写真は富山県が作成した「環日本海諸国図」です。
これからの日本の進路を考えていくポイントとして、
地政学的な位置関係の把握って、きわめて重要だと考えています。
そういうことなので、許可をいただいて講演などで使用させていただくことにしました。
従来の日本を中心において、むしろ太平洋が大きい、南が下の地図ばかりの発想では
行き詰まってくるのではないか、という思いがあるのです。
そんななかで、いまは歴史についても
日本中心だけの見方ではなく、ひろい北東アジアの交流のなかで
日本列島の社会発展のプロセスを見直すべきだと思っています。
東北の歴史にいろいろと取材して、(っていっても個人としてですが)
この写真のような視点でみると、沿海州地域からサハリンを経由して、
蝦夷地(北海道)、さらに日本海北西部に至る沿岸伝いの海の道が見えてくる。
また、基本的には中国が、この地域の中でその文化発展の中心だったことは
火を見るよりも明らかであって、
中国に隋とか、唐とかという強大な国家が成立して、
この列島社会は、その社会システム、国家概念自体、法制度から、
文書主義による運営システムに至るまで徹底的に「直輸入」した。
それが遣隋使、であったり遣唐使だったのですね。
文字は日本社会では成立せず、中国から輸入し、
国を挙げて、文書主義にどっぷり浸かって、官吏として栄達するためには
小さいときから勉強しなければダメだ、というシステムを作ってきた。
奈良期の官吏が、こどもの勉学への態度を嘆いている記録があって
この社会では一貫して、この勉強主義が根強いことを
伝えてくれていました。笑えるけれど、本質的には
国の基本システムまでそっくり丸ごと直輸入したのだから、
「勉強して、身につける」しかない、という価値観がきわめて強い社会が出来上がった
ともいえるのだと思うんです。
こういう位置関係の中で、朝鮮は中国を宗主国として歴史的に奉じてきて、
一方、日本は「日、出ずる国の天子、日、沈む国の天子にいわく、・・・」
という、なんとも「礼を失した」スタンスを取ろうとしてきた歴史。
中華に対して、小華たろうと、大帝国に対して、小帝国たろうとしてきたのですね。
秀吉や明治~戦前に至る各時代の妄想の根源に、こういう列島社会の隠れた願望が
根強く横たわっている気がしてなりません。
まぁ、言ってみればコンプレックスの裏返しなんでしょう。
そうしたコンプレックスが根本的にひっくり返ったのが、
西洋近代社会と、この東アジア世界が再会を果たした時期。
日本はとにかくも明治維新で近代世界に参入し、
一方、中国は事大主義の殻の中から脱せず、
結局、事実上の植民地に落ち込んでいったなかで、
いち早く「丸ごと社会システムを導入する」ことについては
歴史的に経験している分だけ、日本社会の方が近代世界への対応が素早かった。
まぁ、社会の規模と歴史文化が小さく、浅い分だけ、対応力も柔軟だったのでしょう。
というような歴史的な雑感が、この1枚の地図から
湧き出るようにいろいろ、浮かび上がってきます。
この地図を見ると、関東地域って言うのは、はるかに太平洋をはさんで、
アメリカと対面しているわけで、
首都の位置関係による国際感覚というのも、大きいかも知れませんね。
京都が首都の時期というのはやはりアジア世界とのつながりが濃厚。
みなさん、この地図、どんな印象を持たれますでしょうか?