う。
糸我坂への登り口左側の畑の中にありましたが、明治40年稲荷神社に合祀されました。
「糸我王子」は『御幸記』に「イトカハ王子」とあり、後世「糸我王子」と称されたが江戸時代には「上王子」と呼ばれていました。これは下の「水王子神社」に対して上にあるためそのように呼ばれたものと思われています。
と記されています。
・ここが古来にあった「糸我王子社」の址です。現在は標柱が立ててあるだけです。
糸我王子から糸我峠へ登る急坂前の休憩所です。ここで一息入れた後、高さ150mの糸我峠超えを目指します。
ジグザグに造られている竹やぶの中の急な登り道です。
糸我峠頂上には「明恵上人(みょうえしょうにん)遺訓」の説明板が立ててあり、次のように書かれていました。なお、明恵上人は鎌倉時代前期の華厳宗の僧で、現在の和歌山県有田川町の出身だそうです。
「明恵上人(みょうえしょうにん)遺訓」
当時の執権・北条泰時が上人に尋ねられたことは「乱世を治めるにはどのようにすればよいのか」と。
上人は〈阿留邊幾夜宇和〉の七文字を持つべきなりとあり「僧は僧あるべきようわ、裕は裕のあるべきようわ、臣は臣のあるべきようわ、帝王は帝王のあるべきようわ、なり、このあるべきようわを背く故に上手くゆかないのであると諭した。とあります。
急坂を登りきったところが糸我峠の頂上です。暑い中の峠越えはきつく、メンバーの内70歳代後半の一人がバテ気味になり、ここで昼食時間を含め1時間余りの休息をとることにしました。
糸我峠からの湯浅町の眺望です。正面に見える丘の頂には風車がたくさん設置されていました。
これがズームで撮影したその風車です。原子力発電に代わる次世代発電の一つですが果たしてどのくらいの発電量が確保できるのでしょうか?
“熊野古道を歩く”シリーズ、2回目の今日は糸我稲荷神社(いとがいなりじんじゃ)をご紹介します。
得生寺から200~300mほどのところに糸我稲荷神社があります。
「糸我稲荷神社」
当社の伝記によると、第27代安閑天皇2年(535年)に、長引く凶作を憂えた村人が、高山に登拝し、数日にわたって供物を捧げ、豊作を祈念したところ、倉稲魂命(うがのみたまのみこと)が降臨し、御神託を下され、その神託に従ったところ、豊作を迎えることができたといわれています。
そして、時移って第36代孝徳天皇の時代、白雉3年(652年)に、社地を正南森に遷座し、糸鹿社と改称し、現在の形を迎えたとされています。
この神社は日本最古のお稲荷さんとしての称号が与えられている神社です。稲荷神社の総本社である京都伏見稲荷大社の創建年(711年)よりも約60年も古く、社前鳥居に「本朝最初 稲荷神社」の額が上っています。
御祭神は本殿に倉稲魂神(うがのみたまのかみ)脇宮は左に土御稚神、右に大市姫命が鎮座しています。
「白河法皇みくるまよせたまひし旧跡」
糸我稲荷神社の前に白河法皇が駕籠を止めて休憩した旧跡があります。
ここの建てられている説明によれば、『古代から中世にかけて熊野三山の信仰が高まり、上皇たちがたびたび熊野に参詣されるようになり、楠の古木生い茂る当神社にたどり着き、ここに駕籠を止め休憩した証として有名』と記されていました。
「糸我稲荷神社楠の大木」
稲荷神社の楠の木は記録によると、明治13年までは4本あったとされています。現在は3本ですが、その配置から見ると境内の四隅に計画的に植えられていたことが窺えるそうです。
3本とも樹勢は旺盛でそれぞれの幹の廻りは5mから6.5mに達し、樹齢も500年以上だそうです。
「みぬさの楠」
この大楠の説明文によれば、上皇方が参詣の折り、奉幣(神に奉献するもの)。その弊を納めたところを「みぬさの丘」と称し、この大楠を「みぬさの楠」と呼んでいます。
この楠は樹齢600年とも800年とも言われ有田市の天然記念物に指定されています。
「みぬさの岡の旧跡」
ここに建てられている説明によれば、『熊野への道中、平忠盛をして白河法皇が旅の安全を祈願し奉幣された「みぬさの岡の旧跡」です』と記されています。
先日、以前、私が勤めてい会社のOB会の一つ”歴史探訪同好会”メンバーと熊野古道(紀伊路ルート)を歩いてきました。
そこで今日から「熊野古道を歩く」シリーズを数回に分けてご紹介します。
私が熊野古道を歩くのは今回が3回目です。
前回の第2弾はJRきのくに線・海南駅(和歌山県)近くの「藤代王子」から「山口王子」までの14㎞程の古道を歩き通し、その記事は5月10日から20日まで当ブログにアップしています。
今回は13名が参加し、出発地点であるJRきのくに線・紀伊宮原駅に集合後、最初の王子である44番目の「糸我王子」を目指しました。
途中、スタートから2㎞弱のところで得生寺(とくしょうじ)に参拝しました。
・得生寺の境内です。
「本堂」
得生寺は「中将姫の寺」として有名です。
中将姫(ちゅうじょうひめ)は天平19年(747)に右大臣藤原豊成の娘として生まれますが、姫が13才のとき継母のため奈良の都から糸我の雲雀山に捨てられ、3年の間に称賛浄土経一千巻を書写したと伝えられています。
また、姫の従臣伊藤春時(剃髪して得生となる)が姫を養育した所に草庵を結び、安養院と号したのが始めといわれています。
・得生寺(浄土宗)本堂です。
「中将姫伝説」
聖武天皇の御代、中将姫は747(天平19)年に右大臣藤原豊成の娘として生まれました。琴に長じ天皇の寵愛を得たが13歳の時に継母の恨みをかい、奈良の都よりはるかなる紀州有田の雲雀山に捨てられ、やがて殺害せよとの命を受けて、伊藤春時がこの地にやって来ました。
しかし、継母の心がなおるようにと写経に専念する姫の姿に打たれた彼は得生と名乗って出家し、同じく出家した妻の妙生と共に姫の面倒をみることになります。得生寺の名前はここからつけられています。
やがて得生は病没し妙生が一人で姫を養っていたところに豊成公が狩にこの地に来られ、殺されたはずの娘と再会しました。そして都に連れて帰られますが、姫が17歳の時、自分の為に犠牲になった人々の菩提を弔うため大和の当麻寺に入り法如尼とよばれるようになります。
そして浄土曼荼羅を織り終えて二十五菩薩に迎えられ、29才の若さで短い生涯を終えたと言われています。
・中将姫御影堂(開山堂)
開山堂には、中将姫・春時夫妻の座像が安置されており、また、中将姫の作と伝えられる蓮糸縫三尊、紺地金泥三部経、称讃浄土経、大麻曼陀羅図なども所蔵されているそうです。
・「ぼけよけ地蔵」です。ボケ防止のためお参りしておきました。
この地蔵の横に「仏教の4つの戒め」が書かれていましたのでご紹介します。
・不忘語・・・うそを言うな
・不悪口・・・人の悪口を言うな
・不両舌・・・二枚舌を使うな
・不綺語・・・心にもないお世辞を言うな
今日は「土用二の丑」です。
「土用二の丑」とは、主に夏の土用の期間中にある2回目の「丑の日」を指して言っています。
今年の夏の土用の期間は、7月20日の土用の入りから8月7日の土用明けまでの19日間で、7月21日が1回目「丑の日」で「土用の丑」、そして今日の2回目の「丑の日」が「土用二の丑」です。
ウナギにとっては2回目の厄日となり、人間様にとっては美味しいスタミナ源にありつける嬉しい日です。(この日以外にもウナギはいつでも食べられますが…)
鰻にはビタミンAが豊富に含まれており、それ以外にもビタミンB,D,Eやたんぱく質、カルシュウム、鉄分などの栄養素があって、夏ばて防止に効果があるとされています。
昨日のスーパーのウナギ売り場の様子では「丑の日」程のウナギフィーバーになっていないように思いましたが、今日は栄養たっぷりのウナギを食べて、暑い夏を乗り切るれる体力をつけましょう。
スーパーや果物屋さんの店先には真っ赤に熟れた美味しそうな桃がならんでいますが、我が家の白桃も例年の1週間遅れで漸く収穫の時を迎えました。
4月の開花から約4カ月間の私の桃栽培の成果をご紹介します。
・4月6日に満開となった桃の花です。
我が家の桃は白桃なので光を通さないグレーの袋を使用して白く育てています。
このため、収穫の可否を判断するのが難しく、まだ青い未熟な果実をもぎ取る場合が多々あります。
白桃は岡山が発祥と言われており、同じ白桃でも赤く色をつける品種がありますが、元祖と言われる白桃は色をつけないと聞いています。
・我が家の白桃は色をつけないように白く栽培していますが。
今年は梅雨明けが早く、果実の肥大時期に当たる7月以降が少雨だった関係で、甘く美味しい桃ができました。
しかし、鳥や害虫も美味しい桃を知って寄ってくるのでしょうか、半分くらいは虫食いとなっています。
・7月31日に収穫した白桃です。このようにきれいに収穫できたのは全体の半分程度で残りは鳥害虫の被害に遭いました。
今年は少し早めに収穫しているので、その殆どがまだ硬めです。その場合は下記の保存方法で追熟させます。
保存方法
・硬い桃は紙に包んで風通しの良いところで常温保存し、追熟させます。
かたい状態のまま冷やすと甘みが出ず、また冷やしすぎも甘みが落ちます。
軽く指を当てて、やわらかみを感じれば食べ頃となります。
・食べる2~3時間前に冷蔵庫で冷やしすと美味しくいただけます。