写真は十三湊の歴史資料館で見た江戸の頃の古地図。
十三湊というのは、隣接する汽水湖・十三湖を介して内陸の津軽地方の
玄関口を成していることを表現しているようです。
岩木川がそういう水運に使われていただろうことは明らかですね。
なので、きのう触れたような五所川原の街の産業が古代から
発展する素地があった。
五所川原で生産された須恵器土器が、十三湊を介して
広く北方世界に、っていうか、北海道地域に
輸出されていった、というワケなんですね。
北海道生まれのわたしなんかにしてみると、
こういう考古的年代から、人文的歴史ともつながってくる具体的な
証のような状況が明らかになってくるのは、ワクワクする世界。
北海道の歴史は、明治以前は文字を持たない人々の世界なので、
具体的なイメージを把握することができない。
シャクシャインの反乱から、蠣崎(松前)氏の支配というような時代まで、
なかなか、具体的な事実関係が見えてこないのですね。
郷土にそういう「よすが」がないというのはちょっと寂しいものなんです。
でもその分、想像力を働かせるしかないので、楽しみもあるとは言えますが・・・。
そんななか、やはり一番近い地域から、
交流の痕跡が見えてくると言うのが単純にうれしい。
可能な限りに須恵器土器を満載した船で岩木川を下っていって、
十三湖にたどりつき、十三湊に出て、そこで荷物を海上輸送用の船に積み替える。
そこから津軽海峡を越えて、歴史年代的には「檫文文化人」の世界に運び込まれる。
この間で、どのような交流があり、
どのような交易実態が展開したのか、興味が深くなってきます。
9世紀から10世紀の時代と言うこと。
ちょうど日本の時代区分で言えば、平安時代になりますね。
もちろん、この時代、津軽地域には日本の国家制度は及んでいないとされる。
しかし、農耕文化が行われていないとは言えない。
コメ生産が定常的に営まれていたのかも不明。
しかし、弥生時代のコメ生産活動の遺跡などは津軽地方で発見される。
日本の国家拡張活動は、ようするにコメ生産システムの拡大をあらわしているとも言えるので、
律令国家体制で、その体制の中に組み入れられていないと言うことは、
コメ生産はあったとしても、ごく限定的なものだったのでしょう。
そういう状況のなかでの経済交易は、
どのようなものであったのか、
わざわざ、交易品としての須恵器土器生産工房を作るということは
かなり目的的な行為ということが出来ます。
その交易実態をもっと知りたくなります。
きっと、失われている北海道の地域の記憶、というような思いが
こんなことに興味を掻き立てられている一番の動機なのでしょうね。
きわめて限定地域的な興味で、多くの地域のみなさんには申し訳ありません。
でもやっぱり、まだまだ、こういうテーマ、止められません(笑)。
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