兵庫県知事さんから
「画面が汚い」という指摘を受けたNHK大河ドラマであります。
わたし、歴史好きなのに、しばらくは大河ドラマ見ておりませんでしたが、
ことしは坊主とともに見始めております。
県知事さんの意見もわからなくはないのですが、
しかし、あえてああいう画面演出をしていた意図はすぐに理解できました。
日本に天皇権力による中央集権国家が成立したのが
天武による壬申の乱を経たあとというのが通説。
672年のこと。そこからようやく律令体制という形式がスタートしたと思われる。
で、この清盛の時代、1118年~1181年のころには、
450年近い年月が経過しており、
完全に制度として疲労し、
京都の都の荒廃ぶりはすさまじかっただろうと思うのです。
こういう王朝国家の経済運営というか
税金の取り立て体制と、その使い道がどんなものであったのか、
詳らかに明らかにした仕事は読んだことがないのですが、
そのころの庶民にしてみれば、ひとびとを稲作農業に
強制的に従事させるのが基本政策。
でも、そこから逃げ出す人が多かったとされている。
公地公民というのは、後世のわれわれからすると、
土地の権利関係からするとなにかいい制度のように思うけれど、
民にとって見れば、土地に強制的に縛られる制度、
一種の奴隷制度に近かったのだと思うのです。
そういう体制のトップに天皇が存在し、摂関家藤原氏などが、
税収を、あまり公的とは思えない使途で使っていたのではないでしょうか?
こういう財政経済的な側面からの歴史研究って、
わたしの不勉強もあって、あんまり見たことがない。
でも結果としては、そうした公地での農作業から忌避して
逃散する大衆の存在が大きな問題になっていくし、
むしろ、大寺社や摂関家などに新規開拓した農地を寄進して
経済的解放区としての「荘園」を作る流れがどんどん加速していた。
国家の経済運営末端という存在から、
自由になった方が「まだマシだ」、と考えるひとが増えていった。
一方で、そうした逃散民たちは人口の調整装置としての都市、
都になだれ込んでいったのだろうと思います。
そこで治安が大きな問題になっていったのが現実の姿だろうと思うのです。
また、政治運営の側でも公的なシステムが機能不全を来して、
令外の権力運営組織形態として、「院政」というものが存立基盤を持った。
その権力を維持するための「暴力装置」として
武士が重要度を増していった。
たぶん、京都の治安維持がかなり切迫した問題になっていたのだと思うのです。
このドラマ以前の平安期、八幡太郎義家が、
都周辺で、武名を上げていたという記録文での記述があって、
大きな戦争もない中で、どこで武名を上げるんだろうと不思議だったのですが
たぶん、そういう治安維持での出動機会が多かったのだと思います。
で、このドラマでは、
そういった治安の不安な雰囲気が良く出ているなぁ、
という新鮮な興味を強く持った次第なのです。
王朝国家の映像と言えば、きらびやかな映像が第1印象として想起されるのですが
そういう固定観念をぶち破ってくれていて
まことに痛快な気分がしてきます。
考えてみれば、その後の源平の争乱期って、
こうした民衆の動向と、社会の雰囲気が基底にあっただろうことは
ありうべき想像力の自然な流れだと思うのです。
そういう意味で、兵庫県知事さんとはやや、受取りかたに違いがあります(笑)。
いいんじゃないでしょうか、
知事さんの思い込みなど、どんどんぶちこわして
新鮮な清盛像を造形していって欲しいと思っています。