らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

熊野古道を歩く(その7)「牛馬童子」

2013-05-21 | 趣味

昨日は元同僚の親戚が経営する民宿「ちかつゆ」にお世話になりました。
その日にはスイス人夫妻も泊っており、翌朝、私たちよりも早く出発しましたが、出発前に、このお二人が持っていた菅傘に書かれている文字の意味についてマスターに聞いていました。
たまたま小生もその現場に出くわしたことから書かれている文字を一緒に解読しましたが、この文字、行書で書かれているので日本人でも読みにくいものでした。
更にそれを英語で説明しなければならず、マスターと二人で単語を並べて説明したところ、ある程度は理解した様子でした。

スイスの自然の方が素晴らしいと思うのですが、外国の人がこのような田舎の古道を歩きに来るとは世界遺産の力ですね。

・お世話になった民宿「ちかつゆ」です


・民宿の横を流れる日置川(ひきがわ)です。
 一昨年の台風12号による紀伊半島豪雨の時には、水位がこの堤防を超えて庭に流れ込んだそうです。
 建物には被害はなかったとのことでした。


昨日、足を痛めたU氏も今朝は元気になり一緒に歩くことになりました。
二日目のスタートは、昨日の終点、「大坂本王子」を下った所の国道に面している「道の駅」からです。
私たち全員は2班に分かれて、そこまで民宿のマスターに送ってもらいました。

・朝8時過ぎの清々しい古道です。牛馬童子を目指して暫く上り坂が続きます。


歩き始めて暫くすると珍しい植物「マムシグサ」を見つけました。
マムシグサはサトイモ科テンナンショウ属の多年草で、有毒植物です。
分布は関東以西の本州、九州で、山地や原野の湿った林床に生えるそうです。



「一里塚」
ここにも一里塚がありました。
ここの一里塚には「和歌山から26里」と書かれており、昨日ご紹介した「十丈王子」の先の一里塚は「和歌山から25里」と書かれていたので、そこから一里先と言うことになります。



「箸折峠」
牛馬童子のある箸折峠です。
箸折峠のこの丘は花山(かざん)法皇が御経を埋めたところと伝えられ、お食事の際カヤの軸を折って箸にしたので、箸折峠と名付けられたそうです。



「牛馬童子」
牛馬童子は高さ50㎝程度の小さな石像です。
文字通り牛と馬の2頭の背中の上にまたがった像で、中辺路(なかへち)街道の中でも人気のスポットとなっています。

この「牛馬童子像」は一説には延喜22年(922年)に熊野行幸を行った花山法皇(かざんほうおう:天皇在位:984年11月~986年8月)の旅姿を模して明治時代に作られたとされています。
童子は弁財天に仕える16童子のひとりとされ、牛と馬の背にまたがった像の横には役行者(えんのぎょうじゃ)像が並んでいます。

ニュースでご存知だと思いますが、熊野古道のシンボル的存在であるこの「牛馬童子」の頭部が、過去2度に亘って外れた状態で見つかっています。
何者かにより故意に壊されたのかと思われましたが、田辺市教委の調査で犯人は、「急激な冷え込みなどの自然現象」によるもの、という結論に達したそうです。

・牛と馬の2頭の背中にまたがる愛らしい姿が人気を集める「牛馬童子」と右は「役行者」像です。



熊野古道を歩く(その6)「大坂本王子」

2013-05-20 | 趣味

十丈王子から次の大坂本王子までの道のりは約4㎞ですが、その3分の2は急坂もある上り道で、標高700m余りまで登ります。

この頃、メンバーの内の一人が、両足の太ももの筋肉が吊ってきて歩けなくなり、休憩を取ったり、マッサージをしながらの歩行となりました。
介抱しながらの歩行で、予定時間より大幅に遅れ、2時間余り要して漸く大坂本王子に到着しました。

・「一里塚跡」です。 石碑の横面には「和歌山から25里」と彫られています。


「上多和(うわたわ)茶屋跡」
説明板によれば、この山上は上多和と呼び、標高約600m、熊野詣の盛んな頃は、ここに茶店があったと言われ、大正期にも人家があって林中には三界万霊塔やお墓もあるそうです。
また、この山上には陰暦の11月23日の夜になれば、東の空に三体の月が現れるとの伝承があり、ここにあった注連(しめ)かけ松の下に大勢集まり、栗やきびの餅を供え、心経をくり、月の出をまったと書かれています。

・上多和茶屋跡を示す説明板です。なお、「田和」と云う言葉は山中の場所を表すのによく使われるようです。


「三体月伝説」
上多和(うわたわ)茶屋跡から20分ほど行くと、「三体月伝説」の地があります。
ここに書かれている説明によれば、
今は昔、熊野三山を巡って野中近露の里に姿を見せた一人の修験者が里人に「わしは11月23日の月の出たとき、高尾山の頂で神変不可思議の法力を得た。村の衆も毎年その日時に高尾山に登って月の出を拝むがよい。月は三体現れる」と。

半信半疑で村の庄屋を中心に若衆連が陰暦11月23日の夜高尾山に登って月の出を待った。
やがて、時刻は到来、東伊勢路の方から一体の月が顔をのぞかせ、アッという間にその左右に二体の月が出た。
三体月の伝説は上多和、悪四郎山、槙山にもあるそうです。

・「三体月伝説」の地です。


「逢坂峠」
逢坂峠の石碑です。
ここには「旅人の徒歩行き交ひしげきとき 父祖ここに住み茶屋いとなめり」 花仙
の歌が刻まれています。



「大阪本王子」
逢坂峠を越すと次の王子は「大坂本王子」です。
大坂本王子は逢坂峠東側麓近く、きれいな杉林の坂道を下った、谷川近くにあります。
名前の由来は大坂(逢坂峠)の麓にあるところから、この王子社名がついたようです。
逢坂峠は、急峻な坂道であるため、古くは大坂の名がついていたようです。

同行者1名が足を痛めて歩行困難となったことから予定が大幅に遅れ、木々に囲まれた古道が薄暗くなた6時過ぎに、漸くこの王子社に辿り着きました。
計画では次の近露王子まで行く予定でしたが、急遽予定を変更して国道まで下って民宿の主人に迎えに来てもらいました。

・大坂本王子跡の石碑です。



熊野古道を歩く(その5)「十丈王子」

2013-05-19 | 趣味

“熊野古道を歩く”シリーズも5回目となりました。

今日は十丈王子から悪四郎屋敷跡までをご紹介します。
大門王子から「十丈王子」までは約2㎞、高低差約150mを登ります。
きつい坂道を登って行くと途中に「イースの森」という標識が建っている場所があり、そこからの眺めが素晴らしかったので一息つきました。

・イースの森からの眺望です。


中辺路の熊野古道では、杉林の中に古道が造られている場所がたくさんあります。
ここでも古道の左右には杉の木が林立し、木漏れ日が古道をやさしく照らしてくれました。

・杉木立の中の熊野古道です。


「十丈王子」
ここに立つ説明によれば、この王子社は十丈峠の杉林の中にあり、現在は「十丈王子」と呼ばれています。
しかし、平安・鎌倉時代の日記には、地名は重點(じゅうてん)、王子社名は「重點王子」と書かれています。
天仁2年(1109年)10月24日、藤原宗忠は熊野参詣の途中、雨中に重點を通っています。
重點王子(じゅうじょうおうじ)の名は、建仁元年(1201年)10月14日、後鳥羽上皇の参詣に随行した藤原定家の日記に初見しています。

江戸時代以降、十丈峠、十丈王子と書かれるようになった理由ははっきりしていません。嘗てこの峠には茶店などを営む数軒の民家があり、明治時代には王子神社として祀っていましたが、その後、下川春日神社(現、大塔村の下川春日神社)に合祀され、社殿は取り払われました。

・十丈峠に建つ、十丈王子跡の石碑です。


「悪四郎屋敷跡」
十丈峠を越して30分余り進むと「悪四郎屋敷跡」があります。
説明文によれば、十丈の悪四郎は伝説上の有名な人物で、力が強く、頓知に長けていたといわれています。
悪四郎の「悪」は悪いと云う意味ではなく、勇猛で強いと言うような意味だそうです。
江戸時代の『熊野道中記』の一書に、十丈の項に、「昔、十丈四郎と云う者住みし処なり」とあって、それがここだとみられています。
背後の山は標高782mの「悪四郎山」でここから30分で山頂に登ることができるそうです。

「悪四郎屋敷跡」です。


「悪四郎伝説」
十条四郎については次のような逸話が残されています。
四郎は大変な力持ちでした。
ある時、太い松の枝に腰をかけていると熊野詣の一行がやってきました。四郎の腰をかけているのを見て、自分たちも松の枝に腰をかけました。
暫くして四郎は、「自分はもう出かけるから、お前さんらも腰を上げよ。そうでなければこの枝で跳ね飛ばされてしまうぞ。」と言いましたが、知らん顔をしているので仕方なく四郎は立ち上がると、腰をかけていたものはみんな松の枝で跳ね飛ばされてしまいました。
四郎は力持ちだったので、土地の人はみんな「悪四郎」と呼び、近くには悪四郎山があり、そこには悪四郎を祀る神社もありました。



熊野古道を歩く(その4)「大門王子」

2013-05-18 | 趣味

熊野古道を歩くシリーズの4回目は「大門王子」までをご紹介します。

高原熊野神社から程なく進むと、無料休憩所「霧の郷たかはら」があったのでここで昼食を取ることにし、許可を得ましたが、調べてみるとここは民宿のようでした。
各自持ち込みの弁当だったので、お茶や缶ジュースなどをここで買い求めましたが、少し気兼ねしながらの昼食でした。

・これが無料休憩所の「霧の郷たかはら」です。


「霧の郷たかはら」は標高300m以上のところに立地しており、ここには遮るものが無く、素晴らしい眺望でした。
すぐ下の段々畑は水を張っており、間もなく田植えが始まるようです。



同じく「霧の郷たかはら」からの眺めで、段々畑の反対側(左手)には水車が回っていました。


昼食の後は「霧の郷たかはら」から約2㎞先の大門王子を目指しました。
歩き始めて4~5分の道端にシャゲの花がたくさん咲いていたので、花好きの小生は早速カメラに収めましたが、これも古道を歩く楽しみの一つです。



杉木立の中に整備された熊野古道です。
枝打ちされていない杉の木が林立していましたが、現在は世界遺産として登録されているので勝手に伐採は出来ません。
枝は伸びていても、林立する杉の木は見事であり、この風景も立派な世界遺産なのです。



「大門王子」
大門王子(だいもんおうじ)は滝尻王子から3時間足らずの位置し、高原集落から十丈峠へ向かう山道の右手(標高は500m超)のところにあります。
説明によれば、名前の由来は、この付近に熊野本宮の大鳥居があったことによると言われており、いまも新社殿の奥に、大門王子の碑と並んで、鎌倉時代のものとされる石造の笠塔婆(かさとうば)があります。

平安時代からの休息地「水飲」もこの付近であったそうです。
ただ、大門王子の名は古い参詣記などには見えず、設置の新しい王子であり、一方、江戸中期にはすでに社がなく、緑泥片岩の碑が建てられていたということです。


「大門王子の老松」
以前は見事な松の大木があったそうですがマツクイムシの食害で枯死し、伐られました。





熊野古道を歩く(その3)「高原熊野神社」

2013-05-17 | 趣味

熊野古道を歩くシリーズの3回目は「高原熊野神社」までをご紹介します。

飯盛山(めしもりやま)展望台から30分余り登って行くと針地蔵尊が祀られていました。

「針地蔵尊」
針地蔵尊は地元の人達の「歯」の守り神だそうで、糸を通した針2本を立てて祈願すると歯痛が治ると伝えられています。

・針地蔵です。


針地蔵から急な山道を約15分登るとNHKのテレビ中継所がありますが、そこまではきつい上り坂になります。

・木の根が浮き出ている急な山道が続きます。足元に注意しつつ、坂の途中で休みを取りながらの前進です。


「夫婦地蔵」
高原熊野神社までの途中に、かわいらしいお地蔵さんが2体並んだ夫婦地蔵が祀られています。
謂れや説明はありませんでした。



夫婦地蔵まで登ると山頂の平坦な古道になり、視界が開けてきます。

・古道から眺めた山々です。ここでは爽やかな風が疲れた体を癒してくれました。


「高原熊野神社」
高原熊野神社は高原地区の産土神(うぶすながみ)で、熊野古道・中辺路(なかへち)沿いにあり、不寝王子と大門王子との間に位置します。
高原王子と呼ばれることもありますが、平安時代から鎌倉時代にかけてこの神社は存在していないことから、熊野九十九王子には入っていません。



「高原熊野神社の本殿」
春日造りの本殿は室町時代前期の様式を伝え、熊野参詣道中辺路における最古の神社建築として、県の文化財に指定されています。
この神社に伝わる懸仏(かけぼとけ)の裏面には応永十年(1403)の銘があり、若王子(にゃくおうじ)を熊野本宮から勧請したことが記されているそうです。




熊野古道を歩く(その2)「剣ノ山経塚跡」

2013-05-16 | 趣味

不寝王子から剣ノ山経塚跡へ向かう途中、10分ほど進むと木の根が浮き出ている坂道があります。
足をとられそうで歩きにくいですが、このような光景に出会うのも古道を歩く楽しみの一つです。

・土がえぐられて根っこが浮かび上がっている坂道です。


木の根がごつごつと浮き出ていると足を引っ掛けそうになりますが、私たち11名の老体一行はゆっくりと注意しながら安全第一で登っていきました。
このような急坂を5~6分登ったところに「剣ノ山経塚跡」があります。



「剣ノ山経塚跡」
剣ノ山の上は、古くは神聖な場所とされていました。
ここから熊野本宮へかけて九品(くほん)の門が建ち、ここには最初の下品(げほん)下生(げしょう)の門があったといわれています。

この経塚跡は経典を経筒に入れ、それを壺に納めて地中に埋めたところだそうですが、明治末期に盗掘され、ここから出た常滑(とこなめ)製の壺だけが、いま古道館に展示されています。
滝尻王子の社前にある笠塔婆という石塔も元はここにあったようで、経塚の上に立っていたと推測されています。



「飯盛山(めしもりやま)」
「剣ノ山経塚跡」から木々に囲まれた中を歩き続けること20分余り、標高340.7mの飯盛山(めしもりやま)山頂に辿り着きます。

・飯盛山(めしもりやま)の山頂です。国土地理院の標識と340.7mの標が立っていました。


「飯盛山(めしもりやま)」の展望台」
杉木立の中をひたすら歩いてきた後に、標高340.7mの飯盛山(めしもりやま)の展望台に上がって周りの景色を見渡すと、広々とした視界にホッとします。

・飯盛山(めしもりやま)の展望台です。


展望台は少し狭いですが、さえぎるものが何もない絶好の休憩ポイントです。
清姫伝説で有名な槇山、笠塔山、富田川の母なる山といわれる安堵山、ふもとに龍神温泉がある虎ヶ峰などがパノラマのように見渡せます

・展望台から北方方面の眺望です。遠くに見える山は紀伊山地の果無山脈で、眼下には栗栖川の町が見えます。



熊野古道を歩く(その1)「不寝王子」

2013-05-15 | 趣味

12日~13日の2日間、現役時代のOBで構成する”歴史探訪同好会”のメンバーと熊野古道(中辺路ルート)を歩いてきました。
今日から数回に分けて“熊野古道を歩く”シリーズとして、世界遺産「熊野古道」を記します。

今回のコースは途中に標高782mの悪四郎山の峠越えがある難所コースで、約22㎞ほどの山道を一泊二日で歩くものです。
参加人員11名の内、最年長者は75歳の男性1名、最年少者は60歳代前半の女性1名、その他のメンバーは既に古稀を迎えている人6名、他は数年以内に古稀を迎える人たちで、いずれも体力よりも口が達者な人たちが集いました。

第1回目の今日は、前回(昨年11月)の終点である滝尻王子から「不寝王子」までをご紹介します。

・滝尻王子に掲げられている案内図です。


「滝尻王子宮」
滝尻王子は熊野九十九王子の内で最も重要視された王子の一つで、社格の高い五体王子です。
古道はここから背後の剣ノ山へ登りますが、ここが熊野の霊域の入口とされていました。
後鳥羽上皇の一行もこの社前で御歌会を催されたと伝えられます。

・滝尻王子(たきじりおうじ)は、富田川と石船川が合流する地点にあり、「滝尻」の名は、石船川の急流が富田川に注ぐ滝のような水音からきたと云われています。


・滝尻王子跡には皇太子殿下が行啓された石碑が建っています。


滝尻王子から古道は山林に入り、400mほどを一気に登ることから、熊野古道(中辺路コース)の魅力を存分に楽しめますが、アップダウンの激しい山道となります。

・オレンジと白色の帽子を被っているグループが私たちのメンバーです。


「胎内くぐり」
滝尻王子から急な山道を300メートルほど上ったところには「胎内くぐり」と「乳岩」があります。

胎内くぐりとは、古道に沿って横たわる巨大な岩があって、そこには人ひとりがやっと通れる程の穴(岩と岩のすき間)があいています。
地元の人は、春秋のお彼岸の日には、この岩穴をくぐって山上にある亀石と呼ばれる石塔に参ったそうです。
この岩穴をくぐることを、胎内くぐりと言い、女性が胎内くぐりをすれば安産になると信じられていたことから、女性は必ずこの胎内くぐりをして行ったそうです。

・これが「胎内くぐり」がおこなわれた岩穴です。現在は通れません。


「乳岩」
乳岩の謂れ、、
奥州平泉の藤原秀衡(ふじわらのひでひら)が、妻が子種を授かったお礼に熊野参詣をしました。
秀衡は妻を伴って本宮に参る途中、滝尻で、妻はにわかに産気づき、男の子を出産しました。
生まれたばかりの子をつれて熊野詣をするわけにも行かず、やむなく岩屋に子供をあずけ、参拝をすませて帰ってくると、子供はオオカミに守られ、岩から滴り落ちる乳を飲んで、元気にしていたと伝えられています。
この子が成長して秀衡の三男の和泉三郎忠衡になったと言う話があるそうです

・こちらは乳岩です。


「不寝王子(ねずおうじ)」
滝尻王子から背後の剣ノ山の坂道を400mほど登ったところに不寝王子の跡だとされる場所があります。上記の藤原秀衡伝説で知られる「乳岩」の少し上方になります。

ここの説明板によれば、中世の記録にはこの王子の名は登場しません。王子の名が載せられているのは江戸時代、元禄年間頃に著わされた『紀南郷導記』です。
これにはネジ或いはネズ王子と呼ばれる小社の跡があると記され、「不寝」の文字が当てられています。
この頃既に跡地となっていたようで、またネズの語源も明らかではありません。
江戸時代後期の『紀伊続風土記』では、「不寝王子廃止」となっており、今は滝尻王子社に合祀されていると記されています。

・不寝王子(ねずおうじ)です。




ショートケーキ

2013-05-14 | 雑学

12日~13日の2日間、留守をしたためブログの書き込みを休みましたが、今日から再開しますのでよろしくお願いします。

今日は女性の方なら目が無いであろうと思われる「ショートケーキ」、その由来について調べました。

ショートケーキの'short'は、「短い、繊維のある」という意味から、もろい・崩れやすい・さくさくするという意味でも用いられる語だそうです。
一説によると、ショートケーキの由来はアメリカだそうです。
ショートケーキは「ショートブレッド」ともいい、バターやラードなどのショートニングを使って作られ、サクッとしたビスケットのようなものであったことから、「ショートケーキ」と呼ばれるようになりました。
アメリカでショートケーキと言えば、パンの間にイチゴなどを挟み、上にクリームを乗せたbiscuitと呼ばれるものがショートケーキと呼ばれるものだそうです。

・これがアメリカ式ショートケーキです(ネットより)


一方、日本最初のショートケーキは、大正11年(1922年)、不二家の創設者である藤井林右衛門氏によって販売された、スポンジを使って日本人向けに改良されたものだったそうです。
日本ではショートケーキと言えば不二家のショートケーキの類を指すようになったそうです。

・お馴染みの日本のショートケーキです。(ネットより) 



アヤメ

2013-05-11 | 

毎日、畑でラジオを聴きながら作業をしていますが、先日、カキツバタの開花ニュースを報じていました。
カキツバタ(杜若)はアヤメとよく似た花で、この二つの花は、昔からどちらも素晴らしく優劣をつけがたいという、「いずれ菖蒲(アヤメ)か杜若(カキツバタ)」の慣用句に用いられていますが、その一方の花、「アヤメ(菖蒲)」が私の畑に咲いているのでご紹介します。

アヤメはアヤメ科アヤメ属の多年草で、水とは関係ない畑や山野の草地にも生えます。
葉は直立し、草丈は50~80cm程度、5月頃に花径8㎝ほどの紫色の花をつけます。
前面に垂れ下がった花弁(外花被片)には網目模様があるのが特徴で、この花の和名の基になっています。

・畑に咲いているアヤメです。一日花で、前日咲いた花は翌日には萎れます。


ところで、読者のみなさんは慣用句に言われている、「アヤメ」と「カキツバタ(杜若)」、そして「ハナショウブ(花菖蒲)」の見分けができるでしょうか?
各々の特徴を簡単にご紹介します。

「アヤメ」の特徴
・花色は紫色で稀に白色もあるようです。
・花(外花被片:垂れ下がる方)の付け根に黄色と紫の虎斑模様(これが文目です)があります。
・葉は長さ30~50cmで、幅は5~10ミリの剣状をしており、中脈は余り目立ちません。
・水とは関係のない山野や畑などの乾いたところにも育ちます。
・花期は5月上旬~中旬
・和名の文目(あやめ)は、外花被の基部に綾になった目があることが名前の由来となっています。

・アヤメは花弁の網目模様が特徴です。


「カキツバタ」の特徴
・花色は紫色、白色などです。
・花には、網目模様はなく、外花被片に白ないし淡黄色の斑紋があることなどが特徴です。
・水湿地に群生する多年草で、葉の中央に葉の中央に隆起腺(中脈)がありません。
・花期は5月中旬~下旬
・名前の由来は、「書き付け花」が転訛したものと言われています。

・カキツバタです。花弁の中心部にある白い斑紋が特徴です。(ネットより)


「花菖蒲の特徴」
・花色は紫色(青紫,赤紫)や白が多く、花には、網目模様がなく、外花被片に黄色い斑紋があり、大きいもので直径20㎝くらいになります。
・適地は、水辺など湿ったところに群生します。
・花期は6月上旬~中旬

・花菖蒲です。花が大きく、花弁の中心部の黄色い斑紋が特徴です。(ネットHPより)


「お詫び」
  いつも当ブログにアクセスいただきありがとうございます。
  誠に勝手ながら、明日12日と13日は休ませていただきます。
  14日から再度書き出す予定にしていますので、引き続き宜しくお願い致します。


愛鳥週間

2013-05-10 | 雑学

今日5月10日から16日まで、愛鳥週間(Bird week)です。
そこで今日は愛鳥週間について調べました。

愛鳥週間は1894年、アメリカ・ペンシルバニア州オイルシティー市の教育長をしていたバブコック氏が、毎年4月10日に行われていた植樹祭と結びつけて小鳥を守ろうと「バードデー」を考えたのが始まりで、1894年5月4日に行われました。

日本では、1947年(昭和22年)に鳥類愛護運動の推進母体として日本鳥類保護連盟が結成されたのを契機に、国民の愛鳥思想の高揚を図るため、毎年4月10日が「バードデー」と定められました。
その後、1950年(昭和25年)に、5月10日から同月16日までの1週間が「愛鳥週間(バードウイーク)」と改められ、現在に至っています。

・庭のフェンスに咲いているチロリアンランプの蜜を啄みにくるメジロです。


愛鳥週間(バードウィーク)の愛鳥とは、鳥を手元において可愛がるということではなく、自然の中で自由に飛び回る鳥を愛でるということです。
我が家では、花の蜜を啄みに来る小鳥を毎日見られることから、一年中が愛鳥日です。

・スズメも飛んできます。他にもヒヨドリやモズ等も飛来します。


愛鳥週間は、単に鳥だけでなく、鳥にとって棲みよい環境、つまり、鳥をとりまく生態系をふくめて守っていこうという愛鳥思想を普及するため、象徴として定められた一週間です。 

・我が家における愛鳥事例です。1月17日にご紹介した「脳震盪を起こしたメジロ」を介抱しているところです。