ゆうわファミリーカウンセリング新潟 (じーじ臨床心理士・赤坂正人)     

こころと暮らしの困りごと・悩みごと相談で、じーじ臨床心理士が公園カウンセリングやメールカウンセリングなどをやっています

沢木耕太郎『246』2014・新潮文庫-2歳の娘さんへのお話とおとなへのお話たち

2024年12月09日 | 沢木耕太郎さんを読む

 2018年のブログです

     *    

 沢木耕太郎さんの『246』(2014・新潮文庫)を再読しました。

 以前読んだ時に、いい本だな、と思った記憶があったのですが、今回、読んでみると、すごく面白くて、そして、いい本でした。

 すごく面白い理由の一つは、沢木さんが当時2歳の娘さんが寝る前にしてあげるお話のせい。

 読んでいて、とてもほのぼのします。

 ここでは沢木さんは童話作家(?)。

 ノンフィクション作家としてより才能があるかもしれません(冗談です。沢木さん、ごめんなさい)。

 本書は、1986年1月から9月までの沢木さんの日記風エッセイ。

 1986年というのは、沢木さんの『深夜特急』が出た年で、そのことがまず書かれています。

 ちなみに、246、とは国道246号線のことで、当時、沢木さんの仕事場があった場所だそうです。

 沢木さんが、自宅から仕事場に行こうとすると、娘さんが、いかないで、と言って、沢木さんが仕事を休んでしまうシーンもあり、微笑ましいです。

 とっても面白いお話、興味深いお話、真面目に考えさせられるお話と、結構厚めの文庫本は中身が充実していますが、じーじが個人的に面白かったのは、みつばち農家を取材したお話。

 福音館書店の『たくさんのふしぎ』という本に『ハチヤさんの旅』(のちに1987年5月号として掲載)というお話を書く仕事の取材で、みつばち農家に同行するのですが、ある時、小さな女の子がいる農家さんのご希望で沢木さんの2歳の娘さんも一緒に行くというできごとがあり、案の定、とんでもないドタバタ劇になってしまいます。

 しかし、それもある程度想定をしての父子での取材旅(?)は、とっても楽しいお話でした。

 そして、そこで取材がかち合ったテレビ局クルーの過剰演出をさらりと批判する沢木さんもなかなか素敵です。

 いろんなことを考えさせられ、また、楽しくなれる、いい本です。        (2018. 12記)

 

コメント

「馬が合わない」人や「虫が好かない」人について考えてみる-ユング心理学に学んだこと、一つ、二つ

2024年12月08日 | 心理臨床を考える

 2024年12月のブログです

     *

 「馬が合わない」人や「虫が好かない」人について考えてみる。

 以前、河合隼雄さんがどこかに書いていたが、日本語でいう「馬が合わない」人や「虫が好かない」人は、「自分」が合わないのではなく、「馬」や「虫」が合わない、という表現をしていることが面白い、と指摘をされていた。

 決して、「自分」ではなく、「馬」とか「虫」という、なんだかわけのわからないものが合わないわけである。

 そして、河合さんは、これは、ユング心理学でいう「無意識」が合わないことを表している、と述べられている。

 ユング心理学では、こころは意識と無意識からなっていると考え、意識の中心を「自我」、無意識を含めたこころ全体の中心を「自己」と呼ぶ。

 そして、意識偏重、自我偏重の現代社会を危惧し、無意識を含めたこころの全体、自己を大切にすることを述べる。

 「馬」が合わなかったり、「虫」が好かなかったりする人は、なんだか理由はよくわからないが、こちらの無意識と合わない、なにか無意識が刺激をされている状態にある、と考えるわけだ。

 そして、河合さんは、こういうこちらの無意識が刺激をされる場合には、こちらの自分が人生で生きていない側面、自分が抑圧しているこころの側面を「馬」や「虫」が教えてくれている、と考えることが大切だという。

 このように考えてみると、理由がわからないのになんかギクシャクしている人間関係が、少しは冷静に、客観的に眺められるようになるのかもしれない。

 もっとも、これは、なかなか難しいことであるが、こういった視点を持っていることは大切だなあ、と思う。

 頭でっかちで、こころを大切にしない人たちが多い現代社会の歪みや人間関係を視るには、重要な視点の一つかもしれないなあ、と思ったりもする。

 今後は、「馬」さんや「虫」さんを大切にしていこう(?)と思っているじーじである。        (2024.12 記)

     *

 同日の追記です

 上記の文章を書いた後、河合さんの引用に間違いがあってはまずいと思い、じーじの本棚にある何冊かの河合さんの本をパラパラとめくる。

 すると、河合さんの初期の名作『コンプレックス』(1971・岩波新書)に「虫」さんのお話が、『大人の友情』(2008・朝日文庫)に「馬」さんと「虫」さんのお話が出ている。

 『大人の友情』には、「腹の虫がおさまらぬ」という表現も出てきて、「虫」さんが大活躍している。

 もの忘れのひどいじーじには、めずらしく、当たり!だったが、それだけ印象が強かったのだろうと思う。

 もっとも、ユング心理学の解説は、あくまでもじーじの理解によるので、もし間違いがあったら、じーじのせいだ。

 逆にいうと、じーじはユング心理学をこの程度にしか理解できていないということだが、この程度の理解でも結構役に立っているので、やはりユング心理学はすごいと思う。

 精神分析の一部の人たちには、実現すべき「自己」などはない、と厳しいことをいう人もいるが、じーじが素人なりに思うのは、精神分析とユング心理学は方法論が違うだけで、めざしているものは意外と近いのではないかなあ、という印象を受ける。

 いずれにしても、両者ともすごい学問だなあ、と改めて思うじーじである。

     *

 ゆうわファミリーカウンセリング新潟(じーじ臨床心理士・赤坂正人・個人開業)のご紹介

 経歴 1954年、北海道生まれ  

    1977年、浦和、新潟家庭裁判所で家庭裁判所調査官として司法臨床に従事  

    2014年、放送大学大学院修了(臨床心理学プログラム・修士) 

    2017年、臨床心理士

 仕事 個人開業で、カウンセリング、心理療法、家族療法、遊戯療法、メールカウンセリング、面会交流の援助などを研究しています

 学会 精神分析学会、遊戯療法学会会員

 論文「家庭裁判所における別れた親子の試行的面会」(2006、『臨床心理学』)、「家庭裁判所での別れた親子の試行的面会」(2011、『遊戯療法学研究』)ほか 

 住所 新潟市西区・北海道東川町(夏期)

 mail  yuwa0421family@gmail.com    

コメント

あだち充『じんべえ』1997・小学館-血のつながらない娘を育てる中年男子とその娘の微妙な関係を描くおとなのマンガです

2024年12月08日 | 小説を読む

 2024年12月のブログです

     *

 あだち充さんの『じんべえ』(1997・小学館)を久しぶりに読む。

 今年の能登半島地震で崩れた本の山を積み直していると(今もなんと(!)作業継続中です)、下のほうに偶然、見つける。

 1997年の本で、その後、一度、読んだ記憶がかすかにあるが、すごく久しぶり。

 作業を中断して、読んでしまった。

 もともとは、「ビックコミックオリジナル」に連載されたらしい(「ビックコミックオリジナル」は『家栽の人』(知っているかなあ?)を連載していたことがあり、なかなかいいおとなのマンガ雑誌だ)。

 血のつながらない娘を育てる中年男子とその娘を描くおとなのマンガ。

 両者の微妙な心理がとてもうまく、丁寧に描かれていて、感心する。

 下手な小説より、心理描写が繊細で、すごいと思う。

 無理に例えるならば、荻原浩さんの小説をマンガにしたような感じ(荻原さんの小説を知らない人は、何のこっちゃ、と思うだろうが、知っている人はうなづいてくれるかもしれない)。

 中年男子の生きる辛さや哀しみ、優しさ、怒りなどと、少女の淋しさや哀しみ、喜びなどが、あだちさんの美しいマンガで、ユーモラスにうまく描かれる。

 名作だと思う。

 それにしても、あだちさんのマンガは、人間関係が複雑で、優しいが、哀しい物語が多い。

 まさか、売り上げを伸ばすためにあえて複雑な人間関係にしているわけではないのだろうが(多少、そういうこともあるのかもしれない(?)。あだちさん、ごめんなさい)、それにしても物語が哀しすぎる。

 まあ、人生は哀しいものだから(?)…ねぇ。

 こういう表現にしないと描けないものを、あだちさんがなにか人生に感じているのだろうなあ、と思う。

 いずれにしても、マンガではあるが、すごい名作だ。        (2024.12 記)

 

コメント

藤山直樹『落語の国の精神分析』2012・みすず書房-藤山直樹さんの(?)精神分析入門を読む

2024年12月07日 | 藤山直樹さんを読む

 2016年ころのブログです

     *     

 藤山直樹さんの『落語の国の精神分析』(2012・みすず書房)を再読しました。

 2012年に一度読んでブログを書いていますから(すみません、なぜか(?)消えてしまいました)、おそらく今回が2回目の再読です(たぶん?)。

 実はこの間に1回読んだような気もするのですが、記憶があいまいではっきりしません(藤山さん、ごめんなさい)。

 しかし、やはりとても面白かったです。

 そして、いい本です。

 前回のブログで、

 「藤山さんの精神分析の概念の説明がとてもすばらしいです。

  特に、エディプスコンプレックスの説明は、じーじがこれまでにいろいろ読んだり、聞いたりした中で、一番わかりやすい説明だと思いました。

  ほかの概念の説明も、とてもわかりやすく、しかも、レベルは高い水準をキープしているところがすごいと思いました。

  藤山さんには『集中講義・精神分析』(上・下、岩崎学術出版社)という本がすでにありますが(ブログがありますので、よかったら読んでみてください)、この『落語の国の精神分析』は藤山直樹さん版・精神分析入門と言ってもいいのではないかと思いました」

と書いたのですが、この印象は今回も変わりません。

 精神分析の考え方をおさらいし、さらには、最新の精神分析の考え方を藤山直樹さん流にわかりやすく、かつ、深く展開しているように思われます。 

 そんな中で今回、じーじが学んだのは、エディプスコンプレックスが死と密接な関係にあるという点。 

 ここは前回、まったくつかめていなかったのですが、とても大切なことと感じました。

 子どもが父親を認めることは、父親がいずれ死んでしまう存在であるということに気づくことだという考え、ここは斬新な印象を受けました。

 もう少し考えてみたいと思っています。

 他にも、自分は自分でいい、とか、今言ってもわからないことは言わない、とか、好きなものに打ち込めることだけでいい、とか、大切な言葉が出てきていました。

 今後も、もっともっと、読み込んでいこうと思いました。       (2016?記)

     *

 2022年2月の追記です

 今言ってもわからないことは言わない、というところは、わからないことに耐える、ことと関係しそうですね。       (2022.2 記)

 

コメント

沢木耕太郎『深夜特急2-マレー半島・シンガポール』1994・新潮文庫-ひとり旅を読む

2024年12月07日 | 沢木耕太郎さんを読む

 2018年のブログです

     *   

 沢木耕太郎さんの『深夜特急2-マレー半島・シンガポール』(1994・新潮文庫)を再読しました。

 これまでに書いてきたようないきさつで、なぜかジグザグに出発点に遡るような形で読んでいますが、じーじの場合、これもまたいいのでしょう(?)。

 この巻では、海外へのひとり旅に出ることになったいきさつやその前の大企業に就職が決まっていたのに一日でやめてしまったエピソードなどが語られ、沢木さんの破天荒ぶりにびっくりしますし、なるほどそういうことだったのか、と改めて了解ができるようなことが書かれてます。

 旅の仕方も後の巻に比べるとまだまだ初々しいですし(?)、ニュージーランドから来た同じような若者たちを先輩づらをする沢木さんも初々しく感じます。

 意識してそう書いているわけではないのでしょうが、そういうことがわかるって、文章の面白いところでしょうし、人生にも通じることなのかもしれません。

 そして、沢木さんの魅力は、へんな偏見がないところでしょうか。

 娼婦のいるホテルに長逗留をして、娼婦だけでなく、そのヒモさんたちとも友達になったり、食べ物は現地の人たちが食べるものが一番おいしいと言ったり、構えずに庶民的です。

 なかなかできることではありませんが、理想です。

 なお、今回の巻末対談のゲストは、なんと、高倉健さん。

 沢木さんがモハメド・アリの試合のチケットを高倉さんから譲ってもらい、そのレポートを高倉健さんに手紙で書いて送って以来の仲だそうですが、健さんが本当に信頼して、気を許している様子が窺えて、ほほえましいです。

 そして、お二人がお好きな国がポルトガル。

 やはり、ポルトガルはいい国のようです。

 じいじいのじーじでも、チャンスがあれば行ってみたくなりました。

 さて、残るは第1巻。

 年末の大掃除で見つかるといいのですが…。

 かなりの恥ずかしがり屋さんのようで(?)、上手にかくれんぼうをしていますので、どうなりますやら…。         (2018. 11 記)

 

コメント (2)

小此木啓吾『精神分析のおはなし』2016・創元こころ文庫-人と人との関係をていねいに見る視点

2024年12月06日 | 精神分析に学ぶ

 2016年のブログです

     * 

 精神科医で精神分析家の小此木啓吾さん(慶応大学医学部教授)の『精神分析のおはなし』(2016・創元こころ文庫)を読みました。

 単行本は1999年に出ていたらしいのですが、読みそびれていて、今回、文庫本で初めて読ませていただきました。

 研究会などでの講演をまとめたものですが、人生全般の心理的な課題を、いくつかのテーマに分けて、細かく、ていねいに解説をされています。

 甘えと自立、対象喪失と喪、さらには、懐かしい、シゾイド人間や自己愛人間のお話なども出てきました。

 シゾイド人間と自己愛人間が裏表の関係にある、という指摘は、今回、初めて、気がついて、なるほどと思いました。

 このところ、気になっていた対象喪失と喪の問題もさらに考えることができました。

 学ぶところの多い本ですが、今回、個人的に一番印象に残ったのは、親が生き残るというテーマ。

 幼年期や思春期、青年期をとおして、親子関係において、子どもと親はいろいろと大変なことに遭遇をするものですが、その時に、親がボロボロになりながらも、たいしたことはしなくても、とにかくつぶれずに生き残ること、これが一番大切なことだと力説をされています。

 生き残ることの大切さは精神分析で大事なテーマで、たとえば、ウィニコットさんなども、治療者や親がその関係の中で生き残ることの重要性を述べています。  

 また、ウィニコットさんの場合は、ほどよい親、ほどよい治療者が大切といい、適度の失敗の大切さについても述べていると思います。

 もちろん、人間ですから、完璧なことは無理な話で、時々の失敗が当然あるわけですが、それが子どもや患者さんの幻想をやぶり、ほどよい現実感覚をもたらすのだろうと思われます。

 このあたりの議論は、とても刺激的で、大切だと思われるので、さらに考えを深めていきたいと思っています。

 とてもいい本に出会えたことに感謝します。               (2016 記)

     *

 2023年3月の追記です

 ウィニコットさんのいう、親が生き残ること、については、子どもからの理不尽な攻撃に親が報復をしないことが大切、と述べられています。

 子どもの攻撃に親が報復をしてしまうと、それは虐待になってしまいます。

 そうではなく、親がボロボロになりながらも、子どもの世話をすることで、子どもは親を攻撃したことに償いの気持ちを持ち、それが罪悪感に繋がる、と述べているように思います。              (2023.3 記)

 

コメント

さーちゃん、あーちゃん、たんじょう日、おめでとう-じいじからのお手紙

2024年12月06日 | じいじの手紙を書く

 2022年12月、小6と小3の孫娘たちへのお手紙です

     *

 さーちゃん・あーちゃん、元気ですか。

 じいじは元気です。

 ばあばはすごく元気です。

 少しおそくなりましたが、さーちゃん、たんじょう日、おめでとう。12さいですね。

 あーちゃんも少し早いですが、たんじょう日、おめでとう。9さいですね。

 12さいと9さい、わかくて(?)いいですね。

 いろいろなことがあるでしょうが、楽しくすごしてください。

 12さいのじいじは何をしていたでしょう?

 中学校にいったら、えいごをならうので、どきどきわくわくしていたかな。

 9さいのじいじは何をしていたのかな?

 スケートをやりはじめたかな。

 じいじのかよっていた旭川の小学校では、冬はグランドがスケートリンクになって、体育の時間はスケートでした。

 スケートといっても、ゆーづーくんのようなフィギアスケートではなくて、こだいらなおせんしゅのようなスピードスケート。

 ころびながらも、友達とおにごっこをしていました。

 さーちゃんとあーちゃんの小学校は、冬はスキーですね。

 スキーはころんでも楽しいのがいいですね。

 いっぱいころんで(?)、元気になってください。

 12月はいろいろといそがしいでしょうが、ひまができたらまた新潟に遊びにきてください。

 楽しみにまっています。

 新潟のじいじより 

 (2022.12 記)

 

コメント

あらすじを書くことと行間に漂うものを書くこと-じーじのひとりごと

2024年12月05日 | ひとりごとを書く

 2021年12月のブログです

     *

 本を読んで感想文を書く時、じーじはできるだけあらすじは書かずに感想文を書きたいと思う。

 そう思っても、なかなかそのようには書けないことも多いが、気持ちとしてはそういう気持ちでいる。

 なぜあらすじを書かないかといえば、ネタバレになってしまうことをできるだけ避けたいと思うからだが、それ以上に、本を読むことは、あらすじをたどることよりも、行間を読むことに意味があると思うからだ。

 あらすじをたどるだけなら、厚い本を最初から最後まで読む必要はない。

 厚い本を最初から最後まで読むのは、行間に漂っているものを感じ取りたいためだ。

 このことは特に小説や詩、童話などにおいて重要だと思うが、しかし、ノンフィクションや専門書でも同じことがいえると思う。

 作者が訴えたいこともあらすじではなくて、行間にあるのではないかと思う。

 あらすじには凝縮できないような何かもやもやしたもの、それが大切なような気がする。

 あらすじがわかっていても読んでみたくなる村上春樹さんの小説などはまさにそうだ。

 行間から何を読みとるか、そこに読者の個性が現われるし、ひょっとすると作者の思惑以上の展開があるのかもしれない。

 じーじとしては、読者がその時、行間に何を感じるのかを教えてほしいと思うし、その後、どう感じたのかを教えてほしいと思う。   (2021.12 記)

     *

 2023年9月の追記です

 ブログを読み返しているうちに、作品そのものとあらすじの違いが改めて認識できて、あらすじの紹介をあまり気にしなくてもいいような気がしてきた。

 作品そのものを味わったり、楽しんだり、学んだりするためには、作品の行間から感じるものを大切にするしかないのかなと思う。

 よく偉い学者さんが、入門書より、わからなくても原典を読みなさい、と勧めているのも、逆の側から見た、同じことの表現なのかもしれないと思う。        (2023.9記)

     *

 2024年6月の追記です

 読み返してみると、改めてわかりにくい文章だなと思う。

 書きたいことがなかなかはっきりせずに、その周りをぐるぐる回っている感じ。

 行間に漂うものを書けと言っても、むずかしいよねぇ。

 中学の時に宿題で感想文を書いたら、国語の先生から、あらすじはわかったから、こんどは君の感じたことや考えたことを書いてごらん、とアドバイスを受けたことを思い出す。

 感じたことをていねいにすくいとっているうちに、行間に漂うものも少しはすくいとれるのかもしれない、と今は思う。      (2024.6 記)

 

コメント

小林隆児『あまのじゃくと精神療法』2015・弘文堂-本の帯に、甘えられない子どもが危ない!とあります

2024年12月04日 | 精神療法に学ぶ

 2022年12月のブログです

     *

 児童精神科医の小林隆児さんの『あまのじゃくと精神療法』(2015・弘文堂)を数年ぶりに再読する。

 本棚を見るたびに気になっていた本だが、なかなか読めずにいた。

 じーじもかなり「あまのじゃく」なほうだと思う(?)が、そういうところがじゃまをしていたのかもしれない。

 本書は、土居健郎さんの「甘え」理論を下敷きに、主に子どもの心理やこころの病気を論じたもの。

 「甘え」理論で重視されるアンビヴァレントなこころの状態をさらに展開し、「あまのじゃく」という概念に結びつけていて、なかなか興味深い。

 とはいえ、けっこう難しい本でもあって、じーじなどは何割理解できたのかあやしい。

 もっとも、数多くの症例が示されていて、それを読むだけでも勉強になる。

 不安性障碍、不登校、摂食障碍、抜毛症、パニック障碍、その他もろもろ。

 子どものこころのいろいろな症状の底に、甘えたいのに甘えられない、という「あまのじゃく」の状態を見て取るのがすごい。

 難しい症例が多いが、小林さんはほんの少しの精神療法でもって、ほんの少しだけの改善をめざしている、ように見える。

 そこには、少しの改善がやがて大きな改善に繋がるような人間への信頼がある、ように見える。

 精神療法におけるエヴィデンスの問題にも触れられていて、言語化やそれへの共有化を進めることがエヴィデンスに繋がると明快に述べる。

 それへの一例が「あまのじゃく」という概念なのだろう。

 まだまだ理解不足で、誤解もあろうかと思うが、さらに勉強を深めたいと思う。        (2022.12 記)

 

コメント

子どものSNS利用を禁止することについて考えてみる-じーじのじいじ日記(2024・12・4)

2024年12月04日 | じいじ日記を書く

 2024年12月4日の日記です

     *

 オーストラリア政府が16歳未満の子どもがSNSを利用することを禁止する法律を成立させた。

 これについて、世界中で賛否両論の意見が出ているようだ。

 日本でも、テレビのインタヴューで、中学生が、SNSがないと生きていけない、などといっている映像が映って、じーじなどは、何を言っているんだ!と中学生の頭を叩きたくなった(?)。

 中学生が、SNSがないと生きていけない、などというのは異常ではないか!

 じーじにはよくわからないが、今や日本の世の中は、そんな事態になっているのだろうか?

 子どもたちがSNSを使ったり、ゲームに夢中になっていることは知っているが、それほどとは思わなかった。

 ニュースを見ていると、子どもたちのいじめがSNSを使って行われていたり、子どもたちがゲームに熱中しすぎていることが出てくる。

 おとなだって、たとえば、闇バイトの犯罪はSNSによる募集が原因の一つになっている。

 受験の時に、スマホでカンニングをして捕まった受験生のニュースを見たこともある。

 SNSは便利なのかもしれないが、使い方によってはとても危険な道具でもある。

 じーじがもっと怖いのは、少数のSNSの情報によって世論が動かされていること。

 先日の兵庫県知事選挙も一部の悪意のあるSNSの情報によって左右された疑いがある。

 SNSを運用する会社は、悪意のある情報の遮断に留意をしなければならない義務があるだろう。

 情報や言論の自由は守らなければならない最低限のルールだが、犯罪行為や悪意による行動は抑えなければならない社会的な責任もあるだろうと思う。

 警察の動きも鈍い。

 言論弾圧はあってはならないことだが、犯罪行為の摘発には勇気をふるってほしい。

 国民を守ることは大切なことであるし、判断能力が十分ではない子どもたちを守ることはなおさらである。

 それが、警察や政府のちからによるのか、それともおとなたちが自主的にできるのか、おとなたちの成熟度が試されている時代なのかもしれない。       (2024.12 記)

 

コメント (3)

他人を非難する人の心理学を考えてみる-精神分析に学んだこと、一つ、二つ

2024年12月03日 | 心理臨床を考える

 2024年10月のブログです

     *

 SNSやブログを見ていると他人を非難する人を多く見る。

 大谷くんですら、ちょっと調子が悪いとくそめそだ。

 読んでいると気分が悪くなる。

 その最たるものはトランプくんだと思うが、そういうふうにすぐに他人を非難する人はどういう心理なのだろう?と考える。

 他人を非難することで自分が優越感に浸りたいのか、他人を貶めることで自分の万能感を満たしたいのか?

 しかし、いずれにしても錯覚に過ぎないだろう。

 他人を非難しても、自分が偉くなれるわけではないし、すばらしくなれるわけでもない。

 むしろ、敵を作り、憎悪を煽るだけだろう。

 それがわからずに自己満足に陥り、悪いのは周りだと攻撃性を強めているように見える。

 パワハラや(あまり好きな言葉ではないが)カスハラにも同じ根っこを感じる。

 悪いのはみな周りで、自分は正義だと錯覚をしている。

 自己中心的で他者への配慮ができないような、人格が未熟な印象を受ける。

 短絡的で感情優位のパーソナリティなのかなと思う。

 精神科医の中井久夫さんがいうように、成熟をした人格には、わからないことに耐えて、すぐに結論を出さずに考え続ける態度が大切になる。

 精神分析のビオンさんも、あいまいさに耐えることの大切さを述べている。

 いいか悪いか、イエスかノーか、敵か味方かなどを簡単に決めつけずに、考え続ける努力が必要だ。

 正解は、白か黒かではなく、その間のグラデーションのどこかに存在するのではないだろうか。       (2024.10 記)

     *

 ゆうわファミリーカウンセリング新潟(じーじ臨床心理士・赤坂正人・個人開業)のご紹介

 経歴 1954年、北海道生まれ  

    1977年、浦和、新潟家庭裁判所で家庭裁判所調査官として司法臨床に従事  

    2014年、放送大学大学院修了(臨床心理学プログラム・修士) 

    2017年、臨床心理士

 仕事 個人開業で、カウンセリング、心理療法、家族療法、遊戯療法、メールカウンセリング、面会交流の援助などを研究しています

 学会 精神分析学会、遊戯療法学会会員

 論文「家庭裁判所における別れた親子の試行的面会」(2006、『臨床心理学』)、「家庭裁判所での別れた親子の試行的面会」(2011、『遊戯療法学研究』)ほか 

 住所 新潟市西区・北海道東川町(夏期)

 mail  yuwa0421family@gmail.com    

コメント

犯罪容疑者とカメラ目線の関係(?)について考えてみる-じーじのじいじ日記(2024・12・3)

2024年12月03日 | じいじ日記を書く

 2024年12月3日の日記です

     *

 テレビのニュースを見ていると、犯罪の容疑者が勾留のために手錠をして警察の車に乗る場面をよく見る。

 じーじが違和感を覚えるのは、その時に容疑者がみんなカメラのほうを見ることだ。

 マスコミのカメラが目立つのか、それとも他の理由があるのかはよくわからないが、容疑者の人たちは、警察の建物から出てきた途端、瞬時にカメラに気づき、目をそらしたり、顔をそらしたり、あるいは、カメラを見つめたり、時には、カメラに手を振ったりする。

 よくあんなに素早く気づくものだな、と感心するとともに、何か不思議な感じも受ける。

 本当に反省をしているならば、うつむいて、目を伏せて、手錠を見つめるなどして、歩くのではないかな?と思ったりする。

 じーじは、そういう光景を見ていると、容疑者の人たちは、ひょっとすると、他人の目線に敏感な人たちなのかな?と想像したりする。

 他人の目線を気にして生きてきた人たちが、何かでつまづいた時に、犯罪に走りやすいのかな?と妄想(?)したりする。

 何かの理由で、自分に自信が持てない人や他人に影響されやすい人が、困難に直面した時に、本来の自分を保てなくなってしまい、犯罪のハードルが下がってしまって、犯罪に走るのかな?と推測(?)したりする(なんのエヴィデンスもないですが…)。

 じーじも小心者で、まわりをよく気にするほうなので(?)、余計、気になるのかもしれないが、少し異常な感じも受ける。

 犯罪容疑者とカメラ目線の敏感さには、何か関係があるのかもしれない、と思うのは、小心者で、まわりを気にして生きているじーじ(?)だけなのだろうか?

 ひょっとすると、似たもの同士なのかもしれないなあ(?)、と思ったりもする。

 テレビを見ながら、つまらないことに気づいてしまい、それが気になってしょうがない最近のじーじである。       (2024.11 記)

  

コメント

カウンセラーが、生き残ること、ということについて考えてみる-精神分析に学んだこと、一つ、二つ

2024年12月02日 | 心理臨床を考える

 2024年10月のブログです

     *

 カウンセラーが、面接場面で、生き残ること、ということについて、少し考えてみる。

 カウンセリングや心理療法が始まると、初めは、クライエントさんがカウンセラーに信頼感を寄せて、面接場面でも良好な関係ができる。

 しかし、面接が進んで、クライエントさんが、なんでも話しても大丈夫、と安心ができると、次第に、クライエントさんの困っている人間関係や悩んでいる人間関係のあり方が面接場面に出現してくる。

 クライエントさんは、ふだん抱えている不安やおそれ、怒り、攻撃など、日常生活の中で周囲の人に出すと危険な感情をカウンセラーにぶつける。

 その時、カウンセラーは、面接場面で、クライエントさんの感情に巻き込まれ、フラフラの状態になりながらも、言い逃れや報復などはせずに、生き残ること、が大切になる、と精神分析は説明する。

 カウンセラーが、クライエントさんの激しい感情の渦の中に巻き込まれながらも、専門家として、辛く、苦しいであろうクライエントさんの心情を少しでも理解をして、その場に、生き残る、ことが重要な仕事になる。

 クライエントさんは、ふだんは周囲に感情をぶつけて、失敗し、傷ついている経験が多いだろうが、面接場面でカウンセラーに感情をぶつけても、人間関係が壊れないことを経験する。

 クライエントさんが日常生活で、フロイトさんのいう、反復、をしてきた人間関係の破綻が、面接場面では破綻しないことを経験することで、クライエントさんの辛く、苦しい反復に変化が起こる可能性が生じる。

 ここが、カウンセラーの堪えどころであり、勝負どころだろう。

 カウンセラーが、面接場面で生き残ること、は、カウンセラーを護ると同時に、クライエントさんをも護る。

 クライエントさんは、その護りの中で、それまでの辛く、苦しい反復を少しだけ変化させ、日常生活での人間関係が変化することに繋がるかもしれない。

 カウンセラーが、面接場面で、生き残ること、は、このようにクライエントさんの心的成長にとても大切な仕事なのだろうと思われる。      (2024.10 記)

     *

 ゆうわファミリーカウンセリング新潟(じーじ臨床心理士・赤坂正人・個人開業)のご紹介

 経歴 1954年、北海道生まれ  

    1977年、浦和、新潟家庭裁判所で家庭裁判所調査官として司法臨床に従事  

    2014年、放送大学大学院修了(臨床心理学プログラム・修士) 

    2017年、臨床心理士

 仕事 個人開業で、カウンセリング、心理療法、家族療法、遊戯療法、メールカウンセリング、面会交流の援助などを研究しています

 学会 精神分析学会、遊戯療法学会会員

 論文「家庭裁判所における別れた親子の試行的面会」(2006、『臨床心理学』)、「家庭裁判所での別れた親子の試行的面会」(2011、『遊戯療法学研究』)ほか 

 住所 新潟市西区・北海道東川町(夏期)

 mail  yuwa0421family@gmail.com    

コメント

沢木耕太郎『深夜特急3-インド・ネパール』1994・新潮文庫-ひとり旅を読む

2024年12月02日 | 沢木耕太郎さんを読む

 2018年のブログです

     *  

 沢木耕太郎さんの『深夜特急3-インド・ネパール』(1994・新潮文庫)を再読しました。

 先日、ロンドンに着いた第6巻を読んだ後、次はどこに行こうか(?)どっちを読もうか、と迷いましたが、結局、第3巻の本書を読むことにしました。

 沢木さんのインドの旅は、忘れっぽいじーじでも、なんか悲惨な印象が薄っすらと残っていて、やや敬遠していたのですが、ネパールの旅に興味があって読んでしまいました。

 読んでみると、やっぱりインドの旅はかなり悲惨で、しかし、それを冷静に描写する沢木さんのすごさを感じました。

 インドの悲惨さの中で、唯一、希望が感じられたのが、アシュラムという孤児院の存在。

 日本からボランティアで来ていた大学生らとのインドの子どもたち相手の生活は、その地の自然の美しさとともに印象深いものでした。

 希望を失い、無感動になっている子どもたちが、だんだんと子どもらしくなる姿は感動的です。

 特に、小さな女の子が、小さな髪飾りを見て、生き生きとして感情を取り戻していくさまは素晴らしいものがありました。

 おとなが逆に子どもに、大切なものを教えられるところがすごいですし、それを文章にできる沢木さんの感受性がすばらしいと思いました。

 一方、ネパールは予想どおり、日本に似て、インドに比べると温和な土地のようですが、あまり大きなできごとはなく、通過します。

 そして、再度のインド、やはり強烈です。

 しかし、病気で倒れ、宿がなく、やむなく安宿の女性用の部屋で寝ていた時のできごとは美しいです。

 沢木さんを心配したフランス女性が静かに眠るために向こうのベッドで洋服を脱ぐ場面は、映画を観るように美しい描写で、じーじでもその想像の美しさに息をのんでしまいました。

 旅はやはりハプニングがあるから面白いですよね(もっとも、じーじのひとり旅では、財布を落とすような事件はあっても、美しい女性との思い出などはまったく起こりませんが…)。

 また、旅に出たくなりました。

 その前に、第2巻を読まねばなりません。

 そして、行方不明の第1巻を探さねばなりません。

 年を取っても、結構忙しいじーじの毎日です。        (2018.11 記)

 

コメント

赤ちゃんとお母さんの光景から-じーじが精神分析に学んだこと、一つ、二つ

2024年12月01日 | 心理臨床を考える

 2024年9月のブログです

     *

 赤ちゃんが泣いている。

 この時、赤ちゃんは、自分が不快な世界にいることはわかるが、なんで不快なのか、はわからない。

 そこにお母さんがやってきて(お父さんでも、お祖母ちゃんでも、保育士さんでもかまわない)、あらあら、どうしたの?おむつが濡れたのかな?と調べる。

 お母さんが、おむつじゃないわね、じゃあ、おなかがすいたのかな?と、赤ちゃんにおっぱい(ミルクでもかまわない)をあげると、赤ちゃんはごくごくと飲んで、満足をして泣きやむ。

 この時、お母さんが、赤ちゃんはおなかがすいていたのか、とわかると同時に、赤ちゃんも、ただただ不快な世界から、僕は(あるいは、わたしは)、おなかがすいていたんだ、とだんだん自分の感情が理解できてくる、と精神分析では考える(別に精神分析に限らないかもしれないが…)。

 おむつが濡れている時も同じ。

 おかあさんが、あら、おむつが濡れているわ、と言いながら、おむつを替えてくれると、赤ちゃんはただの不快な状態から、僕は(あるいは、わたしは)、おむつが濡れて気持ち悪かったんだ、と理解できる。

 こうしたお母さんと赤ちゃんのやりとりの中で、赤ちゃんは、快-不快だけの世界から、自分の状態を少しずつ理解できるようになるらしい。

 もちろん、お母さんだって、いつも適切に、おむつが濡れているのか、おなかがすいているのかはわからないので、ウィニコットさんは、ほどよいお母さんでよい、という。

 そして、赤ちゃんは時々、お母さんのはずれの行動に腹を立てるが、しかしそれでも、お母さんがずっと世話をしてくれるので、そこから罪悪感や感謝の気持ちが生ずるらしい。

 つまり、病的に完璧なお母さんより、おおらかな、ほどよいお母さんが大切になる、ということらしい。

 赤ちゃんとお母さんの光景から、精神分析が教えてくれる世界はなかなか深いなあ、と思う。       (2024.9 記)

     *

 ゆうわファミリーカウンセリング新潟(じーじ臨床心理士・赤坂正人・個人開業)のご紹介

 経歴 1954年、北海道生まれ  

    1977年、浦和、新潟家庭裁判所で家庭裁判所調査官として司法臨床に従事  

    2014年、放送大学大学院修了(臨床心理学プログラム・修士) 

    2017年、臨床心理士

 仕事 個人開業で、カウンセリング、心理療法、家族療法、遊戯療法、メールカウンセリング、面会交流の援助などを研究しています

 学会 精神分析学会、遊戯療法学会会員

 論文「家庭裁判所における別れた親子の試行的面会」(2006、『臨床心理学』)、「家庭裁判所での別れた親子の試行的面会」(2011、『遊戯療法学研究』)ほか 

 住所 新潟市西区・北海道東川町(夏期)

 mail  yuwa0421family@gmail.com    

コメント