らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

ジオラマで見る懐かしの昭和(1)

2017-10-11 | 地元紹介

「降る雪や 明治は遠く なりにけり」
これは昭和6年に中村草田男が詠んだ句です。

この句の意味は、
雪が盛んに降っている。その雪に現実の時を忘れ、今が二十数年前の明治のころそのままのような気持になっていた所、ふと現実にかえり、しみじみ明治は遠くなってしまったと痛感するものだ。
と言うことを詠んでおり、

その背景は、
20年ぶりに母校の小学校付近を歩いていると、母校は昔のままと変わらないなあと思いつつ、その当時の服装、黒絣(くろかすり)の着物を着て高下駄を履き、黄色の草履袋を下げていたのを思い出しました。
その時、小学校から出てきたのは金ボタンの外套を着た児童たちでした。
現代風の若者を見ると、20年の歳月の流れを感じさせられる。そして、明治のよき時代は遠くになってしまったものだと感じたということです。

この句と同様、昭和も戦後72年が過ぎ、戦後の廃墟の中の苦しい生活とその後の高度経済成長、そして世界第2位の経済大国に発展しバブルを経験した懐かしい時代が遠くになってしまった感があります。
そんな懐かしい時代を思い出させてくれる展示が、関西空港の対岸に位置する泉佐野市の「いこらも~る泉佐野」で10月1日まで開かれていました。

先月下旬にHNKで紹介していたので、見学に行ってきました。
今日から数回に分けてご紹介したいと思います。

この展示は「ジオラマで見る懐かしの昭和」と題して、「戦後の街」「風呂屋」「八百屋と駄菓子屋」「長屋と広っぱ」「演芸会」「給食・小学校」「道頓堀」などの戦後の昭和を、ジオラマで再現しているものです。



今から70年前の昭和には戦争と言う辛い時代がありました。
生き生きとした町の隣にはボロボロになった人たちの姿、貧しく残酷な昭和でした。
そのような様子をジオラマ人形が生き生きと語りかけています。
ここに展示されているそのジオラマ人形はおよそ900体だそうです。

・戦後の大阪の街を再現しています。


「戦後の町」
焼け野原の街には人々が溢れていました。
食べ物を求めてさまよう人々にはそれでも安堵の表情があったのです。
親や家を失った子供たちは行き場を失って浮浪児となり、がれきの街に放り出されましたが泣きごとを言う間もなく、子供の彼らには再び生きるための熾烈な戦いが待っていました。

・終戦直後の大阪の様子を再現しています。


同じく終戦直後の様子です。


「ギブミーチョコレート」
終戦直後にはMP(米軍の憲兵)をよく見かけました。
米軍の兵士が来ると、子供たちは「ギブミーチョコレート」と言って食べ物をねだっていたものです。
その様子がよく再現されています。



・ガード下のスラム街を再現しています。


・懐かしいオート三輪や大八車も作られています。




赤の他人

2017-10-10 | 雑学

日常会話の中に出てくる慣用句に「赤の他人」があります。
会話の中では、例えば、「あの人は全く縁もゆかりもございません。赤の他人でございます」などと使用されます。
皆さまもお使いになったことがある言葉だと思いますが、この「あか」とはどのような「赤」なのでしょうか?

そこで調べてみました。
光文書院の「漢字に強くなる本」の中にその語源が次のように説明されていました。

「赤の他人」の慣用句の「他人」の前にに付いている「あか」はどんな「あか」か?
この問いに対して、一説には、梵語の「閼伽(あか)」が語源とする説としています。
この「閼伽(あか)」は仏に供える水のことで、水のように冷たい関係の他人の意味から出たとする説です。

他には、「あか」は「明(あか)」、即ち、「明らかな」という意味で、名詞を強調している「赤」とする説があります。

更に、中国の古い書物「漢書(かんじょ)」には、「空尽(くうじん)にして物無きを赤(せき)という」とあり、「赤脚(せっきゃく:素足のこと)」、「赤手(せきしゅ:素手のこと)」などの熟語からも分かる通り「赤(せき)」には何もない、と言う意味があり、そこから「何も関係がない」と言う意味で「赤(せき)」の訓で「あか」が他人の上についたとする説もあると言うことです。

この辞書には有力説は記載されていませんが、ネットの語源由来辞典では「明らかな」という2番目の説を支持しているように書かれています。
いずれにしても、明らかに自分とは関係ない人、他人であると言うことを強調して「あか」という言葉が付いているようです。




熊取だんじり祭り

2017-10-09 | 地元紹介

10月に入り、全国各地で収穫を祝う「秋祭り」が行われている事と思います。
大阪泉州地区の秋祭りといえば地車(だんじり)を曳く「だんじり祭り」ですが、この祭りが、一昨日の7日(土)と昨日の8日(日)の二日間に亘って泉州の各市町で催され、泉州地区は祭り一色となりました。
私の地元、熊取町でも「熊取地車(だんじり)祭り」が行われたのでご紹介します。

・槍回しをしている小垣内地区の「地車(だんじり)」です。 


熊取の「だんじり祭り」は、毎年、体育の日の前日と前々日に行われます。
この祭りがいつ頃から始まったのか明らかではありませんが、文化2年(1805年)に大久保のだんじりが新調された事が記録されていることから、少なくても212年ほどの歴史があるということです。
昔から五穀豊穣を願ったこの秋祭りは長い歴史を持つ伝統行事であり、地区の人々の心と心を繋ぐ大切なイベントとなっています。



熊取の地車(だんじり)は町内の11の地区が各々所有しており、初日に大森神社へ宮入りすることから始まります。
大森神社は、中世、雨山神社・野田神社とともに熊取荘の三社として信仰を集めた神社で、ご祭神は菅原道真、事代主命がお祀りされています。

・小谷(おだに)の槍回しです。屋根の上で音頭をとっている大工方(だいくがた)の華麗な動きが槍回しの華です。


宮入り後の「地車(だんじり)」は、太鼓のお囃子も小気味よく、町内のパレードに出ていき、そして勇壮な槍回しなどが行われます。
槍回しとは、スピードをつけたまま、「地車(だんじり)」を直角に曳き回す曳行方法です。

・大久保東の交差点で槍回しを行う久保地区のだんじりです。


各だんじりには見事な彫刻が彫られています。
野田地区のだんじり彫刻をご紹介します。

・野田地区のだんじりに彫られている彫刻です。彫刻師は安田卯ノ丸、相野徳兵衛、保田卯之松の三氏です。


・野田地区のだんじりの彫刻です。「鶴岡八幡宮鳥逃がし」だそうです。彫刻師は安田卯ノ丸、相野徳兵衛、保田卯之松の三氏です。


・同じく野田地区の彫刻です。資料によると、彫刻師は安田卯ノ丸、相野徳兵衛、保田卯之松の三氏です。



クロアゲハの飛来

2017-10-08 | 地元紹介

昨日、鉢植のレモンの木にクロアゲハが1匹飛来しました。
春先の花が咲いている頃はモンシロチョウや野鳥の飛来はありましたが、クロアゲハこれまでに来た事はなく、初めてのことです。
今日は庭に飛来したクロアゲハをご紹介します。

クロアゲハが飛来したのはレモンの木で、木の周りを何回も飛び回っていました。
この時期、レモンの木には花はなく、青い実が生っている状態です。
花がなければ蜜を啄みに来たのではない事だけは確かです。

では、何故レモンの木の周りだけを飛び回っているのか?
不思議に思って調べてみると、どうやら卵を産みつけに来たのではないかと思われます。
カメラを向けると気が付いたのか飛び去りました。

・静止しないのでしかとは分かりませんが、多分この蝶はクロアゲハだと思います。


クロアゲハは鱗翅目(りんしもく)アゲハチョウ科の最も普通にみられるアゲハチョウの1種です。
分布は、本州 (北部と高地を除く) 、四国、九州、南西諸島、国外では台湾からネパールにまで分布しているそうです。
前翅(ぜんし:前の羽根の一対)の開張幅は 100~120mmで、全体に黒く、後翅(こうし:後ろの羽根の一対)外縁に沿って赤紋が並び、雄には後翅前縁に白帯があります。
林の中など暗いところを好んで樹間を縫うように飛び、ツツジやユリなどの花に吸蜜に来るようです。

クロアゲハはサンショウ、イヌザンショウ、カラタチなどの葉に卵を産み付け、その卵が幼虫になると、産みつけられた木の葉っぱはほとんど坊主にされてしまうことがあるようです。
カラタチによく似た我が家のレモンの葉っぱにも卵を産みつけているかも知れません。
丸坊主にされないようにレモンの木を注意深く見守りたいと思います。

・上記の画像を拡大しました。



當麻の里を歩く(5)當麻の蹶速

2017-10-07 | 趣味

「當麻の里を歩く」シリーズの最終回は、日本初の天覧相撲が開催されたと伝わる「當麻蹶速の塚」をご紹介します。

「相撲開祖 當麻蹶速の塚」
「日本書紀」によれば、當麻の地に當麻蹶速(たいまのけはや)という名の蹴り技の名手と謳われる勇士がいました。
時の垂仁天皇(すいにんてんのう)は出雲国から野見宿禰(のみのすくね)という名の勇士を呼び寄せ、二人を戦わせました。
これが我が国の国技である相撲の発祥、日本初の天覧相撲とされています。

・相撲の始祖として知られる當麻蹶速(たいまのけはや)の塚と五輪塔です。


当麻の當麻蹶速の塚に立てられている案内板には次のように書かれています。
『日本書紀によると、当麻の村に大変勇ましく強い人がいて、その名を当麻の蹶速(けはや)と言う。その性格は大変な怪力で動物の角を引き欠いたり、曲がっている鉄の鉤(かぎ)を引き伸ばしたりします。そして、いつも人に語るのに、「日本の国ひろしといえども、とうてい自分の力にかなう者はあるまい、なんとかして力の強い者に会って、命がけで力くらべをしたいものだ」と語っていた。

この事を天皇がお聞きになり臣下に仰せつけられた。「もし誰かこの男にかなうような強い者が他にはいないだろうか」と。
すると一人の臣下が進み出て言うのに、「私は出雲の国に野見の宿禰(すくね)という力の強い人がいると言うことを聞いています。それでこの人を呼び寄せて當麻蹶速と力くらべをさせてみてはどうか」と言いました。

そこで垂仁天皇7年(紀元前23年)7月7日を期して當麻蹶速と野見の宿禰とに日本国技として初の天覧相撲を取らせることになった。
二人は互いに向かい合って立ち上がり、各々の足を高く上げて蹴り合い、力闘の末、當麻蹶速は野見の宿禰にあばら骨を踏み折られ、またその腰を踏み折られてしまい、敗者となってしまった。

當麻蹶速は高慢な人のようですが、実際には都ずれしない素朴で野性的な性格のため、朝廷の人々と相入れなかったと想像されます。
そのため当地の人々からは反って親しみを持たれた。石塔は田畑の中に鋤(す)かれることなく、現在まで貴重な遺跡として残されています。
勝者必ずしも優ならず、時には勝機と時運に恵まれず敗者となる事もある。勝者に拍手を送るのはよい、だが、敗者にもいつきくの涙を注ぐべきではないか。』

・相撲館に掲げられている天覧相撲の絵です。


「鉄砲柱」
説明によれば、
日本書紀には相撲の始まりとして當麻蹶速と野見宿禰の力くらべの話が書かれています。
その力比べで蹶速は命を落としますが、今日に至っても、この地で地元の人々の手によって祀られています。
「相撲発祥の地」に訪れる誰もが自由にこの柱に触れ、突き、体験することで相撲に親しんでいただけたらと、ここに鉄砲柱を設けました。
と書かれています。

・鉄砲柱です。一突きしましたが、ビクともしませんでした。


「終着地点」
今回の歴史探訪同好会「當麻の里を歩く」コースの終着点、近鉄当麻寺駅です。
このコースは、寄り道しながらでも7~8㎞と比較的短い道のりであったことから、参加者10名は誰一人脱落することなく元気に完歩しました。
次回11月の歴史探訪の参集を確認して当駅で解散となりました。




當麻の里を歩く(4)當麻寺(2)

2017-10-06 | 趣味

「當麻の里を歩く」シリーズの今日は当麻寺の2回目です。

「金堂」
金堂とは、寺院で本尊を安置する仏堂で、伽藍の中心をなす堂宇です。堂内を金色にすることからこの名が付いています。
當麻寺の金堂も本来のご本尊・弥勒さまをお祀りするお堂なのです。

この金堂は當麻寺創建時の本堂であり、入母屋造の本瓦葺です。
元々は奈良時代の建造物なのですが、藤原時代(平安時代中期・後期)に平重衡の軍勢が乱入し、激しく破損ました。
現在の建物は鎌倉時代に修理されたものだそうで、堂宇には当麻寺の最初のご本尊「弥勒仏座像」(国宝)や「四天王立像」(重要文化財)などが収められているそうです。

弥勒仏坐像(国宝・白鳳時代)は日本最古の塑像(そぞう:粘土で作った像)です。
周囲を守護する四天王のうち、持国天立像、増長天立像、広目天立像の3体は、日本最古の乾漆像。多聞天は鎌倉時代の木像で、いずれも袂の長い隋以前の様式を伝えており、西域の武人を思わせる凛々しい姿をしているのだそうです。
 
・鎌倉時代に再建された金堂です。


「當麻寺 奥院」
當麻寺 奥院は中将姫の伝説で知られる當麻曼陀羅と同じ製法で制作された「綴織當麻曼陀羅」を有する、奈良県有数の浄土信仰を体現するお寺です。



「浄土庭園」
浄土の世界が目前に広がる浄土庭園です。
阿弥陀如来像を中心に数多くの仏をあらわした石が並び、阿弥陀仏の姿を写す極楽の池"宝池"があり、ニ上山を背景に當麻の自然を存分に取り入れた年中楽しめる庭園となっています。
浄土庭園の巨石は「太閤石」という石です。
昔、豊臣秀吉公が大阪城を築城するにあたり、西国から巨石を集めましたが、浄土庭園の石はその産地の一つ、湯布院から運ばれたもので、由布岳の溶岩が固まってできる特異な色・形を庭園に利用されているそうです。

・時間の関係で入場出来なかったのでネットの画像を借用しました。


「三重塔・東塔」
東西両塔が現存する、天平時代(奈良時代後期:710年~794年)創建の貴重な三重塔で、奈良時代の双塔伽藍を今に伝えています。
通常、三重塔は初重から三重目まですべての面の柱間を、三つの方三間とするようですが、この東塔は構造上、二重、三重ともに方二間の特異な構造だそうです。
因みに、「薬師寺三重塔」「法起寺三重塔」は三重目だけが方二間だそうです。




「中之坊」
説明によれば、當麻寺最古の塔頭で、熊野権現が現れた場所に役行者が道場として開きました。
もとは「中院」とよばれ、中将姫の師である實雅(さねまさ)や、弘法大師の弟子となった實弁などの高僧が住房としました。
中将姫の守り本尊である「導き観音」を本尊として祀り、信仰を集めています。



「中将姫」
中将姫は右大臣藤原豊成(藤原鎌足の曾孫)の娘として奈良の都に生まれ、色々な迫害を乗り越え、16歳の時に当麻寺に入り尼僧となりました。
姫の深い信仰と仏さまの加護により天平宝字7年(763年)6月23日に蓮の糸で当麻曼荼羅を織り上げ、29歳の春に25菩薩の来迎を受け、極楽浄土に往生しました。
この當麻曼荼羅は現在、當麻寺の本尊として祀られ「蓮糸大曼荼羅」「観無量寿教浄土変相図」とも呼ばれ、西方極楽浄土の有様を表していると言うことです。




當麻の里を歩く(3)當麻寺(1)

2017-10-05 | 趣味

今回の「當麻の里を歩く」では、今日ご紹介する當麻寺がメインスポットとなります。

「當麻寺仁王門(東大門)」
東大門(仁王門)は三間一戸の楼門です。
創建当初はどの門が「正門」だったのか不明ですが、中世になって信仰形態が西方極楽浄土におわす「阿弥陀如来」の崇拝と変わったことから、東大門が正門となったということです。



当麻寺東大門(仁王門)の仁王像(阿形)です。
年代を感じる阿形像ですが、説明書がないため詳細は不明です。



当麻寺東大門(仁王門)の仁王像(吽形)です。
吽形像も同様に詳細は不明です。



「當麻寺」
當麻寺は、奈良県葛城市にある7世紀創建の寺院で、山号は「二上山」、宗派は高野山真言宗と浄土宗の並立となっている珍しいお寺です。
開基は聖徳太子の異母弟・麻呂古(まろこ)王とされています。
用明天皇の皇子・麻呂子王が推古天皇二十年(612年)に河内に建てた万宝蔵院に始まり、その後、天武天皇白鳳11年(681年)に麻呂子王の孫・當麻国見が現在地に移してこの地方の豪族當麻氏の氏寺として整備したと伝えられています。
創建時の本尊は弥勒仏でしたが、現在信仰の中心となっているのは当麻曼荼羅だそうです。

・当麻寺の広い境内です。


「現存最古の梵鐘」
国宝の梵鐘です。
無銘ながら、作風等から日本最古級と推定される梵鐘で、當麻寺創建当時の遺物と推定されているそうです。



「本堂(曼荼羅堂)(国宝)」
寺伝では、本堂は曼荼羅信仰の中心となっている堂で千手堂の後身であると伝えています。
堂宇は東面して建ち、桁行七間(正面21.02m)梁行六間(奥行18.06m)寄棟造、本瓦葺で、背面北寄りに純和様の木瓦葺の閼伽棚(あかだな:仏に供える水又は花などを備える棚)(鎌倉時代)が付加されています。

・国宝の本堂です。



當麻の里を歩く(2)石光寺

2017-10-03 | 趣味

葛木二上神社の後は、中将姫ゆかりのお寺として知られている石光寺へと向かいました。

「石光寺」
石光寺(せっこうじ)は浄土宗の寺院で、山号は慈雲山、本尊は阿弥陀如来です。
出土遺物等から飛鳥時代後期(白鳳期)の創建とみられる古寺で、中将姫伝説ゆかりの寺院です。
境内には中将姫が蓮糸曼荼羅を織成する際に蓮糸を染めたという井戸「染の井」と、糸を干したという「糸掛桜」があることから「染寺」とも言われています。
また、ボタンの寺としても知られており、境内にはボタン、シャクヤク、アジサイ、サクラ、サルスベリなどが植えられています。
関西花の寺二十五霊場20番札所になっています。

・石光寺の山門です。


「相観の沙(そうかんのすな)」
「砂」を「沙」と書くのはお釈迦さまが沐浴されたガンジス河の砂に例えているからなのだそうです。
阿弥陀教には、ガンジスの砂の数ほどの数え切れないくらいの諸仏が阿弥陀を信じ、極楽往生を願う念仏の衆生を護念し給うくだりがあることから、ガンジス河の砂に例えているようです。

砂の形は手前が方形、後方が円形になっています。手前の方形は私たちの姿、世界を表しています。
方形、即ち四角な物体は、一見、強く、安定した形に見えますが、崩れやすく角も欠けやすいもので、私たちの姿を表していると言うことです。
円形、即ち球体は「超えた世界」、覚りの世界及び仏を意味します。絶対の世界、壊れない世界で、柔軟に全ての事に対応できる智恵の姿だそうです。
「相観の沙」は凡夫が「仏様助けたまえ」と念仏を唱える姿だということです。



「本堂」
天智天皇(626年~671年)の時代、霊光を放つ大石が見つかり、天皇の勅命を受けてこの石に弥勒如来を彫らせ、堂宇を建立したのが石光寺の始まりと伝えられています。
開山は修験道の祖・役小角(えんのおづぬ)です。
平成3年の弥勒堂建て替えの時に石造弥勒像が発見され、言い伝えが実証されたと話題になったそうです。
因みにこの弥勒像は日本最古の石仏だそうです。



「中将姫 染の井 糸懸桜」
聖武天皇の時(750年頃)に、当麻寺で「蓮糸曼荼羅」を織ったいた中将姫が、この寺の井戸で蓮糸を洗い五色に染め、桜の木にかけて乾かしたというので、この桜を「糸かけ桜」、井戸を「染の井」といいます。

「中将姫伝説」
聖武天皇の御代に右大臣藤原豊成(藤原鎌足の曾々孫)の娘に中将姫がいました。5歳にして母を亡くし、継母に育てられました。世に言う継子いじめに遭われ、ついに世をはかなんで17歳で出家し、当麻寺に籠ったのです。
そして、生身の阿弥陀を拝みたいと毎日毎夜念じている内に、ある時霊感を得られ、蓮を集めて、その茎から糸を撚りだし、ここの井戸で洗い清め、桜の木(役行者が仏教興隆を願って植えた木)に掛けて干すと、乾くに従って五色に染まりました。
この糸で二人の化尼(観音・勢至両菩薩の化身)の助けで一夜のうちに阿弥陀浄土図を織り上げたのです。
これが世に言う當麻曼荼羅です。



「境内」
ボタンの寺として知られていますが、境内には他にもシャクヤク、アジサイ、サクラ、サルスベリなどが植えられています。
冬に花を咲かせるボタンには、寒ボタンと冬ボタンの2種類あります。
・寒ボタンは、二期咲きのボタンで、自然の中で時期が来れば咲き、その見頃は、だいたい12月~1月頃です
 花が自分自身で寒さ対策をしているため、茎が短く葉もほとんどありません。
・冬ボタンは、冷蔵庫と温室を使って人工的に春をつくり、この時期に花を咲かせる種類です。
 こちらは、植物自体が春だと思って咲いているので、春と同じような大きな花を咲かせるタイプです。
因みに石光寺のボタンは『寒ボタン』で、當麻寺奥院は『冬ボタン』だそうです。




當麻の里を歩く(1)葛木二上神社

2017-10-02 | 趣味

一昨日の土曜日に現役時代の趣味の会である「歴史探訪同好会」のメンバー10名と、奈良県葛城市の當麻寺周辺の散策コース「當麻の里」へ行ってきました。
このコースは、集合場所の近鉄二上山駅から二上神社、石光寺、當麻寺、當麻の蹴速の塚などを巡るものです。
今日から数回に分けてご紹介します。

「二上山駅」
集合場所の二上山駅です。
この駅は、大阪阿倍野橋から近鉄電車で約35分で来られる比較的近距離に立地しています。



「葛木二上神社」
暫く歩くと「葛木(かつらき)二上神社(ふたかみじんじゃ)」が鎮座していたのでお参りすることにしました
二上山は標高517mの雄岳、474.2mの雌岳の二つの峰をもち、古來「二上山」「二神山」「岳(獄)」などと呼ばれ、古代人は、これを男女の二神に見たてて崇敬したとも伝えられています。

葛木二上神社は、今は雄岳の山頂に鎮座しており、御祭神は豊布都(とよふつ)霊神で、又の名を建御雷神(たけみかづちのかみ)です。
大国主命と国譲りの談合の結果、その御子、建御名方神(たけみなかたのかみ)と海辺で力競べの角力を取り、この問題を解決された神で、この角力は日本の名勝負の第一に挙げられているということです。
現在、武道体育の神として祭られているそうです。



「本殿」
葛木二上神社の拝殿と奥にあるのが本殿です。
現在の社殿は、1974年(昭和49年)の二上山大火で焼失し、翌1975年に再建されたもので、内部には小さな榊の御神体があります。
本社の東側に大津皇子の墓がある。




京都の旅(4)京都御所(2)

2017-10-01 | 旅行

京都御所の2回目として清涼殿から御常御殿までをご紹介します。

「清涼殿」
平安時代中期(10世紀中頃)以降、天皇が日常生活の場として使用された御殿です。
政事・神事等の重要な儀式もここで行われました。
天正18年(1590年)に御常御殿にお住まいが移ってからは、主に儀式の際に使用されました。
この建物は安政2年(1855年)の造営で、建築様式は、入母屋、桧皮葺(ひわだぶき)の寝殿造りとなっています。
現在の建物は平安時代のものより小さくなっていますが、古生制に則って建てられているそうです。



「小御所」
小御所は御元服御殿ともいい、寝殿造りと書院造の両要素が混合した様式の建物です。
ここでは、東宮御元服、立太子の儀式、皇太子の儀式など、諸種の儀式が行われ、武家との対面にも用いられました。
1867年(慶応3年)12月9日の王政復古の大号令が発せられた日の夜、あの有名な「小御所会議」がここで行われました。



「小御所の蹴鞠の庭」
小御所と御学問所の小庭を言います。
蹴鞠は鹿皮で出来た鞠を落とさずに蹴り渡す球戯で、一定の作法のもとに行われます。
天皇はこの場所で催される蹴鞠をご覧になったそうです。



「御学問所」
慶長18年(1613年)に清涼殿から独立した御殿で、御読書始めや和歌の会などが行われました。
慶應3年(1867年)ここで明治天皇が親王・諸臣を引見され、「王政復古の大号令を発せられました。
建物は入母屋桧皮葺(いりもやひわだぶき)の書院造となっています。



「御池庭」
池を中心とした回廊式庭園です。
前面は州浜で、その中に舟着きへの飛び石を置いています。右に欅橋が架かり、対岸には樹木を配し、様々な景色を楽しむことが出来ます。



「御常御殿」
京都御所のなかで一番大きな建物が「御常御殿(おつねごてん)」です。
天皇の日常のお住まいとして清涼殿内に設けられていた常御所が天正18年(1590年)に建物として独立したものです。
天皇のお住まいであるとともに儀式や対面の場としても使われました。
天皇がお休みになられた御寝(ぎょしん)の間など15室からなっており、全て畳敷きになっています。



「清所門と築地塀」
清所門(せいしょもん)は一般公開の出入り口になっています。 
この門は普段から皇宮警察が門番として常駐しています。
京都御所の「築地塀(ついじべい)」は、五筋の白線をつけた薄い泥色の壁で、格調ある静閑な雰囲気をもっています。