写真は平泉中尊寺の山道から北上川のほとり、
昔、奥州藤原氏の居館があったとされる場所を見下ろしたところ。
右手の山は、このあいだ触れた束稲山です。
こうやってみてみると、北上川の水利によって
京都や関東などの諸地域との物資のルートが保たれていた様子がわかります。
奈良期に大仏に金箔を施すのにたぶん、奥州の金箔が使われ、
このルートが重要なルートになり、
義経の時代にも、「金売り吉次」が活躍したように、
東北は、なによりもこの金の産出によって特徴づけられたのだと思います。
現在でも、金の字のつく地名が多く残っていますね。
こうした東北に対して、関東の武装開拓勢力、源氏の武士団が
権力争いに介入していったのが、前九年・後三年戦争だったのでしょう。
たぶん、そこに大きな利権のニオイをかいで
あわよくば勢力を拡大しようというのが源氏の連中の狙いだったのでしょう。
で、この合戦の結果、平泉を首都とする奥州藤原独立政権が誕生する。
この武権の成立によって、奥州は他地域からの介入から免れます。
東北はまた、一方で「北の海道」によって
沿海州の民族とのつながりが密接だったようです。
西南日本は、中国との貿易立国型の国づくりを志向する傾向が強いのに対して
「渤海国」とのアジア北方の交流は、相当のものだったのではないかと推測できます。
鎌倉時代に描かれた時事絵詞に、北方の「金髪・異形」の人物が
遠江で、山賊の一味として描かれたイラストがありましたが、
秋田や十三湊などの東北北西岸から、北海道、サハリン、という
比較的安全な海路による交流は相当に根深かったと思われるのです。
そうした富も、この平泉の藤原氏によって統括され、
きわめて独立性の高い国家が出現したのではないかと思うのです。
日本の歴史の中で、敗者側としてはたぶん一番近い歴史時間である
この東北地域の権力のありよう、経済のありようなどに
強く引かれている、昨今であります。
負けた側の歴史もまた、掘り起こせば起こすほど興味が強くなってきます。